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第28話 公爵様の花嫁修業 〜刺繍〜 5

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その日の夜、魔道具のことでいじけた時と全く同じように、クリストフは部屋にこもっていた。

ローゼン公爵に合わせる顔がなかった。刺繍を恥ずかしいと思ってしまったことも、せっかくのハンカチが台無しになってしまったことも何と謝ればいいのか分からなかった。だからローゼン公爵に会いたくなかったのだ。

クリストフの侍女エレナはそれを察してくれたらしく、ドアの外で「魔道具のことで悩まれているようです」とローゼン公爵に答える声が聞こえてきた。




あの後、白花はくかの館に戻った二人は、まずはエレナの提案で服を着替えた。

クリストフの服はあまり汚れてもいなかったが、エレナのワンピースに至っては所々が焦げている状態だった。エレナの髪も焼けて縮れてしまっている部分があったため、目立たないようにクリストフが切ってやった。それから、エレナは情報収集をすると言って、また王宮へ向かおうとするのでクリストフは心配したが、厨房や洗い場の付近で使用人達から話を聞くだけだから、レオンハルトやベルモント公爵には出くわすことはないだろうということだった。

その後、戻ってきたエレナが下女達から聞いた話では、特にローゼン公爵の刺繍が下手だという噂はまだ流れていないらしい。クリストフはほっとしたが、それで罪悪感が晴れるわけでもなかった。

日が落ちて、ローゼン公爵やローゼン公爵の侍従アルベルトが館に戻り夕食の良い匂いが漂ってきても、ローゼン公爵が扉の前で呼びかけてもクリストフは部屋にこもった。ただじっと、エレナのハンカチに包まれた紺色の生地を見つめていた。




月の光が部屋を染めた夜の闇を照らすころ、やっとクリストフは動き始めた。

積んである雑多な物の山の中からクリストフはある物を探し出し、作業机の上に置いた。それは、子どものころ母に買ってもらったお菓子が入っていた箱だった。クリストフはそれを宝箱と呼んでいた。

クリストフの誕生日にいつもより少し高いお菓子を買ってくれた母。お菓子は食べてなくなってしまったが、残った箱はクリストフの宝物となった。ちょっとした小物を収納するのに丁度良い大きさで、大事なものができるとこの箱に仕舞うようになった。ずっと手元に置いておいたが、母がいなくなってからこの箱を開けることはなかった。

過去の思い出に触れるのが、億劫おっくうに感じて開けていなかったのだ。あんなに大好きな物ばかり詰め込んでいたのに。何故なのか。

クリストフはそっと箱を開けてみた。

そこには古びた用途の分からない部品や、母と拾った綺麗な小石、子どもには大金である小銭、色褪せた母の栞、母の描いた落書き、初めて好きになった女の子からもらった木の実など、覚えているものも、記憶が曖昧なものも色々入っていた。

クリストフはしばらくその中に入っている思い出の品々を見つめた。それから、机の上の紺色の生地が箱に入るか思案した。紺色の生地を見続けていると、ふと急に、箱の中のものを整理しようという気が湧いてきた。

クリストフはまず母の描いた落書きを作業机に飾った。いずれこの落書きを飾るための専用の額を作ろうと考え、最近書き出した作ってみたい物リストに加えた。

次に、小銭を出して革袋に入れた。これは娼館にいた時から財布として使っていた小さな袋だ。中にはまだ多少の金が入っている。王宮に来てからは、金を使うことはなかったので放置していた。だが、金は金だ。念の為きちんと管理しておこう。クリストフは革袋を作業道具が入っている道具箱の一番下にしっかりと仕舞った。

それから、謎の部品は魔道具製作用の部品ケースの一角にきちんと場所を設けてそこに収納した。小石は別の小さな部品ケースを小石専用のケースにし、色ごとに分けて入れた。母の栞は一旦は使おうとお気に入りの魔法陣辞典に挟んだものの、失くすかもしれないと考え、母の落書きと一緒に飾ることにした。だいぶ色褪せていたので、良い保存方法について魔法・魔術研究所でクリストフに魔法技術学を教えてくれている灰色頭に相談しようと考えた。

