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第27話 公爵様の花嫁修業 〜刺繍〜 4
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「ちょ、ちょっと!!」
クリストフは慌てた。あの刺繍を見られたら、ローゼン公爵が恥ずかしい思いをしてしまう。しかし、兄である王太子レオンハルトへと伸ばした手は虚しく空を切る。レオンハルトの手により広げられたハンカチは、その無様な刺繍をその場にいる者達の目に晒してしまった。
「……これは何だ?」
レオンハルトはしげしげと、あのホルヘルム山脈に見える刺繍を眺めた。
「婚約者へ送る刺繍は、相手の名前を入れるというのが通例のはずだが」
「これは汚らしい」
ベルモント公爵が目を細めた。その後ろで、従うように侍従が笑った。
「やれやれ。我が妻マリアベルに習ったと聞いていたが、これはなんともみすぼらしい。酷いものだ」
エレナは唇を震わせて今にも泣きそうだった。クリストフは恥ずかしさで顔が真っ赤になった。そんな二人を前に、レオンハルトは自分のハンカチを出して堂々と開いて見せる。レオンハルトの名前が赤い生地の上に黄金の糸で美しく刺繍されていた。
「見ろ、これが刺繍というものだ。セドリックに伝えてやれ」
「レオンハルト殿下、よろしいですかな?」
ベルモント公爵がクリストフのハンカチを見ようと顔を近づけた。はっとしてクリストフは踏み出した。ローゼン公爵のことを馬鹿にしかしない、こんないけ好かない髭の男に、この刺繍を見せてやりたくなどなかった。
「か、返してよ!」
ハンカチを手に掴もうとした途端、頭上高く持ち上げられてしまう。背の高いレオンハルトはクリストフを見下ろして笑っていた。
「見せてやれ。王族としての余裕もないのか?弟よ」
「やめてよ!」
「いや酷いものだ!」
ベルモント公爵とその侍従がまた笑った。後ろに控えているレオンハルトの護衛達も何やら肩を揺らしている。クリストフの近衛兵達は、次代の国王でもある王太子を前に、何もできず狼狽していた。
「返してよ!」
クリストフは飛び上がってハンカチに手を伸ばした。その手が、うっかりレオンハルトの頬にぶつかってしまった。
「貴様!」
レオンハルトの表情が瞬時に怒りの表情に変わった。
「殿下!」
エレナが慌てて不敬も構わずクリストフの服を引っ張った。背後でレオンハルトの護衛達が一歩踏み出す。彼等より速く、レオンハルトはクリストフを突き飛ばした。体勢を崩したクリストフに巻き込まれ、エレナまで尻餅をついてしまった。レオンハルトとクリストフの間で視線を行き来させていた近衛兵達も、さすがに倒れた二人を支えて立たせようとする。
「兄として大目に見てやったというのに何たる不敬だ!」
怒るレオンハルトの後ろで、にやにやと笑うベルモント公爵の顔が見えた。
「お、お許し下さいっ!」
エレナがクリストフの前に出て平伏したが、場が収まらない。こんなことで怒気を纏うレオンハルトが理解できなかったクリストフだが、レオンハルトの瞳が光ると同時に右手に現れた黄金の炎に、そんな考えはすぐに吹き飛んだ。
「母親のようにこの王宮の規律も守れんような輩は王族には不要だ!」
いつもなら母の話が出ればむきになるクリストフも、今はレオンハルトの言葉に疑問を抱く暇もない。
目の前で黄金の炎が渦を巻く。
まずい。
クリストフは全力で戦うしかないと思った。前に出ようとするも、戸惑って動けない近衛兵達を片手で制し、エレナの肩に手をかける。レオンハルトの実力は分からないが、王家の黄金の炎は通常の炎よりも高温で全てを焼き尽くす。自分も使うから分かる。あんなものに触れでもしたら、エレナは死んでしまうに違いない。
そう考えている間にもエレナの目の前に炎が迫る。
「殿下っ!!お逃げ下さいっ!!」
小さな水の壁がエレナとクリストフの前に表れた。エレナは水魔法が使えたらしい。
「駄目だよ!そんなんじゃ……!」
クリストフの叫びと同時に水の壁はあっという間に蒸発してしまった。エレナが目を見開いた。
「馬鹿な女だ」
