駆け落ち前夜

有沢真尋

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「アンお嬢様。いらっしゃいませ。ジョルジュはいませんよ」

 レオルニが声をかけると、書架の一つがドアのように壁から浮いて、空いた隙間から黒髪の少女が姿を見せた。
 波打つ黒髪に、色白の肌。黒い瞳はきらきらと輝き、赤い唇がにっこりと笑みの形になっている。
 アンダーソン氏の一人娘、十八歳になるという乙女のアン。

「今日も少しだけ見させてください。あなたが絵を描いている姿が好きなの」
「それだと、僕を見に来ているみたいに聞こえる。好きなのは絵じゃなくて?」

 揚げ足をとってからかうと、アンは慌てたように頬を染めた。

「絵も好きですけど、あなたの手元を見るのも好きなんです。どんどん絵が仕上がっていくのが、魔法みたいで」
「ありがとう。そんなに『好き』って言われると照れちゃうけど、嬉しいよ。魔法使い、頑張る」
「真剣に言ってますっ」

 焦ったのか早口で言ってから、アンは部屋を横切る。
 あちらこちらにいくつか置いてある木製椅子の一つを自ら運び、レオルニの横に座った。
 
「言ってくだされば運びますよー、お嬢様」

 すでに絵筆を動かしつつ、レオル二は目も向けないままのんびりと声をかけた。

「結構よ。私、本当はお嬢様でもなんでもないもの。お父様の羽振りが良くなったのって、私が十歳くらいのときから、急によ。それまではドブ水すすって生きていたの。嘘じゃないわ」
「ドブ水はお腹壊すだろうね。僕も経験がないわけじゃないけど、あれはだめだよ」
「不思議。あなたは私が今まで出会った人の中でも、かなり上品な部類だと思うの。絵描きになる前は何をしていたの?」
「……生まれたときから絵描きだよ。なんて言えたらカッコいいかなって思うんだけど。少なくとも、今は死ぬまで絵描きでいたいと思っている」

 言い終えて、手を止めた。
 自分の描いている絵を見つめる。

「こんな絵でも」

 思ってもいなかった一言がこぼれ落ちた。
 レオルニはハッと息を呑んで、アンに向き直る。

「ごめんなさい、いまのは無しで。依頼主の前で言うことじゃなかった。真剣に真面目に描いている。それは間違いない」
「大丈夫大丈夫、依頼主は父であって私じゃないわ。それに言いたいことはわかるの。これはなんというか、たぶんあなたの絵であって、あなたの絵じゃない。もちろん、画家が特定されては困るのだから、それ自体は仕事としてはとても正しい。正しいのだけど……、あなたが描きたいのは、もっとべつの」

 言いかけて、アンは口をつぐむ。俯いて、「ごめんなさい。あなたにこの絵を描かせている側の人間が言うことじゃなかったわ」と呟いた。
 レオルニはくすっと笑みをこぼしてから「お嬢さん、顔を上げてください」と囁きかける。

「僕がいま描いている絵は、すべてお嬢様のご先祖様ということになっています。だから、実は全員、少しずつお嬢様に似ている部分があるんですよ。たとえば、この綺麗な目とか。おっと、自分の絵の人物の目を、綺麗って言っちゃった。自画自賛みたいだけど、これは本当です。お嬢さんみたいな綺麗な目のひとを描こうと思った」

(それどころか、ハッキリと、モデルにした感覚がある。アンお嬢さんが横にいるときは、妙に生き生きとした表情が描ける気がして、いつもより自分の絵が好きになる)

 あまりアンの負担にならないように、言いたいことの半分は胸の中で。
 動きを止めて耳を傾けてくれていたアンは、「それなら」と掠れた声で言った。

「何か言いましたか、お嬢様」
「ええ。それなら、今度は、私の絵を描いて、と言おうとしたの」

 アンは顔を上げて、レオルニを見つめる。光を湛えた黒の瞳。

「私、婚約が決まりました。父が決めたんです。すぐにでも結婚という話になっています。あまり時間がありません」
「そうでしたか。おめでとうございます」

 絵筆を落としそうなほど、手から力が抜けていた。
 理由はわからない。わかりたくもない。

「ですので、その前に私を描いて頂きたいの。お願いできます?」
「もちろん。描かせてください」
「では、夜に」

 言うなりアンは立ち上がり、素早く部屋を横切って、書架の後ろに滑り込んで消えた。
 ちょうどそのとき、廊下側からドアが開き、あくびをしながらジョルジュが踏み込んできた。

「いや~、少し気が紛れたわ。眠いのは眠いまま。さて仕事を再開……」

 のそのそと歩いてきて、レオルニの横に立つ。
 腕を組んで絵を見てから、ふと視線を落として言った。

「なんだその椅子」
「さぁ。なんだろう」

 あしらうように適当に答えて、レオルニは絵に向き直った。
 その後は口もきかずに絵を描き続けた。

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