駆け落ち前夜

有沢真尋

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「アンダーソン氏が成り上がりの富豪であるのは周知の事実。それにも関わらず、『これが先祖の肖像画』ですと飾られたを、誰もがそのていで目にし、なおかつそのことを指摘しない。たとえ扇の影で小馬鹿にする笑みを浮かべていてさえ――恐ろしいね。上流階級の馬鹿し合いとは、かくも寒々しいものか」

 画商ニコライから送り込まれてきた絵画修復士は、海の向こうの古都出身のジョルジュ。
 絵を描くレオルニのそばで、いつも朗々とした声で語っている。
 筆を止め、描きかけの絵をじっと見ていたレオルニは、ぼそりと一言呟いた。

「仕事して、ジョルジュ」
「……へーい」

 癖のある赤毛の頭が、ひょいっと画布とレオルニの間に入り込んでくる。

「本当にお前さん、可もなく不可もなくの絵を描くね。お綺麗で、『貴族のご先祖様』らしい絵だ。どこかにいそうで、どこにもいなさそうな中年夫婦。さて俺はこれを、当代アンダーソン氏の四代前のご先祖様に仕上げればいいんだったか」

「やっぱり、ニスの具合で調整するの?」

「そうだな。古びた絵には独特の風合いがあるけど、考えられる理由は大きく分けて二つ。絵の具の中の油分が年月を経て酸化した場合と、表面に塗りつけた天然樹脂のニスが酸化して、茶色っぽい色がのってくる場合。修復の過程では、絵の雰囲気に合わせてニスを落としたり残したりで調整する。新しい絵を古く見せる場合も、結局のところその方法が良い。あとは額装を七十年前の流行りにして」

 なめらかに話し続けるジョルジュの声を聞きながら、レオルニは小さく吐息した。
 画布に描かれた、架空の夫婦の肖像画。服装や小物を、さりげなく今から七十年ほど前に合わせている。ただ絵を描くだけでなく、そういった調べ物にもずいぶん時間を使っている。

(しかし、可もなく不可もない絵……。自分の名を残すことにさほど興味がないとはいえ、これは僕の描きたい絵なんだろうか。ひとまず「一日中絵を描いて生きていられる」というこの状況は、絵描きとしては恵まれているはず、だよな)

 依頼の最中は、城館で客人待遇。
 外部と連絡を取り合わないこと、使用人たちとも極力顔を合わせないこと、と言い含められてはいるが、特に不自由は感じていない。ベッドは清潔で、食事もおやつもお茶も至れり尽くせり。
 日中は、制作用にあてられた広めの一室で、ジョルジュとひたすら打ち合わせと調べ物と絵描き作業。
 その仕事内容に関して、レオルニには不満はない。
 けれど、ジョルジュは何かと理由をつけて、「外の空気吸ってくらぁ」と言い残し、部屋を出ていく。
 このときも、ひとしきり話した後で「眠いから少し歩き回ってくる」と勝手なことを言って立ち去った。

 独りになると、レオルニはこれ幸いとばかりに黙々と絵を描き始める。
 そのうちに、ごく小さな物音に気づいて、絵筆を止めた。
 書架の仕掛けを後ろから操作し、壁の間の抜け道を通って現れるお客様のご到着。
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