エレナの桜色の瞳に黄金の炎が映る。クリストフはエレナを引き寄せ、自ら氷の壁を作ろうとした。
しかしそのとき――
「うわあぁぁっ!!」
次の瞬間、レオンハルトの叫び声とともに黄金の炎は消えていた。
「何だこれは!」
「切れ!早くしろ!」
二人の目の前は大騒ぎになっていた。紺色の大きな布が、レオンハルトの頭を包み込んでいる。
「えっ?」
クリストフには、何が起きたのか分からなかった。レオンハルトの護衛やベルモント公爵の侍従が格闘しているのはよく分からない大きな布だ。だが、確かに見覚えのある色をしている。
先程まで、クリストフの胸元に収まっていた、あの紺色の生地。しかし、その大きさはあのハンカチの何倍もの大きさだ。しかも自在に動き、護衛達が引っ張ってもレオンハルトの頭を包んで離れようとしないのだ。
「で、殿下……一体何が……」
エレナが弱々しい声でクリストフに尋ねた。近衛兵達がやっとのことで二人の前に出て、その身を守るように背にかばう。
「分かんない」
クリストフは立ち上がって、エレナに手を差し伸べた。エレナはクリストフの手を取ってはみたものの、眉尻を下げたまま動かない。
「も、申し訳ありません。こ、腰が抜けてしまって……」
クリストフは微笑んだ。
「助けようとしてくれてありがとう」
「いいえ。こんなことなら、もっと魔法の修練を積むべきでした……」
「いいよ。あんたは侍女でしょ。護衛じゃないんだから。大体、水を壁にできただけでもすごいよ」
胸を撫で下ろす二人の前で、レオンハルトの頭から布を取ろうとベルモント公爵と護衛達は大騒ぎだ。その騒ぎに加わっても良いものなのか、クリストフの護衛である近衛兵達は困惑している。
「殿下!ご無事ですか!」
「ふごぉ!!」
「ええい!何とかせんか!!」
ベルモント公爵の声が裏返った。エレナはぷっと小さく吹き出した。未だ冷めやらぬ恐怖心が少し和らいだようだった。
「どうなってるのこれ」
「もしかすると……」
頭をかくクリストフに、近衛兵の手を借りてやっと弱々しく立ち上がったエレナがそっと話した。
「公爵閣下の愛のお力では」
「そんなのってある?」
クリストフは今度は垂れた眉毛の上をかいた。
「祝福の花嫁様の、祝福の効果なのかもしれません」
「祝福って……」
「ええい!!」
かけ声と共に、二人の目の前で再度黄金の炎が燃え上がった。クリストフは目を見開いた。
「あぁっ!!」
紺色の生地が燃え落ちていく。そして炎の中から怒りに目を吊り上げたレオンハルトの顔が現れた。
「王太子殿下!ご無事ですか!」
ベルモント公爵が、まだレオンハルトの顎に巻き付いたまま残っていた生地の残りを剥ぎ取った。
「何だこれは!!」
レオンハルトも自身の手で生地の残骸を掴むと、床に投げつけた。そして、腹を立てた子どものようにその生地を踏みつけ始めた。
「このっ!この忌々しいハンカチめっ!!」
「何をしている!切り刻め!」
ベルモント公爵が護衛達に向かって叫んだ。
「や、やめてよっ!!」
クリストフの叫びは誰にも届かず、紺色の生地は護衛達の手によってバラバラにされ、
「そんな……」
エレナが口に手を当てた。クリストフは生地の残骸の前に跪いた。
「行くぞ!不愉快だっ!」
「全くあの男は碌なことをしない。何が刺繍だ」
いきり立ったレオンハルトとぶつぶつと文句をつけるベルモント公爵は、呆然とするクリストフとエレナの存在を忘れたかのように足早に立ち去って行ってしまった。
残された無残な生地を目に、クリストフは唇を噛み締めた。エレナが黙って散らばった生地を集め始める。近衛兵達は、気まずそうに立ち尽くしたままだった。
不思議なことに、生地は元の大きさに戻っていた。クリストフのすぐ側に、あの刺繍の部分が落ちていた。一部が焦げていて、もう立派な山脈の姿をしてはいない。クリストフはそれを丁寧に拾い、灰となった部分を払ってからじっと見つめた。
「殿下」
エレナが拾い集めた残骸を自分のハンカチの上に丁寧に乗せていた。
「うん……」
クリストフは頷いて、そこに自分が拾った部分を置いた。エレナは残骸が落ちぬよう丁寧にハンカチで包むと、それをクリストフに渡した。
「ローゼン公爵には内緒にして」
「はい……」