そして最後に、初めて好きになった女の子からもらった木の実を手に取った。

母の通っていた孤児院に来ていた少し年上の女の子だ。母の背に隠れてもじもじしていたクリストフに笑顔で話しかけてくれた。クリストフの目の色も怖がらなかった。一緒に遊んでくれて、孤児院に生えていたマシアケという木から落ちた木の実をどちらがたくさん拾えるか競争したものだ。結果を見せ合ったとき負けたクリストフが泣いてしまったところ、彼女は一番綺麗な木の実をくれた。それがクリストフの初恋の始まりだった。

けれど彼女とはすぐに会えなくなった。孤児院に来た貴族に引き取られたと聞いたが、元気でやっているのだろうか。クリストフのことは噂で聞いたりしただろうか。

そんなことをクリストフが考えていると、不意にドアをノックする音が聞こえた。


「殿下」


ローゼン公爵だ。

心臓が大きな音を立てて鳴った。エレナには内緒にしようと提案したものの、今思い直せばローゼン公爵に隠し通せるわけがない。クリストフは一生懸命考えた。とにかく、謝罪だけでもするべきだ。考えはしたものの覚悟も決まらないまま、ノックの音に流されるようにクリストフは返事をした。


「う、うん」

「入ってもよろしいですか?」

「うん」


ドアが開き、ガウンを羽織って首に銀灰色の布を巻いたローゼン公爵がココアをトレーに乗せて現れた。クリストフは俯いたまま、足の先から頭の先まで、変な痺れが走るのを感じた。


「夕食をお召し上がりになりませんでしたね。お腹は空いていらっしゃらないのですか?」

「うん」


それどころではない。クリストフは尋ねられるままに頷いた。


「おや?それはマシアケの実ですか?」

「えっ!」


謝罪のことばかり考えていたクリストフは、予期せぬ質問に大慌てで顔を上げた。ローゼン公爵の視線はあの木の実に注がれている。他の女性からもらったものが、今、ローゼン公爵に見つかってしまった。これは大変だ。

「浮気」という二文字がクリストフの頭を過ぎった。


「こ、これは違うんだよ!」

「違う?マシアケの実ではありませんか?お好きだとは存じ上げませんでした。仰ってくだされば良いものを。随分と乾いてしまっているようですから、もうお召し上がりにはなれませんよ?」

「あの!も、もらったのは」

「もらった?誰からもらったのです?たとえ王宮内とは言え、私が把握していない者から提供されたものを食べてはいけません。さあ、こちらに渡してください。明日にでも別の実を用意させますから」


やはりローゼン公爵はこの木の実が気に食わないのだ。何かを察しているに違いない。女房の勘は誤魔化せない。住んでいた娼館近くの酒場の店主が、そうクリストフに愚痴をこぼしていたではないか。妻以外の女性からもらったものだと気づいたのかもしれない。

右手を出して、こちらに迫ってくるローゼン公爵にクリストフは両手を振って否定した。


「違うってば!子どものころにもらっただけで」

「子どものころ?何故もらったのです。その者の目的は?どのような外見の者からもらいましたか?」


これではまるで尋問だ。クリストフは必死になって答えた。


「あの女の子とは何もないんだよ!」

「女の子?」



口が滑ったとはこのことだ。ローゼン公爵はただ木の実のことを聞いただけなのに、あの女の子のことを口走ってしまうなんて。

そういえば娼館の常連が言っていた。「女房の前で口を滑らせ離縁された」と。クリストフが何とか取り繕おうと言葉を探した時、もっと大変な事態が起きた。


「それは……」


ローゼン公爵が例のバラバラになった紺色の生地を見てしまったのだ。箱の中身を整理している場合ではなかった。
早く仕舞ってしまえば良かった。クリストフはひたすら後悔した。こんな無残な姿を見せるつもりはなく、きちんと謝ろうと思っていただけだったのに。

