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7日目

028 純真さ

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 登校中に、何も起こらないこと。彩のトラウマ緩和の絶対条件である。工事中の落とし穴にハマるくらいなら彼女も許容してくれるだろうが、街のヤクザに捕まりでもしようものなら大変だ。窓を二重窓に改築して、より引きこもってしまう。

 彩が外界の空気に触れようとしなかったのは、通学途中に因縁を付けられた思い出があるから。ボールが足元に転がったことを口実に、財布を強奪されそうになったこともあるのだ。虐めの範疇を飛び出して、強盗という犯罪になる。

 幸いにも、中学時代のトラウマ軍団は航行と反対側の住宅地。警察を無視して免許を偽造する肝っ玉は持ち合わせていなかったらしく、バイクでの遠征を目撃したことは無い。鉢合わせする可能性はゼロに近いと断言していい。

 ……彩、ずっと震えてるな……。

 外へ一歩出てからというもの、彩は全体を硬直させている。季節は雪のちらつく冬ではあく、太陽が陰になる初夏。震えているのは内部の異常だ。不可逆的な、過去に受けた行為による。

「……どうしても耐えられなくなったら、遠慮なく言えよ。崖の上から突き落としたいわけじゃないんだから」

 一言二言、声をかけておく。陽介に出来る最大限の配慮だ。

 コップに、過去の産物となった劇薬が安置されている。少量の水で溶かすと、たちまち神経を麻痺させる猛毒水の誕生だ。飲んだ人は皆、救急車の赤いランプを光らせる。

 除去するための中和剤は、高価が故に一般庶民には手が出せない。一生働いて受け取る紙切れの賃金で、ようやく買える代物なのである。資本主義の闇をここに見た。

 彩という少女の体内で循環している水分は、猛毒水そのもの。各部位の細胞に浸透してはトラウマのことを刷り込み、記憶を不変のものにしてしまう。ミネラルウォーターも、炭酸飲料も、体内に入ればたちまち仲間になる。

 この状態を、どうにかして解消する方法。貧乏人の陽介でも、たどり着けた新天地。それは、中和して消し去るのは難しくとも、大量の水で薄めて濃度を下げることだった。

 ここで過ぎ去ったことを忘れさせるつもりは無い。外の空気への耐性がほんの少しつけば、それでいい。高校に通うには、それで十分なのだから。

 緑が生えて久しい、大型の公園が前方に見えた。幼稚園にも保育園にも通っていないちびっ子たちが、呑気にボールを回している。

 ……俺たちは、幼稚園に収容されてたんだよな……。

 『入園』ではなく、『収容』。自由がある程度制限されるのはもちろんのこと、外遊びの時間が著しく短かった。保護者の声を受けての改悪だったらしいのだが、子供には知ったこっちゃない。小さい声を汲み取れない大人に、抑えつけられていた。

 彩も同じ感想を抱いていた。彼女には、食事の時間に園を抜け出し、公園で捕獲された経歴がある。水入りバケツを両手に持たされて廊下に立たされたのは言うまでもない。時代に逆行する施設だったことに間違いは無いようだ。

『……危なーい!』

 かん高い金切声で、意識の深部に潜ろうとしていた陽介はたたき起こされた。目覚ましを耳のすぐ横に置いておくのは感心しない。飛行機の離陸音で鼓膜が破れ、病院送りになった苦い過去を持っている。

 警告が飛んできた方を振り返ると、真っ青のビニルボールが落下してくるところだった。

『ボスン』

 ボールは陽介を追い越し、目をつぶって補導者の赴くがままになっている彩に命中した。中身が空気なので、弾んで道路へと飛び出していく。エンジン音も車体の兆候も見られず、取りにはいかなかった。

 ジャブの一撃でスイッチが入ってしまったのが、彩だ。彼女に大切なのは、『ボールを当てられた』という事実。経緯はどうだっていいのだ。

「……ボール……、当たった……」
「いじめっ子じゃない。公園、よーく見てみろよ」

 陽介に促されて、彩は犯人のいる方へと顔をあげた。未知の世界を知ろうとしなかった彼女が、自らの意志で目を開いた。

 見る者全員を不安のどん底に陥れる、彼女の闇目。光すらも逃れられない、ブラックホールの親戚。時代が時代なら、魔女の称号を覆いかぶされて火にあぶられていたこtこだろう。

「……すみません……」

 ボールを遥か彼方まですっぽ抜けた女の子が、小さな足で駆け寄ってきた。浅くお辞儀をして、不思議少女の瞳をまじまじを見つめた。

 ……怖がらないといいけど……。

 幼い子供たちの腰が引けてしまうようなら、陽介が代役で事を済ませてしまった方がいい。自尊心を傷つけてしまうと、後の回復が見込めなくなる。

 自身を肯定出来ないから、ネットの掃きだめが生まれる。未来を明るくすることより、現実逃避を選ぶ。努力を忘れて腕にのみ物を言わせてきた末路は、総じて良くはない。

 陽介の思案は、杞憂に終わった。

 ナチュラルな彩の視線を受けて、それでも、彼女は歩み寄った。依然として陽介にもたれかかる彩に、謝罪の色を見せていた。

 その顔は、申し訳なさで埋め尽くされていた。闇に怯えて引き返そうとする意志は、何処にも見受けられなかった。

「……次からは、……気を付けて……ね」

 人の顔色を伺う年頃になって、色褪せてしまった無垢の心。透明なガラス球をまだ所持している子供たちに、彩も二本の足で立っていた。補助無しで、外の地へと降り立っていた。

 この子たちからすると、彩も十分お姉さん。小柄な身で、優しい言葉をかけてくれている。瞳の色ごときで、判断が百八十度変わる大人では無かった。

「はいっ!」

 威勢のいい返事を返して、またペコリと一礼。次の瞬間には、もう公園へと向き直っていた。ボールを拾いに行った子も、ケガなく戻って来れたようだった。

 ……子供からしてみたら、誰でも『お姉ちゃん』だもんなぁ……。

 幼少期の子供は特権として、誰にでも接することが出来る。銭湯で保護者と同じところへ付いていけることが多く、性差を感じるか感じないかの一歩手前。好きか嫌いかのに極端な物差ししか持っていない彼らは、独り身でどこにでも入り込める。

 近所の人でも、通りすがりの若者でも、政治家でも……。近づいて質問を投げかけられる。

 そして、区別が無い。目が腐っていようと、職務を兼任する多忙な生徒会長であっても、平等に『お兄さん』『お姉さん』なのだ。権力とお金の味を知らない、純粋な頭が起こす奇跡である。

 無口で闇を抱える近寄りがたい少女彩は、ボールを当てても優しく返してくれるお姉さんだったのだ。幼稚園の学級が平和なのも理解できる。

 公園から、遊んでいる子供たちが手を振ってくれていた。眼差しは彩に集中し、陽介には目もくれていない。スポットライトの中央を盗む気は無いが。

「……可愛い……。……嬉しい……」

 定位置へと戻った彩が、そうつぶやきを漏らした。押し寄せる波が大きすぎて、防波堤を乗り越えてしまったようだ。

 他人に認めてもらう。このことが、いかに彼女を励ますか。否定されては嫌がらせを受け続けてきた彩の自尊心を、どれほど再構築できるのか。硬貨は計り知れない。

 ……犬も歩けば棒に当たる、って言うけど。

 国家が一個消し飛ぶほど大きな掘り出し物に当たったものだ。何せ、周辺地域の地面を掘って、ダイヤモンドが噴き出してきたのだから。

 彩の浮遊感が抜けるまで、陽介が物理的な重みを背負わされたのは副作用ということにしておこう。
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