包まれた残骸達をそっとポケットに仕舞い込みながら、クリストフはエレナに頼んだ。エレナも静かに頷いた。
「俺……」
絵画の中の女神に祈る女の姿を思い出しながら、クリストフは吐き出した。
「俺、酷い奴だよ。ちょっと思っちゃったんだ。恥ずかしいって。あの綺麗な刺繍を見て。俺のハンカチの刺繍が恥ずかしいって」
苦い気持ちを吐き出すと同時にクリストフは気がついた。あの絵画の中の女は祈っているのではないかもしれない。罪の告白をしているのかもしれない。そして、女神に慈悲を乞うているのかもしれない。
「守ってくれたのに。俺のことも、君のことも」
自分の愚かな一面をまたしても見てしまった。それがクリストフには辛かった。
市井で暮らしていたときは、自分のことだけを守っていれば良かった。娼館の仲間達のことも、自分の魔法を好きなように影から使って守ることができていた。それだけで良かった。魔法を振り回しているだけで何とかなっていた。だが、それはきっと思い込みだったのだ。
今回の騒動でローゼン公爵の立場が悪くなれば、今一緒にいる人々はどうなるのだろう。その人達がクリストフに優しくしてくれた思いを台無しにしてしまうことになる。もし、あの場でクリストフがレオンハルトと互角に戦ったとしても、その後のローゼン公爵やエレナの王宮内での扱いはどうなるのだろう。
それに、レオンハルトと一緒にいたベルモント公爵が、もし魔法が得意でエレナを攻撃してきたら。クリストフはレオンハルトと戦いながらエレナを守ることができたのだろうか。
大切な人の身を守ること、大切な人の立場を守ること、それから、その人達からもらった気持ちに報いること。
自分は、全てにおいて何一つできていない。
貴族名鑑ぐらい覚えれば良かった。あれを覚えるぐらい何だというのだろう。それで誰かを守ることができるなら、何ということはないではないか。もしかしてエレナが虐められていたのは、自分のような無知な主の下にいたからかもしれない。自分が貴族達と渡り合えるようにきちんと勉強していたら、エレナはもう少しましな生活ができていたのかもしれない。
クリストフの胸の内に、あらゆる後悔がまとまりのない状態で溢れてきた。
「……帰りましょう。殿下」
エレナはそっとクリストフを促した。書庫行きは後日に、と。それから彼女はクリストフの隣で小さく言った。
「……人からもらった親切を、恥ずかしく思ってしまうことは私もありました」
「あんたも?」
「ええ」
苦笑するエレナの横顔には、切なさと悔恨が滲み出ている。
エレナのたった一人の友人だという子爵令嬢が、家の窮状から社交界に出ることができないエレナを気遣い開いてくれたお茶会。ドレスまで用意してくれた彼女だが、世情に疎い彼女が用意したドレスは流行遅れのものだった。
お茶会の間ずっとそのドレスを着ていることが恥ずかしく、満足に会話もできなかったエレナに、その友人は参加者からドレスのことを聞き、申し訳ないとエレナに詫びたという。
後から知ったことだが、そのドレスはエレナの友人が貯めた小遣いでエレナのために購入したものだとのことだった。サイズもエレナの体型にぴったりで、その友人はエレナに合わないかもしれない部分については、別でお針子に調整までさせたという。
流行と体面に囚われた己の浅ましさに、エレナは深く後悔したらしい。そのドレスは、今でもまだ実家のハーマン子爵家のエレナの部屋に大切に保管してあるとか。
「見栄だったのです……。子爵令嬢の端くれとしての。でも、そんな見栄を張りたいという愚かな気持ちに、打ち勝つ方法があるのです」
エレナの瞳が、いつものようにクリストフに笑いかけた。
「愛ですよ、殿下。愛と……感謝の気持ちです」
炎の熱で縮れた茶色い彼女の髪が揺れる。
「だから私は愛が好きなのです。私のような心の弱い人間でも、誰かのために強くなれるから……」
クリストフは回廊に差し込む陽光に視線を向けた。
物言わぬ石壁の合間に設けられた窓から青い空が覗いていた。幸いの女神とやらが本当にいるのなら、こんな愚かな男が花婿になって怒りを覚えているかもしれない。あのレオンハルトはとんでもない王太子だが、やるべきことはやっているように思えた。自分はどうか。やりたくないと駄々をこねていただけだ。
