騎士団長の象さん事情

鈴木かなえ

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 それからもニナは毎日一人で事務官の仕事を続けていた。
 日々の業務に加え、引継ぎのためのマニュアルも作成しないといけないので、とにかく忙しかった。

(経理関係の書類は、ここにこの順番にまとめておけばわかりやすいはず。備品の発注書は、多めに作っておいた方がいいわね。各部署の連作先と、担当者の名前のリストも必要だわ。それから……)

 フレデリック達がいつ帰還してくるかわからないので、大急ぎでニナが担当している仕事のマニュアルを作っていった。
 ニナの次に事務官としてここにやってくるのは、きっとハワードみたいに仕事のできる男性だ。
 このマニュアルを見れば、フレデリックとハワードの手を煩わせることもなく、すぐにニナと同じ仕事ができるようになるだろう。

(次に来る人は、団長に珈琲を淹れてくれるかしら)

 部屋の隅に置いてある珈琲ポットやフレデリックのカップに自然と目が向いた。
 フレデリックが出立してから、珈琲豆は減らなくなった。
 
(いけないわ。このままでは、珈琲の匂いを嗅ぐ度に団長を思い出すことになってしまいそう) 

 珈琲なんてそこら中に溢れているようなものなのに。

(そうだわ。団長の好みの珈琲の淹れ方もマニュアルにして残しておいたら、団長の朝の珈琲タイムも引き継いでくれるかもしれないわ)

 フレデリックが他の人が淹れた珈琲を口にすると思うと、また胸がシクシクと痛む。
 それでも、もしかしたら、たまにニナを思い出してくれるきっかけになるかもしれない、と思うと少しだけ嬉しくなる。

 ニナは新しい紙を取り出し、珈琲の淹れ方マニュアルの作成にとりかかった。



「あ、ニナちゃん!久しぶり!」

 処理が終わった書類を各部署に届けるために廊下を歩いていたニナに、後から声がかけられた。
 これはいつもはハワードの仕事なのだが、今はニナしかいないのでニナが歩いて回っている。
 執務室にずっといると息が詰まるので、ちょうどいい気分転換になると実は少し助かっていたのだが。

 小走りに近寄ってきたのは、顔見知りの第一騎士団の騎士だった。
 いつかカフスボタンを探していた時に声をかけてくれた人だ。

「お久しぶりです」
「うん……って、なんか顔色悪くない?」

 顔色が良くないことは、ニナにもよくわかっていた。
 あの令嬢が突撃してきた日から、食事も睡眠もあまりとれていないのだから当然の結果だった。
 家族にも心配されているのだが、この騎士にもすぐに見破られてしまった。

「その……遠征に行ってらっしゃる方たちが心配で……」 
「魔物討伐はもう粗方片付いたんだろ?被害も少なかったって聞いてるよ。それでもまだ心配なの?」

 首を傾げる騎士に、どう誤魔化していいのかわからずニナは俯いた。

「もしかして、そっちの団長さんとなにかあった?」
「え?いえ、そういうわけでは」
「あのカフスボタンがなんとかって言ってた時も、団長さんがすごい顔して睨んでたじゃない。俺、あれからどうなったのかなって、心配してたんだよ」
「そうだったのですか……」

 あの時、フレデリックは象さんという大きな問題を抱えていたからなのだが、そんなことを明かすわけにはいかない。

「前も言ったけど、俺も一応は貴族なんだよね。なにか問題あるなら力になるよ?」

(そうだわ。あの時は、この人に教えてもらいたいことがあったんだったわ)

 ニナは顔を上げて、騎士の顔をじっと見つめた。

(この人は、貴族だって言いながらも私を見下したりしない。きっと大丈夫だわ)

「それなら、一つ教えていただきたいことがあるのですが」
「ああ、前の時もそんなこと言ってたね。なにが知りたいの?」

 ニナは意を決して、あの時遮られてしまった質問を口にした。

「働くのに条件の良さそうな、娼館をご存じでしたら教えてください」

 人の好さそうな騎士はパチパチと瞬きをした。
 
「うん?俺の聞き間違いかな?今、娼館って言った?」
「聞き間違いではありません。娼館、と言いました」
「えーっと……ちなみに、誰が娼館で働くの?ニナちゃんの知り合い?」
「いえ、私です……」

 ニナの言葉に、騎士はぐっと眉を寄せて首を傾げた。

「なんで?なんでニナちゃんが娼館で働くの?今の事務官の給料だけだと足りないの?」
「そういうわけではないんですが」
「じゃあ、なんで?」

(この方も貴族なのだから、団長が婚約していることをご存じのはずだわ。それなら隠す意味もないわよね)

「私、遠征隊が帰還したら、事務官を辞めることになってるんです」
「え!?なにそれ!どういうこと!?」
「団長が、婚約なさってて、それで私みたいな平民の女が近くにいるのは外聞がよくないということで……」
「はぁ!?あの団長さんがそんなこと言ったの!?」
「いえ、団長が直接おっしゃったわけではないのですが」
「じゃあ誰がそんなことニナちゃんに言ったんだよ!」
「ええと、その……」

(あら?これって、普通のことではないのかしら?だとしたら、正直に言ったら、あの令嬢と団長の評判が悪くなってしまうかもしれないわ)

「それで、事務官辞めて、娼婦になるっていうの!?」
「私、父はもういないのです。母は働けませんし、弟はまだ学生で……私が稼がないといけないのです」
「それは、なんとなく俺も知ってるけど、だからって娼婦になる必要ある!?」
「だって、他にできそうなことも思いつかないので……」
 
 騎士は難しい顔でニナをじっと見つめ、ニナはその視線に耐えきれずに俯いた。

「……話はわかった。とりあえず、遠征隊が帰ってくるまでは、事務官でいるんだよね?」
「はい、そのつもりです。引継ぎ資料なども作らないといけないので」
「うん。それなら、もうしばらく時間があるってことだね」

 騎士は一人でうんうんと頷くと、それから真剣な顔になってがしっとニナの両肩を掴んだ。

「俺、いろいろと調べてみるよ。だから、早まったことをしないで、大人しく事務官しててくれないかな」
「は、はい……」
「安心して、悪いようにはしないから。だから、もうしばらく待ってて。俺以外に、こんな相談したらだめだよ。いいね?」

 ニナがこくこくと頷くと、騎士は「約束だからね!」と叫びながらどこかに走り去った。

(きっと伝手を使って、いい娼館を探してくださるのね。高級娼婦にはなれなくても、せめて中級くらいになれたらいいのだけど)

 ほんの少し未来が明るくなった気がして、ニナは先ほどまでより軽い足取りで歩き出した。

 遠征隊が四日後に帰還するという知らせが届いたのは、その日の夕刻のことだった。
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