波音のように囁いて

真木 新

文字の大きさ
上 下
1 / 17

しおりを挟む
 教室に静かに響く低音の声。それは大きく弧を描くメトロノームのように耳に刻まれていく。

 矢野有希也(やのゆきや)が座る窓側の席には午後の日差しが射し込み、ダークブラウンの髪を透かしていた。
 やがて背の高い矢野には手狭な木製の机はベッドに、開かれたままの教科書は捲られることなく枕に変わる。
 高校三年の秋という受験を控えた大事な時期、授業中に居眠りをしているのは教室中を探しても矢野くらいだ。だからといって矢野は授業がつまらない訳でも、教師に反抗心を持っている訳でもない。ただ、この優しく透き通る声を聞くとどうしても瞼が重くなってしまう。

 静まり返った教室で短編小説の一節を音読する声の主、国語教師の葉崎誠(はざきまこと)は眠り続ける矢野を横目に咎めることもせず、穏やかに授業を進めている。
 それでも決まって矢野が心地よい睡眠から引き剥がされるのは、子守唄のような声の主から指名されるときだった。

「――矢野くん」
 深い眠りに入った矢野の耳には羽で撫でるような葉崎の声は届かない。後ろの席の男子生徒が「矢野」と小声で呼びながらシャープペンシルの先で丸まった背中を突いてやっと、ピクリと体を震わせて目を覚ました。
 ゆっくりと体を起こした矢野が目にかかりそうな前髪の隙間から見上げると、困ったような笑顔の葉崎と目が合う。もう何度も目にしてきた、眼鏡の奥の穏やかな瞳。
「おはようございます。問題集の四十五ページの問六ですが、わかりますか?」
「……わかりません」
 矢野はバツの悪そうに頭を掻きながらぼそぼそと答える。
「はい。では後ろの多田君」
「矢野てめぇ……」
 矢野の代わりに指名された生徒が小声で悪態をつく。矢野は「悪い」と呟き、問題集をパラパラと捲った。

 ことさら国語の授業中に起こるこのようなやりとりは、葉崎にとってもクラスメイトにとっても見慣れた光景となっている。
 さすがの葉崎も初めはやんわりと注意をしていたが、矢野の居眠りが改善することはなかった。
 寝ているだけで周りに迷惑をかける訳でもないし、卒業後は家業に入るために大学受験をしないらしいので成績が悪くてもさして問題はないと判断されたようだ。それに矢野の成績は特に悪いという訳でもなく中の下というところだった。

 やがてチャイムの音が静かな教室に響き渡る。さすがに二度寝はしなかった矢野だが、夢心地のまま授業が終わった。
 ざわめき立つ教室で矢野は重たい瞼を開けてぼんやりと一点を見つめながら頬杖をつく。聞こうとしなくても勝手に聞こえてくる賑やかな女子たちの会話がもう一眠りできそうな心地に水を差す。
「聞いたぁー? 高センと小川先生付き合ってるって!」
「うそっ、知らない知らない」
 高センというのは三年の授業を受け持つ数学教師で本名は高瀬光輝(たかせこうき)、小川先生は女性の音楽教師だ。
 矢野が一年のときに担任だった高瀬だが、そんな噂は矢野も知らなかった。特に興味のある話題ではないが、矢野は女子生徒たちとそれに便乗して騒ぐ男子生徒たちの声をなんとなく聞いていた。
「三組の子が週末二人で歩いているところ見たって」
「うわっ、マジかよ! 俺の小川先生が……」
「お前のじゃねぇから」
 騒ぎ立つ教室の扉が音を立てて開かれる。生徒たちは、ドアの前に立っている人物を一斉に注目し、シンと静まり返った。
 そういえば次は数学だったな、と矢野は教壇に上がった高瀬を見上げると何故か目が合ってしまう。
「矢野、また葉崎先生の授業で寝てたのか?」
 高瀬は自分が注目されている原因をわかっているようで、矢野に矛先を向けることで居心地の悪さをごまかしているようだ。
「……寝てないっす」
 面倒くさそうに矢野が答えると、高瀬の一挙一動を注視していたクラスメイトたちからどっと笑いが起きていつも通りのクラスの雰囲気へと戻っていく。
 だしに使われたようで少しムッとするも、元々感情の起伏の少ない矢野は授業が始まる頃にはどうでもよくなっていた。