俯いて歩くクリストフの背をエレナはただ黙って静かに見つめていた。
クリストフは慌てた。あの刺繍を見られたら、ローゼン公爵が恥ずかしい思いをしてしまう。しかし、兄である王太子レオンハルトへと伸ばした手は虚しく空を切る。レオンハルトの手により広げられたハンカチは、その無様な刺繍をその場にいる者達の目に晒してしまった。
「……これは何だ?」
レオンハルトはしげしげと、あのホルヘルム山脈に見える刺繍を眺めた。
「婚約者へ送る刺繍は、相手の名前を入れるというのが通例のはずだが」
「これは汚らしい」
ベルモント公爵が目を細めた。その後ろで、従うように侍従が笑った。
「やれやれ。我が妻マリアベルに習ったと聞いていたが、これはなんともみすぼらしい。酷いものだ」
エレナは唇を震わせて今にも泣きそうだった。クリストフは恥ずかしさで顔が真っ赤になった。そんな二人を前に、レオンハルトは自分のハンカチを出して堂々と開いて見せる。レオンハルトの名前が赤い生地の上に黄金の糸で美しく刺繍されていた。
「見ろ、これが刺繍というものだ。セドリックに伝えてやれ」
「レオンハルト殿下、よろしいですかな?」
ベルモント公爵がクリストフのハンカチを見ようと顔を近づけた。はっとしてクリストフは踏み出した。ローゼン公爵のことを馬鹿にしかしない、こんないけ好かない髭の男に、この刺繍を見せてやりたくなどなかった。
「か、返してよ!」
ハンカチを手に掴もうとした途端、頭上高く持ち上げられてしまう。背の高いレオンハルトはクリストフを見下ろして笑っていた。
「見せてやれ。王族としての余裕もないのか?弟よ」
「やめてよ!」
「いや酷いものだ!」
ベルモント公爵とその侍従がまた笑った。後ろに控えているレオンハルトの護衛達も何やら肩を揺らしている。クリストフの近衛兵達は、次代の国王でもある王太子を前に、何もできず狼狽していた。
「返してよ!」
クリストフは飛び上がってハンカチに手を伸ばした。その手が、うっかりレオンハルトの頬にぶつかってしまった。
「貴様!」
レオンハルトの表情が瞬時に怒りの表情に変わった。
「殿下!」
エレナが慌てて不敬も構わずクリストフの服を引っ張った。背後でレオンハルトの護衛達が一歩踏み出す。彼等より速く、レオンハルトはクリストフを突き飛ばした。体勢を崩したクリストフに巻き込まれ、エレナまで尻餅をついてしまった。レオンハルトとクリストフの間で視線を行き来させていた近衛兵達も、さすがに倒れた二人を支えて立たせようとする。
「兄として大目に見てやったというのに何たる不敬だ!」
怒るレオンハルトの後ろで、にやにやと笑うベルモント公爵の顔が見えた。
「お、お許し下さいっ!」
エレナがクリストフの前に出て平伏したが、場が収まらない。こんなことで怒気を纏うレオンハルトが理解できなかったクリストフだが、レオンハルトの瞳が光ると同時に右手に現れた黄金の炎に、そんな考えはすぐに吹き飛んだ。
「母親のようにこの王宮の規律も守れんような輩は王族には不要だ!」
いつもなら母の話が出ればむきになるクリストフも、今はレオンハルトの言葉に疑問を抱く暇もない。
目の前で黄金の炎が渦を巻く。
まずい。
クリストフは全力で戦うしかないと思った。前に出ようとするも、戸惑って動けない近衛兵達を片手で制し、エレナの肩に手をかける。レオンハルトの実力は分からないが、王家の黄金の炎は通常の炎よりも高温で全てを焼き尽くす。自分も使うから分かる。あんなものに触れでもしたら、エレナは死んでしまうに違いない。
そう考えている間にもエレナの目の前に炎が迫る。
「殿下っ!!お逃げ下さいっ!!」
小さな水の壁がエレナとクリストフの前に表れた。エレナは水魔法が使えたらしい。
「駄目だよ!そんなんじゃ……!」
クリストフの叫びと同時に水の壁はあっという間に蒸発してしまった。エレナが目を見開いた。
「馬鹿な女だ」
エレナの桜色の瞳に黄金の炎が映る。クリストフはエレナを引き寄せ、自ら氷の壁を作ろうとした。
しかしそのとき――
「うわあぁぁっ!!」
次の瞬間、レオンハルトの叫び声とともに黄金の炎は消えていた。
「何だこれは!」
「切れ!早くしろ!」