クリストフは俯いた。


「何があったのですか」


そう問われて、最早覚悟を決めるしかなかった。


「ごめんなさい……」


そうして、今日あった出来事を洗いざらい話した。それから、自分が思ってしまったことも。

全てを話し終わったあと、クリストフが恐る恐る顔を視線を上げると、そこには、今までにないほど冷たく鋭い瞳があった。


「……貴方様に向けて、王家の炎を放ったと?」


赤い唇から漏れた低い声には、ぞっとするほどの威圧感があった。過去に自ら教育を担当した、いずれ国王にもなるという男レオンハルトを相手に、敵意すら感じるほどだ。

その怒りが紫色の光となって、薄っすらとローゼン公爵の体から立ち昇っているようにも見えた。
これはローゼン公爵の魔力なのだろうか。

レオンハルトの話では、ローゼン公爵は彼に仕えるはずだというが、それなら何故こんなに恐ろしい表情をしているのか。

いや、それともまさかこの怒りは、愚かで王族らしくないクリストフに向けてのものなのだろうか。

その考えが頭をよぎり、クリストフがびくりと肩を震わせると、途端にローゼン公爵はその怒りの気配を収め、ゆっくりと目を閉じた。握られていた拳を開いて指先で目頭を押さえてから、肩で一度大きく呼吸をし、クリストフへと視線を戻す。

その目にはもう、冷たい色は見えなかった。


「……だからご忠告申し上げたのです。あのような見苦しいものをお持ちになっては、と」


ローゼン公爵はバラバラになってしまった紺色の生地に手を伸ばした。


「これは処分いたしましょう」


クリストフはさっと生地を手元へ引き寄せた。


「殿下」


たしなめるような声が上がったが構わなかった。エレナのハンカチで丁寧に包んでクリストフはそれを宝箱に入れて蓋をした。


「殿下、処分いたしましょう」


ローゼン公爵は再度促したが、クリストフは黙って頭を振るだけだった。


「その箱は何ですか」

「俺の宝箱」


クリストフは箱を取られまいとしっかりと抱き締めた。ローゼン公爵はしばし黙ってそんなクリストフの様子を見つめていたが、やがて大きく息を吐くとクリストフにココアを勧めてきた。クリストフはまだ箱を抱き締めている。


