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三節 二人だけになりました。

010 彼女から、離れたくなかった。

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 家に帰って来た広海たち。居間の壁にかけてある時計は、ピッタリと重なっていた。もう正午になっていたようである。

「……シャワー、浴びてくるね。……絶対、見ないでよ?」
「言われなくても見ない」

 道徳心があるかどうかは関係なく、社会の中にいる身として守らなければならないことである。盗撮が許されているのは漫画の中だけだ。

 真っ白のたたまれたバスタオルを持った幸紀は、洗面室の中へと消えて行った。ガラガラと、扉が閉まった。

 ……腹、減ったな。

 何も補給せずに外を長時間ほっつき歩いていたのだ、そろそろ昼食の食べ時だろう。

 しかしながら、事前にコンビニ弁当やファストフードを購入して持ち帰っていたという事は無い。食材は冷蔵庫に保存してあるだろうが、加工食品となると数えるほどしかない。

 炊飯器が、ピーと湯気を上げている。朝の内から白米を焚いていたので、主食には困らなさそうだ。

 ……どうしようかな、買ってこようか……。

 今日くらいは、家の財布からお金を少しばかり抜いても文句は言われないだろう。広海の小遣いは、残念なことに破綻寸前なのである。

 ただ、事情を知らない幸紀を家に一人で置いていくということもできない。置き手紙で察してはくれるだろうが、彼女と離れて単独行動をしたくない。

 ……あれ、俺今、幸紀と離れたくないって思った……?

 広海を頼っているのは、幸紀の方。井の中の蛙である彼女の交友範囲は非常に狭く、それこそ広海と広海の母親くらいなのだ。知っている人が少ないのでは、広海が一番頼れるとなるのだろう。

 しかし、これまでそういう感情があったとしても、広海の方から幸紀と分離させられることを不満に思ったことがあっただろうか。『幸紀を悲しませたくない』と他人中心の視点に立っていてそうしたことはあっても、自発的に幸紀を欲したことは無かった。

「……もう幸紀は、俺にとっての家族なんだな……」

 両親や兄弟姉妹との絆というものは、希薄であっても単なる友情とはけた外れの濃さである。と言うのも、家族は暮らしを共にしている場合が多く助け合って生活しているからだ。

 それでは、幸紀はどうだろう。ある日の夜に偶然出会い、広海の家に転がり込み、こうして一緒に生活している。まだ四日の付き合いだから、友人として彼女を見れば家族のそれとは数段劣るだろう。

 ……だけど、俺と幸紀は壁と空間を一つずつ隔ててるだけで、同じ家に住んでいる。

幸紀は、居候の身ということは記憶から消去すると、とても距離が近い。たった四日だろうが、十年間だろうが関係ない。同じ屋根の下で苦楽を共にしているのならば、それはもう家族だ。

「物置じゃなくて、幸紀の部屋だって吊り下げておきたいくらいだしな」

 独り言が、ポツリと漏れる。

 いつか、押し入れでなく畳の上に布団を敷き、枕を置いてそこで寝られる。それが幸紀にとって、どれだけ精神的に楽になるだろうか。

 ……幸紀がシャワーから上がってきたら、一緒に買い物に行こう。

 幸紀が洗面室へと舞台を移してからかれこれ一分ほど経過しているが、まだ数分はかかるだろう。広海のシャワーはカラスの行水と同じだが、幸紀はそれ相応の時間をかけている。

 待ち時間は数分間とはいえヒマなものはヒマだ。広海は、リモコンの電源ボタンを押した。

『ここで、明日の天気予報です』

 ワイドショーの途中らしく、この周辺地域の天気予報が画面に表示されていた。名古屋や大阪の地図が出てきていないので、ローカル番組なのだろう。

「……幸紀……」

 棒立ちでテレビに視線が釘付けになりながら、良き相棒となってくれている少女の名を呼んだ。

「……なーに?」
「……!?」

 肩をポンと叩かれて、まさかと思いながら背後を振り返った。髪の毛がしっとりとしてツヤが出ている幸紀が、クエスチョンマークを浮かべていた。

 ……シャワーに入るなら、数分はかかるはずなんだけどな……。

 体をサッと流して出てくるならまだしも、髪を念入りに洗うとなるとどうしても時間が必要なのである。全身の水分を吸い取るロスも含めると、もう少し猶予はあったはずなのだが。

