天命に導かれし時~明清興亡の戦い

谷鋭二

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サルフ戦役(三)

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「大汗、敵のもとより残った火薬、火器及び爆発物をすべて押収しました」
「うむ、ご苦労であった」
 ヌルハチは鷹揚に返事した。爆発の際ヌルハチもまた巻きこまれ、足に軽症を負った。大事をとり、しばしの間だけ横になった。
「父上、大事ありませぬか?」 
 姿を現したのはホンタイジだった。
「大事ない。それより今、新たなる策を練っていたところだ。ホンタイジよ間者を四方八方に放て。そして余が死んだという偽の情報を流すのだ」
「それは中々に面白い策でござるなあ。なれど敵も愚かではござりませぬぞ。はたしてかような策、まこと信じるでござりましょうや?」
「そこでじゃ皇后、そなたにも働いてもらうぞ」
 ヌルハチは、かたわらに控えていた恭皇后になにやら耳うちをした。
 

 ちなみに15から16世紀、西欧では火器、あれいは火薬兵器が、まさしくとそ爆発的な進歩をとげていた。一方、同時代の明王朝もまた西欧には及ばないまでも、火薬兵器に対する関心が高かった。
 すでに明王朝の創始者である洪武帝・朱元璋の時代から、モンゴルの影響もあり、国内外の戦いで火器や爆発物が使用されたと記録にある。特に明の三代目・永楽帝の時代になると、火器による戦闘の他、火器の製造、教導の任務まで実行した世界初の総合火器専門部隊である神機営が設立されたといわれる。
 また明における火器の専門書とも言える火龍神器陣法なるものが存在したらしいが、それがいかなるものなのか、今となってははっきりわからない。


  さて明の左翼北路軍を率いるのは、馬林という将だった。サルフの北にあるシャンギャンハダという地点において、眼下の小高い丘に布陣した後金軍の部隊と対峙していた。後金軍を率いるのは、四大ベイレの一人マングルタイだった。マングルタイはヌルハチの第五子である。三月二日まだ陽も昇らぬ時分に、敵陣に放っていた間者により、ヌルハチ死すの第一報を伝え聞いた馬林は、まず疑念をもった。
「その話まことであろうな?」
 馬林がしばし思案していると、
「申し上げます。敵の奇襲にござります」
 と、慌しく伝令がかけこんできた。それは恭皇后に率いられ、夫人のみで構成された後金の特別部隊だった。この夫人のみの部隊は、馬林の陣に断続的に矢を射ると、短時間のうちに撤兵を開始した。
「己! 女どもの分際で許せぬ!」
 左翼北路軍の剛の者が追撃を試みた。この時、恭皇后が馬首をかえし敵の剛の者とわたりあった。胡服に身を包んだ恭皇后の動きは、実に俊敏で、敵の繰り出す槍をごとごとくかわした。さらに馬の上で棒立ちになり敵と相対し、ついには空中でくるくると回転し、気がつくと敵の背後をとり、敵の馬の上に棒立ちになっていた。さながらその動きは曲芸師だった。後ろをとられた敵将は無残にも落馬し、さらに槍で喉をえぐられ絶命した。恭皇后はその馬を奪うと、そのまま全速力で逃げさった。

 
 日が高く昇る頃、馬林の陣ではあらためて軍議が開かれていた。
「まこと敵の将は戦死したのでござりましょや?」
「わからぬ。新たな伝令の報告を待つより他あるまい」
 馬林は渋い表情でいった。
「恐れながら、未明の夫人部隊の件ですが、もしや敵は夫人までも戦場にかりださねばならぬほど、事態は切迫してるのではござりませぬか?」
「かもしれぬのう……」
 馬林が一つ大きなため息をついた時だった。
「申し上げます。敵陣に動きあり、敵の陣に正白旗がひるがえったとのこと」
「なんだと? 敵の八旗のうち正白旗はヌルハチ自らの旗。それではヌルハチが到着したということか?」
 ただちに馬林は敵陣を探るため馬上の人となった。わずかな供とともに、自らの目で敵の様子を知ろうとした。そして息を飲んだ。敵の将らしき者は、確かに山の頂上にいたが、よく見るとそれが、よくできた人形であることは明らかだった。
「死せる孔明、生ける仲達を走らすか。おおかた三国志からでも教訓をえたのだろう。だがあれは創作にすぎぬ。まこと人と人形の区別のつかぬ者がおるか? 所詮蛮族の知恵などこの程度のものよ。これではっきりした。間違いなくヌルハチは死んだのだ」
 余談だが、中国四代奇書といわれる三国志、水滸伝、西遊記などは、いずれも明代に民間に広まったといわれる。
「よし、全軍に食事をとらせよ。今宵、敵の陣地に夜襲をかける。恐らく敵はヌルハチの死に、全軍に動揺が広がっているはず。攻めるなら今をおいてない」
 馬林は、勝利を確信したかのように全軍に命令をくだした。

 
   再度軍議が開かれたが、明軍の将の中で潘宗顔という者だけが、夜襲に反対した。
「もしや、その人形こそ我等を誘い出すための罠ではあるまいか? 本物のヌルハチは実は生きていて、我等が攻めかかるのを今か、今かと待っているのでは?」
 結局、潘宗顔はこの夜襲に参加しなかった。その夜は月もなく、馬林軍一万五千のうち一万が、後金軍の砦を夜陰に乗じて密かに包囲した。しかし敵の砦は異様に静かだった。
「恐れながら、なにやら様子がおかしゅうござる。罠でもあるのでは?」
 側近が疑念を呈したが馬林は聞き耳を持たず、全軍に総攻撃を命を下してしまった。はたしてこれが罠だったのである。砦はもぬけの空だった。代わりに火薬の匂いが充満していたのである。
「いかん全軍撤退!」
 いちはやく敵の罠を察した前線指揮官が、即座に軍を安全な場所に逃がそうとしたが、時すでに遅かった。どこからともなく火矢が大量に飛んできた。全軍に恐怖が伝わる間もなく爆発はおこった。多くの将兵が爆発に巻きこまれて死傷し、かろうじて爆発から逃れた兵士もまたパニックとなり、もはや戦闘にはならなかった。
 ヌルハチは、先に死んだ杜松のもとより残った火薬、火器及び爆発物をすべて押収していた。そしてヌルハチの人形は、やはり敵を誘い出すための罠だったのである。馬林は命からがら虎口を脱した。

 
 翌日、シャンギャンハダに後退した馬林の左翼北路軍は塹壕を掘り、火砲を並べて後金軍の攻撃に備えた。
 後金軍は火器への対策として、戦場で下馬した乗馬歩兵が接近して塹壕を突破し、その後に騎兵が突撃をかけるという戦法を編み出しており、この戦いでもその作戦を採ろうとした。
 しかしヌルハチが率いる後金軍の本隊が、丘の上から明軍の塹壕を攻撃しようとすると、明軍はこれを阻止しようと後金軍に攻撃をしかけ、後金軍が騎馬のまま突撃を敢行する乱戦となった。
 あの潘宗顔を司令官とする明軍の後方部隊は、自陣を固めて馬林の本隊を救援しようともしない。すでに主力軍の大半を失っている馬林の軍だけでは、後金軍に及ぶはずもなく、結局わずか一刻(二時間)ほどの戦闘で、左翼北路軍は壊滅した。馬林は逃亡したのだった。














 

 
 
















 

 
 




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