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ちびっこタイフーン

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「やめて! ねえ、もうやめてよ!」
「ふーんだ、バーカバーカ!」
「あっ! ちょっと、それ持っていかないでよ!」

 まさきの悲痛な叫びにもかまわず、彼は手にしたものをぽいっと投げた。
 それはあらぬ方へと飛んでいき、隣家の植木に引っかかってしまう。子供には手が届かない高さだ。

「ああ……!」
「ふーんだ、バーカバーカ」

 打ちひしがれるまさきを前に、彼はまた同じ言葉を繰り返し、笑って走って逃げた。
 その彼は三軒隣の家の子。まだ四歳だ。
 そしてまさきは小学二年生。
 今、何故か我が家でブームなメンコで遊んでいたところ、彼、ゆうとくんがちらちらと興味深げに様子を見に来たのが始まりだった。

「一緒に遊ぶ?」

 かよ子がそう声をかけても、「バーカ」と返されるだけ。
 そうして姿が見えなくなったと思ったら、ひょっこり覗きに来て、地面にひっくりかえっているメンコをぱっと取り逃げていくのだ。
 これにはまさきだけでなくかよ子も困った。

「やり方教えてあげるから、一緒に遊ぼうよ。ほら、こんな風に投げるんだよ。やってみて」
「そんな変なのやらないよ! つまんないし! バーカ!」

 そう言って渡したメンコはぽいっと前の道路に放られた。
 住宅街の細い道路だから頻繁ではないと言えど、車も通る道路だ。
 一瞬ひやっとしたものの幸いにも車や自転車の影はなく、左右を確認しメンコを回収する。

 しかしこうなってはかよ子もどうしたらいいかわからない。
 そうしているうちにゆうとくんは自らメンコをガッと奪い、空高く放り投げられてしまったのだ。
 四歳児の腕力すごい。
 そして逃げ去る脚力すごい。

「どうしよう。メンコ、あれじゃとれないよ」
「大丈夫。お母さんなら届くから」
「でも隣の家に勝手に入って怒られない?」
「それもお母さんがお話しするから大丈夫」

 まさきは不安そうにかよ子を見上げ、それから悔しそうにゆうとくんの走り去った方を見る。
 ちょうど裏の庭で草むしりをしていたお隣さんに声をかけ、メンコを取らせてもらうとまさきはほっとしたように胸に抱えた。

「家の中でやろっか。床でも同じようにできるよ」
「うん……でもせっかく楽しく遊んでたのに」

 まさきの気持ちはかよ子にもわかる。
 自分の家の敷地内なのに、自由に遊べないなんて、と思う。
 縄跳びをしていればゆうとくんが近づいてきて危ないからやめようとシャボン玉を始めるのだが、そうするとゆうとくんは置いてあるシャボン液の蓋を開けてじゃばじゃばとこぼしてしまう。
 しかし相手はまだ小さい男の子でコミュニケーションをとるのも難しい上に、いわゆる放置子でいつも親の姿はない。
 ゆうとくんは年長さんのお兄ちゃんと小学一年生のお姉ちゃんがいて、よく三人だけで遊んでいる。
 ゆうとくんが一人で遊んでいることもよくあった。
 外にいる子供を見るとだれかれ構わずちょっかいをかけているのを見るに、かまってほしいのだろう。
 しかし歩み寄っても常時あのような態度で、どうにもならない。
 どうしたものか、とため息交じりにかよ子がまさきとメンコを片づけていると、またゆうとくんがひょっこりと顔を出した。

 しかし、あ、と思ったときには遅かった。
 メンコをしまっていた箱ごとひっくり返したのだ。
 そのうちのいくつかが、車の下に転がっていってしまったのだが、そこには運悪く昨夜の雨でできた水たまりがまだ残っていた。

「あ……、あー!! 何すんだよ!」

 かっとなったまさきは、にやにやと笑うゆうとくんをどんと突き飛ばした。
 八歳と四歳の体格差だ。当然ゆうとくんは尻餅をつき、途端に泣き出した。

「うわあああああ!!」

 激しく泣き出したゆうとくんに慌てて駆け寄り、「大丈夫? お尻打った?」と声をかけるも、もう何も耳には入らない。
 まさきはやってしまったという顔でおろおろ見守るばかり。
 仕方なく泣きじゃくるままにゆうとくんの家に連れていくも、やはり保護者は不在で小学一年生のお姉ちゃんが出てくる。

 かよ子は簡単に経緯を話し、保護者がいつ帰ってくるか聞くも「わかりません」と困り顔の返答があるのみ。
 このままゆうとくんを放っておくわけにもいかないと思ったのだが、ドアが開くなり中に駆けこんでしまって二度と出てはこない。
 仕方なくまさきと共に家に帰り、夕方帰宅した頃を見計らって再びゆうとくんの家を訪れた。
 いるかどうかもわからなかったからまさきは家に置いたまま、まずかよ子一人でと思ったのだが。
 チャイムを鳴らし出てきたゆうとくんの母親は、感情の読めない顔で経緯を聞き、口を開いた。

「まあ、親御さんと話しても仕方ないので。お子さんに謝ってもらった方がいいと思うんですけど」
「はい、お時間大丈夫でしたら今から連れてきてもいいですか?」

 食事の準備中など忙しい時だったら申し訳ないと思いそう言ったのだが、「平気です」とぶっきらぼうな答えが返った。
 うまく収まるだろうか。
 不安を抱えながらかよ子は急いで家に戻り、まさきを連れて戻った。