二人の目の前は大騒ぎになっていた。紺色の大きな布が、レオンハルトの頭を包み込んでいる。
「えっ?」
クリストフには、何が起きたのか分からなかった。レオンハルトの護衛やベルモント公爵の侍従が格闘しているのはよく分からない大きな布だ。だが、確かに見覚えのある色をしている。
先程まで、クリストフの胸元に収まっていた、あの紺色の生地。しかし、その大きさはあのハンカチの何倍もの大きさだ。しかも自在に動き、護衛達が引っ張ってもレオンハルトの頭を包んで離れようとしないのだ。
「で、殿下……一体何が……」
エレナが弱々しい声でクリストフに尋ねた。近衛兵達がやっとのことで二人の前に出て、その身を守るように背にかばう。
「分かんない」
クリストフは立ち上がって、エレナに手を差し伸べた。エレナはクリストフの手を取ってはみたものの、眉尻を下げたまま動かない。
「も、申し訳ありません。こ、腰が抜けてしまって……」
クリストフは微笑んだ。
「助けようとしてくれてありがとう」
「いいえ。こんなことなら、もっと魔法の修練を積むべきでした……」
「いいよ。あんたは侍女でしょ。護衛じゃないんだから。大体、水を壁にできただけでもすごいよ」
胸を撫で下ろす二人の前で、レオンハルトの頭から布を取ろうとベルモント公爵と護衛達は大騒ぎだ。その騒ぎに加わっても良いものなのか、クリストフの護衛である近衛兵達は困惑している。
「殿下!ご無事ですか!」
「ふごぉ!!」
「ええい!何とかせんか!!」
ベルモント公爵の声が裏返った。エレナはぷっと小さく吹き出した。未だ冷めやらぬ恐怖心が少し和らいだようだった。
「どうなってるのこれ」
「もしかすると……」
頭をかくクリストフに、近衛兵の手を借りてやっと弱々しく立ち上がったエレナがそっと話した。
「公爵閣下の愛のお力では」
「そんなのってある?」
クリストフは今度は垂れた眉毛の上をかいた。
「祝福の花嫁様の、祝福の効果なのかもしれません」
「祝福って……」
「ええい!!」
かけ声と共に、二人の目の前で再度黄金の炎が燃え上がった。クリストフは目を見開いた。
「あぁっ!!」
紺色の生地が燃え落ちていく。そして炎の中から怒りに目を吊り上げたレオンハルトの顔が現れた。
「王太子殿下!ご無事ですか!」
ベルモント公爵が、まだレオンハルトの顎に巻き付いたまま残っていた生地の残りを剥ぎ取った。
「何だこれは!!」
レオンハルトも自身の手で生地の残骸を掴むと、床に投げつけた。そして、腹を立てた子どものようにその生地を踏みつけ始めた。
「このっ!この忌々しいハンカチめっ!!」
「何をしている!切り刻め!」
ベルモント公爵が護衛達に向かって叫んだ。
「や、やめてよっ!!」
クリストフの叫びは誰にも届かず、紺色の生地は護衛達の手によってバラバラにされ、
「そんな……」
エレナが口に手を当てた。クリストフは生地の残骸の前に跪いた。
「行くぞ!不愉快だっ!」
「全くあの男は碌なことをしない。何が刺繍だ」
いきり立ったレオンハルトとぶつぶつと文句をつけるベルモント公爵は、呆然とするクリストフとエレナの存在を忘れたかのように足早に立ち去って行ってしまった。
残された無残な生地を目に、クリストフは唇を噛み締めた。エレナが黙って散らばった生地を集め始める。近衛兵達は、気まずそうに立ち尽くしたままだった。
不思議なことに、生地は元の大きさに戻っていた。クリストフのすぐ側に、あの刺繍の部分が落ちていた。一部が焦げていて、もう立派な山脈の姿をしてはいない。クリストフはそれを丁寧に拾い、灰となった部分を払ってからじっと見つめた。
「殿下」
エレナが拾い集めた残骸を自分のハンカチの上に丁寧に乗せていた。
「うん……」
クリストフは頷いて、そこに自分が拾った部分を置いた。エレナは残骸が落ちぬよう丁寧にハンカチで包むと、それをクリストフに渡した。
「ローゼン公爵には内緒にして」
「はい……」
包まれた残骸達をそっとポケットに仕舞い込みながら、クリストフはエレナに頼んだ。エレナも静かに頷いた。
「俺……」
絵画の中の女神に祈る女の姿を思い出しながら、クリストフは吐き出した。