 高瀬は熱血教師ともいえる明朗快活な数学教師。彼の授業で安眠などできる訳もなく、矢野は怠そうに黒板に書かれる筆圧の強い文字を目で追っていく。
 高瀬の口から葉崎の名前がよく出るのは、二人が大学時代からの友人であるからだ。学園内の人間関係に疎い矢野でも一年の頃から何度も耳にしているから知っている。
 明け透けな性格の高瀬が何気なく話した学生時代のエピソードをネタに、葉崎が生徒たちから囃し立てられ困惑する姿は幾度となく見られた。そのときの葉崎から普段の彼とは違った幼さのようなものを感じたのが印象的で矢野はよく覚えている。
 ぼんやりとそんなことを思い出しながら、矢野は黒板に書かれた計算式を解いていく。数学は苦手ではないが得意でもない。
「問三、矢野、解けたか?」
 呼ばれた矢野が見上げると、高瀬の見開かれた大きな瞳と目が合う。
「2√5です」
「はい正解。矢野は俺の授業はちゃんと聞いてるもんな。じゃあ次の問題は……」
 矢野の無機質な低い声に被さるようにいつも以上に大きな高瀬の声が教室に響く。寝ようと思っても落ち着かず眠れないというのが矢野の本音だ。
 高瀬のどこか浮き立つような様子は先ほどの噂話が原因だろうかと矢野は邪推する。中高年の教師が多い職場で独身の若い男女が恋愛沙汰になることは想像に容易いが想像はしたくない。いずれにせよ自分の知ったことではないが――

 散りかけた思考は六限目を終えるチャイムの音とともに完全に頭から離れ、矢野は騒がしくなる周囲に紛れて大きく伸びをした。
「それでは次回は八十五ページからやるので予習してくるように」
 高瀬がそう言葉少なに教室を去るやいなや、さっそくゴシップ好きの会話が飛び交う。
「高セン案外普通だったね」
「来週の小川先生の授業も楽しみだわー」
 受験勉強も佳境に入った今、二人の噂は生徒たちの息抜きには丁度いいネタになったようだ。これからしばらくはこの話題で持ち切りになり嫌でも続報が耳に入ってくるのだろう。矢野はうんざりしながら頬杖をついた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~

恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」 そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。 私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。 葵は私のことを本当はどう思ってるの? 私は葵のことをどう思ってるの? 意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。 こうなったら確かめなくちゃ! 葵の気持ちも、自分の気持ちも! だけど甘い誘惑が多すぎて―― ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。

ヤンキーDKの献身

ナムラケイ
BL
スパダリ高校生×こじらせ公務員のBLです。 ケンカ上等、金髪ヤンキー高校生の三沢空乃は、築51年のオンボロアパートで一人暮らしを始めることに。隣人の近間行人は、お堅い公務員かと思いきや、夜な夜な違う男と寝ているビッチ系ネコで…。 性描写があるものには、タイトルに★をつけています。 行人の兄が主人公の「戦闘機乗りの劣情」(完結済み)も掲載しています。

【BL】『Ωである俺』に居場所をくれたのは、貴男が初めてのひとでした

圭琴子
BL
 この世界は、αとβとΩで出来てる。  生まれながらにエリートのαや、人口の大多数を占める『普通』のβにはさして意識するほどの事でもないだろうけど、俺たちΩにとっては、この世界はけして優しくはなかった。  今日も寝坊した。二学期の初め、転校初日だったけど、ワクワクもドキドキも、期待に胸を膨らませる事もない。何故なら、高校三年生にして、もう七度目の転校だったから。    βの両親から生まれてしまったΩの一人息子の行く末を心配して、若かった父さんと母さんは、一つの罪を犯した。  小学校に入る時に義務付けられている血液検査日に、俺の血液と父さんの血液をすり替えるという罪を。  従って俺は戸籍上、β籍になっている。  あとは、一度吐(つ)いてしまった嘘がバレないよう、嘘を上塗りするばかりだった。  俺がΩとバレそうになる度に転校を繰り返し、流れ流れていつの間にか、東京の一大エスカレーター式私立校、小鳥遊(たかなし)学園に通う事になっていた。  今まで、俺に『好き』と言った連中は、みんなΩの発情期に当てられた奴らばかりだった。  だから『好き』と言われて、ピンときたことはない。  だけど。優しいキスに、心が動いて、いつの間にかそのひとを『好き』になっていた。  学園の事実上のトップで、生まれた時から許嫁が居て、俺のことを遊びだと言い切るあいつを。  どんなに酷いことをされても、一度愛したあのひとを、忘れることは出来なかった。  『Ωである俺』に居場所をくれたのは、貴男が初めてのひとだったから。