「こんな小さい子を突き飛ばしたんだよね? ごめんなさいだよね」

 ゆうとくんの母親に言われ、まさきはすぐに「ごめんなさい」とゆうとくんに向かって謝った。

「ゆうとも何かしたんじゃないの? ちゃんと謝りなさい」

 そう声をかけられるも、母親の背中に隠れていたゆうとくんは「ヤダー!!」と叫び部屋の中へと走って行ってしまった。

「私が見ていながら防げず申し訳ありませんでした。それで尻餅をついてしまったんですけど、アザとかは大丈夫でしたか?」
「ええ、そこまでのことではなかったようなので」

 その言葉にほっとし、一通り親子そろって謝ると、かよ子とまさきは家へと戻った。
 まさきは無言だった。
 夕食の時も元気がないまま。
 それが気にかかったかよ子は、食事の後にりんごを剥いてテーブルに置いた。

「まさき、りんご好きでしょ? 食べよ」

 そう声をかけると、うん、と頷いて隣に座る。

「ねえ、まさき。今何を考えてるの? どんな気持ちか教えて」
「うん……。なんか、ズルいなって」

 ズルい。
 その言葉はよくまさきの気持ちを表しているとかよ子も思う。

「うん。そうだね」
「こっちは謝ったけど、あっちは泣いて、逃げて、それで終わり。おれだって嫌だったのに。なんか、ズルい」
「うん。まさきの気持ちもわかるよ。けどね、どんな理由があっても手を出した方が悪いの」

 言いながら、かよ子の顔が歪んだ。
 まさきの気持ちもわかってしまう。
 さんざん嫌な思いをして我慢をしていたまさきを見ていたから。
 相手が四歳ではやめてと言っても聞いてはくれないし、他人の子供では付き合いかたも難しい。

「でもさ、煽り運転は逮捕されてるじゃん。ぶつけた人だけじゃなくて、煽るのもいけないことなんじゃないの?」
「うん……。けどさ、車が少しぶつかっただけでも大きな事故になったり、人が死んでしまったりもするんだよ。人だって同じで、もしバランスを崩して頭を打ってたらもっと大変なことになっていたかもしれない。どんなことがあっても、手を出していい理由にはならないんだよ」
「そうかもしれないけど! でも悔しいよ。おれの大事なメンコ、泥だらけになっちゃったし……」

 かよ子は「うん」と頷いてやることしかできなかった。
 親として正しいことを教えなければならない。だが気持ちがわかるだけにもやもやとしたものが胸を渦巻く。
 何かもっと違うことを言ってやりたいのに、それしか言葉にできない。

「でもさ。じゃあさ、口で言ってもやめてくれないのはどうしたらいいの?」
「相手はまだ小さい子だからね。口で言っても聞いてくれないこともあるよ」
「小さい子だったら何を言っても許されるの?」
「そういうわけじゃないけど……」
「ゆうとくんはお母さんに怒られたのかな?」

 それはどうだろうか。
 他人の家のことはわからない。
 だがまさきに何と返すべきか、かよ子は迷った。

「ゆうとくんは自分が転ばされたって泣いただけだよね? きっとおれのメンコを泥水だらけにしたことなんて言ってないよね」
「そうかもしれないね」

 本当は、かよ子だって言いたかった。
 しかしどんな理由があれ手を出した方が悪いのだ。
 そっちが大事なメンコをダメにしたなどと言えば、責任転嫁するのか、本当に反省しているのかと疑わしく聞こえるだろう。
 だから伝えなかったのだが、まさきにとっては納得がいかなかったことだろう。
 理不尽な思いを抱いていることだろう。

 かよ子もずっと考えていた。
 何が正解だったのか。
 どうすればよかったのか。

「お。りんごか。お父さんにも一個くれー」

 暗く考え込んでしまったまさきとかよ子の間から、陽一がひょいっと手を伸ばした。
 りんごをしゃりっとかじりながら、「え。なになに、何があったの?」と二人を見回した。

「うん。ちょっとね」

 かよ子が簡単に経緯を説明すると陽一は「なるほどねー」とりんごをしゃりしゃりしながらまさきの向かいに座る。

「あれだな。台風と一緒だ。勝てなくて、来るのがわかってるなら逃げればいい」
「そんな、また適当なことを……」

 そう言ったものの、かよ子も確かに台風とは言い得て妙だなと思った。
 まさきもぼんやりと呟いた。

「台風かあ。そりゃ戦うような相手じゃないよね」
「そうそう。この世に理不尽なんていくらでもある。生きてく上で戦うことは大事だが、逃げることだって大事だ。正しいだけじゃ生きていけないこともあるからな」

 かよ子は子供にそんなことを、と言いたくなったが確かに言っていることはその通りだ。
 学校では教えてくれない、教育としての正しさとは別の正しさ。

 結局、何をされても我慢をするしかないし、我慢ができないのなら接触しないよう家に閉じこもるしかない。
 そんなの不条理だとは思えど、相手が変わることはないのだから自衛するしかない。
 そう思うのはどこか悔しくはあったけれど、台風と同じだと思うと自然と「しょうがない」と思えるのが不思議だ。

 そのうちゆうとくんもまさきも大きくなり、かよ子も人生経験をもっと積んだらまた何か変わるかもしれない。
 いつか仲良く遊べる日がくるかもしれない。
 それまでは、互いに傷つけあわぬよう距離を取ることだって一つだ。

「ありがとね」
「お? おお! んじゃりんごもう一つちょうだい」
「ちょっと、食べ過ぎだよお父さん!」

 考え方を変えればすんなり腑に落ちることもある。
 そんなことをまさきもかよ子も学んだ日だった。
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