「俺、酷い奴だよ。ちょっと思っちゃったんだ。恥ずかしいって。あの綺麗な刺繍を見て。俺のハンカチの刺繍が恥ずかしいって」
苦い気持ちを吐き出すと同時にクリストフは気がついた。あの絵画の中の女は祈っているのではないかもしれない。罪の告白をしているのかもしれない。そして、女神に慈悲を乞うているのかもしれない。
「守ってくれたのに。俺のことも、君のことも」
自分の愚かな一面をまたしても見てしまった。それがクリストフには辛かった。
市井で暮らしていたときは、自分のことだけを守っていれば良かった。娼館の仲間達のことも、自分の魔法を好きなように影から使って守ることができていた。それだけで良かった。魔法を振り回しているだけで何とかなっていた。だが、それはきっと思い込みだったのだ。
今回の騒動でローゼン公爵の立場が悪くなれば、今一緒にいる人々はどうなるのだろう。その人達がクリストフに優しくしてくれた思いを台無しにしてしまうことになる。もし、あの場でクリストフがレオンハルトと互角に戦ったとしても、その後のローゼン公爵やエレナの王宮内での扱いはどうなるのだろう。
それに、レオンハルトと一緒にいたベルモント公爵が、もし魔法が得意でエレナを攻撃してきたら。クリストフはレオンハルトと戦いながらエレナを守ることができたのだろうか。
大切な人の身を守ること、大切な人の立場を守ること、それから、その人達からもらった気持ちに報いること。
自分は、全てにおいて何一つできていない。
貴族名鑑ぐらい覚えれば良かった。あれを覚えるぐらい何だというのだろう。それで誰かを守ることができるなら、何ということはないではないか。もしかしてエレナが虐められていたのは、自分のような無知な主の下にいたからかもしれない。自分が貴族達と渡り合えるようにきちんと勉強していたら、エレナはもう少しましな生活ができていたのかもしれない。
クリストフの胸の内に、あらゆる後悔がまとまりのない状態で溢れてきた。
「……帰りましょう。殿下」
エレナはそっとクリストフを促した。書庫行きは後日に、と。それから彼女はクリストフの隣で小さく言った。
「……人からもらった親切を、恥ずかしく思ってしまうことは私もありました」
「あんたも?」
「ええ」
苦笑するエレナの横顔には、切なさと悔恨が滲み出ている。
エレナのたった一人の友人だという子爵令嬢が、家の窮状から社交界に出ることができないエレナを気遣い開いてくれたお茶会。ドレスまで用意してくれた彼女だが、世情に疎い彼女が用意したドレスは流行遅れのものだった。
お茶会の間ずっとそのドレスを着ていることが恥ずかしく、満足に会話もできなかったエレナに、その友人は参加者からドレスのことを聞き、申し訳ないとエレナに詫びたという。
後から知ったことだが、そのドレスはエレナの友人が貯めた小遣いでエレナのために購入したものだとのことだった。サイズもエレナの体型にぴったりで、その友人はエレナに合わないかもしれない部分については、別でお針子に調整までさせたという。
流行と体面に囚われた己の浅ましさに、エレナは深く後悔したらしい。そのドレスは、今でもまだ実家のハーマン子爵家のエレナの部屋に大切に保管してあるとか。
「見栄だったのです……。子爵令嬢の端くれとしての。でも、そんな見栄を張りたいという愚かな気持ちに、打ち勝つ方法があるのです」
エレナの瞳が、いつものようにクリストフに笑いかけた。
「愛ですよ、殿下。愛と……感謝の気持ちです」
炎の熱で縮れた茶色い彼女の髪が揺れる。
「だから私は愛が好きなのです。私のような心の弱い人間でも、誰かのために強くなれるから……」
クリストフは回廊に差し込む陽光に視線を向けた。
物言わぬ石壁の合間に設けられた窓から青い空が覗いていた。幸いの女神とやらが本当にいるのなら、こんな愚かな男が花婿になって怒りを覚えているかもしれない。あのレオンハルトはとんでもない王太子だが、やるべきことはやっているように思えた。自分はどうか。やりたくないと駄々をこねていただけだ。
俯いて歩くクリストフの背をエレナはただ黙って静かに見つめていた。
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