幼馴染みとアオハル恋事情

有村千代
BL
日比谷千佳、十七歳――高校二年生にして初めて迎えた春は、あっけなく終わりを告げるのだった…。 「他に気になる人ができたから」と、せっかくできた彼女に一週間でフられてしまった千佳。その恋敵が幼馴染み・瀬川明だと聞き、千佳は告白現場を目撃することに。 明はあっさりと告白を断るも、どうやら想い人がいるらしい。相手が誰なのか無性に気になって詰め寄れば、「お前が好きだって言ったらどうする?」と返されて!? 思わずどぎまぎする千佳だったが、冗談だと明かされた途端にショックを受けてしまう。しかし気づいてしまった――明のことが好きなのだと。そして、すでに失恋しているのだと…。 アオハル、そして「性」春!? 両片思いの幼馴染みが織りなす、じれじれ甘々王道ラブ! 【一途なクールモテ男×天真爛漫な平凡男子(幼馴染み/高校生)】 ※『★』マークがついている章は性的な描写が含まれています ※全70回程度(本編9話+番外編2話)、毎日更新予定 ※作者Twitter【https://twitter.com/tiyo_arimura_】 ※マシュマロ【https://bit.ly/3QSv9o7】 ※掲載箇所【エブリスタ/アルファポリス/ムーンライトノベルズ/BLove/fujossy/pixiv/pictBLand】 □ショートストーリー https://privatter.net/p/9716586 □イラスト&漫画 https://poipiku.com/401008/">https://poipiku.com/401008/ ⇒いずれも不定期に更新していきます

フローブルー

とぎクロム
BL
——好きだなんて、一生、言えないままだと思ってたから…。 高二の夏。ある出来事をきっかけに、フェロモン発達障害と診断された雨笠 紺(あまがさ こん)は、自分には一生、パートナーも、子供も望めないのだと絶望するも、その後も前向きであろうと、日々を重ね、無事大学を出て、就職を果たす。ところが、そんな新社会人になった紺の前に、高校の同級生、日浦 竜慈(ひうら りゅうじ)が現れ、紺に自分の息子、青磁(せいじ)を預け(押し付け)ていく。——これは、始まり。ひとりと、ひとりの人間が、ゆっくりと、激しく、家族になっていくための…。

十七歳の心模様

須藤慎弥
BL
好きだからこそ、恋人の邪魔はしたくない… ほんわか読者モデル×影の薄い平凡くん 柊一とは不釣り合いだと自覚しながらも、 葵は初めての恋に溺れていた。 付き合って一年が経ったある日、柊一が告白されている現場を目撃してしまう。 告白を断られてしまった女の子は泣き崩れ、 その瞬間…葵の胸に卑屈な思いが広がった。 ※fujossy様にて行われた「梅雨のBLコンテスト」出品作です。

初恋はおしまい

佐治尚実
BL
高校生の朝好にとって卒業までの二年間は奇跡に満ちていた。クラスで目立たず、一人の時間を大事にする日々。そんな朝好に、クラスの頂点に君臨する修司の視線が絡んでくるのが不思議でならなかった。人気者の彼の一方的で執拗な気配に朝好の気持ちは高ぶり、ついには卒業式の日に修司を呼び止める所までいく。それも修司に無神経な言葉をぶつけられてショックを受ける。彼への思いを知った朝好は成人式で修司との再会を望んだ。 高校時代の初恋をこじらせた二人が、成人式で再会する話です。珍しく攻めがツンツンしています。 ※以前投稿した『初恋はおしまい』を大幅に加筆修正して再投稿しました。現在非公開の『初恋はおしまい』にお気に入りや♡をくださりありがとうございました!こちらを読んでいただけると幸いです。 今作は個人サイト、各投稿サイトにて掲載しています。

鬼上司と秘密の同居

なの
BL
恋人に裏切られ弱っていた会社員の小沢 海斗(おざわ かいと)25歳 幼馴染の悠人に助けられ馴染みのBARへ… そのまま酔い潰れて目が覚めたら鬼上司と呼ばれている浅井 透(あさい とおる)32歳の部屋にいた… いったい?…どうして?…こうなった? 「お前は俺のそばに居ろ。黙って愛されてればいい」 スパダリ、イケメン鬼上司×裏切られた傷心海斗は幸せを掴むことができるのか… 性描写には※を付けております。

処理中です...