「よろしいでしょう。それはそのままお持ちになって下さい」


呆れたような声が降ってきた。クリストフは黙って頷いた。


「何かお召し上がりになりますか?」

「ビスケット」


ローゼン公爵はクリストフの言葉を受けて部屋を出て行き、そしてクリストフの大好きなあのビスケットを皿に山盛りに乗せて戻ってきた。


「今夜は特別ですよ」


驚いて皿の上を見つめるクリストフに、ローゼン公爵はそう告げた。そしてさらに、驚きの発言をしたのだ。


「さて、それでは新しいハンカチに刺繍をして差し上げましょう」

「えぇっ!?」

「この私が、あのベルモント公爵 髭男 に馬鹿にされたまま大人しくしているとでも?」

「だって」

「ご安心下さい。次こそは殿下が恥ずかしくないような刺繍をしてご覧に入れます」

「恥ずかしくないよ」

「よろしいのですよ。身の回りの品に気を配るのは結構なことです。社交界ではそのような部分でも人に判断されますから」

「でも……」


クリストフは自分の悪い部分を肯定されるような事を言われて戸惑った。しかしローゼン公爵は全く意に介していないようだ。


「それよりも、その……ハンカチが大きくなったとはどういうことでしょう?」

「知らない」

「ハンカチに魔法陣をお描きになられましたか?」

「描かない」

「では何故そのような」

「あんたの仕業じゃないの?」

「私はそのようなことはできません。とにかく、それについては調べさせましょう」

「それよりさ」


ココアとビスケットで少し気が大きくなったクリストフは、思い切ってローゼン公爵に疑問をぶつけてみた。王太子レオンハルトのあの言葉が気になって仕方がない。


「ローゼン公爵家の役目って何?」


ローゼン公爵は急に険しい顔になった。


「誰からそのお話をお聞きになりましたか」

「あいつから」

「あいつとは」

「お兄様。偉そうな方の」

「王太子殿下ですね?」

「うん。いずれあんたが自分のものになるって」


クリストフはローゼン公爵の目を見て、恐る恐る尋ねてみた。


「……あの人のところへ行っちゃうの?」


夜闇のような瞳が細められ、それから伏せられた。周囲を包む重苦しい夜を和らげてくれるような答えはまだ返ってこない。


「俺との約束は?」


俯きがちになりながら、上目遣いにローゼン公爵をもう一度見る。ローゼン公爵は険しい表情を崩さぬまま固い声で告げた。


「貴方様のお側を離れることはいたしません」


真剣な眼差しがクリストフに向けられる。


「残念ながら……」


その言葉にクリストフはどきりとした。


「残念ながら、王太子殿下は思い違いをされていらっしゃる。いずれご説明せねばなりますまい」


それは、クリストフが想像しているよりもずっと重大なことのように聞こえた。ローゼン公爵は厳しい顔のまま何かを考え込んでいるようだ。


「それに……王家の炎を軽々しく人に向けるなど、国民を守る次代の王としてあってはならないことです。たとえハーマン子爵令嬢の身分が王太子殿下より低いものであったとしても、仮に自分より身分の低い者の行為に不敬と捉えられるものがあったとしても、自身の持つ力、権力を執行する際には、それがどのような影響を及ぼすのか、よくよく吟味するべきなのです。貴方様にはお分かりになりますね?」


クリストフは小さく頷いた。人を傷つけることは容易たやすい。だが、母のように人を癒やすことは難しい。それに、傷は身体だけの問題ではないのだ。母の力を持ってしても、心が傷ついた者を癒やすことは不可能だった。


「王太子殿下は……一体どうされてしまったのだ……」


苦しげな呟きが聞こえたが、その答えは単純なものだとクリストフは思った。


「あの髭の人に影響されたんじゃないの?」

「確かに高圧的な面がなかったわけではありません。ですがここまででは……」


一人のときは良い男でも、徒党を組んだ瞬間に嫌な奴になる男はいる。クリストフは、孤児院にいた少し年下の男の子を思い出した。

寂しそうにクリストフの後をついて歩いていたくせに、年上の男の子達と一緒になると、よくクリストフの目の色を笑った。そして一人になると、またクリストフの側に寄ってくるのだ。案外あのレオンハルトも、器の大きな男に見せているだけで、ただの寂しがり屋なのかもしれない。

ぼんやりとそんなことを考えているとローゼン公爵が、おもむろに顔を上げた。


「……さて、今夜はお休み下さい。明日の朝食はしっかりと食べていただかねば」


ふと、ローゼン公爵がクリストフの頭に手を伸ばした。クリストフが何事かとその手を見つめていると、ローゼン公爵はすぐにはっとした顔に変わり、その手を引っ込めてしまった。


「ご、護衛については、今のままではいけませんね。相手が王太子殿下やあの髭男ともなると、近衛兵だけでは心細い。私の考えが甘かったようです。早急に手配を進めます。それでは」


ローゼン公爵は急に少しどもりながら早口でそう告げると、さっさと出て行ってしまった。そのままクリストフは一人、部屋に取り残された。最後のローゼン公爵の行動の意味も分からないままだったが、クリストフは言われるままに休むことにした。

その前に、少し冷めたココアとビスケットを堪能し、心を落ち着けた。それから、宝箱を開けて例のハンカチだったものを眺めた。バラバラになってしまった生地に心が痛むと同時に、新しいハンカチを楽しみにする気持ちが生まれていて、嬉しいような悲しいような心を持て余し、クリストフはベッドの中へと潜り込んだ。

その夜は、あまりよく眠れなかった。




翌朝、早くからローゼン公爵の叫び声でクリストフは目が覚めた。魔法の早朝特訓を始めたエレナが、水魔法で出した水を風魔法で飛ばしたところ、朝の散歩に出たローゼン公爵をびしょ濡れにしてしまったのだ。

朝食の時間までお説教を受けたエレナだが、いつの間にそんな強気な面が表れたのか、「絶対に攻撃魔法の特訓をやめない」と言い張り、「君には必要ない」と説得するローゼン公爵と朝食の席でまで言い合いを続けていた。

よせばいいのにローゼン公爵の侍従アルベルトが「淑女に攻撃魔法はいらないのでは」などとのたまうものだから、
「それは関係ない」と二人から一斉に攻撃されていた。

クリストフは関わり合いたくなかったので、何も言わずにパンを頬張った。アルベルトの姉イルザも気配を消していた。

それなのに、急に思い出したようにローゼン公爵が、「あの木の実はいつ、どんな女の子からもらったのか」と言い出したので、その後の朝食の席は、「浮気じゃない」と慌てるクリストフと、青褪めるアルベルトと、エレナの「過去の女性からもらったものは全て捨てるべき論」で紛糾した。

イルザはずっと気配を消していた。



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