 幸紀をよく観察すると、普通みずみずしくなっているかふやけているはずの肌が、外で見た時と変わっていない。水を含んでいる様子はどこにもない。

「……シャワーするの、早いな」
「……え!? 髪を洗うだけだから、これくらいじゃないの?」

 もしかすると、いやもしかしなくても、広海が大きな勘違いをしているような気がする。

 ……『シャワーで髪を洗う』って、額面通りか……。

 夕食後の入浴を想像していたが、ただ絡みついた細かい髪の毛を落としていただけのようである。

「……具体的に、どうやってやってた?」

「変なこと聞くなあ……。お風呂場に入って、上手い事頭だけに水流が当たるようにしてただけだよ? 夜にまとめて洗うから、シャンプーとかはしてないけど」

 大きいバスタオル、入るなと言う幸紀からの念押し、わざわざ洗面室の扉を閉めていく……。様々な要因が交わり合って、あらぬイメージが浮かんでしまっていた。大反省会行き待ったなしである。

「……何か気になったことでも、ある?」
「いいえ全くございません」

 幸紀とて、広海のしょうもない弁明と経緯を延々と説明されてはたまったものではないだろう。世の中には、知らなくても良いことは山ほどあるのだ。

 ……黙っておくか。

 勘違いしないような語句の使用を求める権利は、広海にはない。

 幸紀のシャワーが一件落着したところで、広海の腹からけたたましく食べ物を欲している音が鳴った。

「……むむむ? そっか、もうこんな時間なんだね……」

 幸紀はお腹の部分を手でさすりながら、再び分離して動き始めていた壁掛け時計に目をやった。時刻は、十二時五分といったところであった。

 台所には、何も置かれていない。広海お気に入りの唐揚げ弁当も、幸紀にあげたツナマヨおにぎりも、用意はされていない。

「幸紀、昼飯買ってくるの忘れたから、良かったら一緒に……」
「広海、聞いてなかったの? 『私が作ります』ってお母さんに言って、やらせてもらうことになってる、って」

 そんなことは初耳だ。長男である広海を差し置いて実の親と共謀するとは、なかなかのやり手である。こういう人が敵の軍師になると、厄介なことこの上ない。

 そしてそれが事実だとして、もう一つの疑問が新たに湧き出てきた。

 ……幸紀は、料理できるのか?

 芋を掘り当てたからと言って、水洗いでそのまま食べるのは能が無い。それに、水洗いだけでは食べられない種類の芋も存在する。食べられるものだったとしても、そのままではイマイチだ。

 そこで美味しく頂けるようにと人間が発明したのが、料理という方法なのだ。調理方法、味付け、盛り付けを工夫して、味覚でも視覚でも楽しく食べられるようにする技術には、限りが無い。

 その道を突き詰めると、コックや料理店長といった座になる。料理で代金をいただくのだから日々技術を研鑽して高めていかなければならないが、それだけ料理には感動が生まれる。

「……そんな怪しい目で見ないの! 腕を疑ってるなら、これから見せてあげるから」

 そんな料理だが、手順を一つ前後させるだけで破壊的な味にも変化させることが出来る。よくありたきりの食材を駆使して食えたものではない色にしている写真があるが、だいたいは食紅の入れすぎである。青いシチューなど、誰も食べたくはない。

 漫画のワンシーンに気絶するほど不味いものを作るキャラが登場することがあるが、現実で再現しろと言われても無理がある。せいぜい一般人に出来るのは、焼きすぎて灰にするか塩と砂糖を間違えるくらいである。

 幸紀が最後に料理という作業を行ったのは少なく見積もっても九か月、イコール街を漂流していた期間だ。

「幸紀、料理の経験は……」
「中学生でやったことあるから、安心しててね!」

 どこからか丁度良いサイズのエプロンを引っ張り出し、何故か赤い文字で『必勝』と書かれているハチマキを頭に巻いた幸紀。気合が入っているのはよろしいが、情熱が別の形となって広海の前に現れないことを祈る。

 ……『中学校でやった』って、家庭科の授業のことを言ってるんじゃないよな……?

 中学校の調理実習は、料理の経験には実質入らない。反復しなければ、感覚は忘れていくからだ。テニスで一か月おきに練習をしていても体がついてこないのと同じことだ。

 広海の不安をよそに、幸紀は冷蔵庫から肉のパックを取り出した。その後も、手際よく食材がキッチンに並んでいく。

「さてさて、今日の献立はー、秘密だよー!」

 すっかりノリノリになっている。安定から追放される前の幸紀も、このようにクラス内でも明るい人気者だったのだろうか。

「……俺が見守ってようか?」
「広海は、一旦広海の部屋に戻ってて? 全部、お楽しみってことで」

 広海の手助けは必要ないと一蹴された。

 自分から提案しておいて何なのだが、それこそ砂糖と塩の入れ間違い以外に指摘できるところが無い。肉が生焼けでピンク色の部分が紛れ込んでいたとしても、見過ごしてしまいそうだ。

 出る幕が無い。そう悟った広海は、すごすごと二階へ引き下がった。
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