騎士団長の象さん事情

鈴木かなえ

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 騎士団の宿舎というのは、いわゆる独身寮だ。
 フレデリックの執務室がある棟から徒歩五分とほど近く、食事は賄いが出るし掃除洗濯は専任のメイドがやってくれるので、外に部屋を借りるより気楽だからと宿舎に住むことを選ぶ騎士がほとんどだ。
 ただ、当然ながら部外者は立ち入り禁止なので、恋人ができても連れ込むことはできない。
 なので、宿舎を出た騎士がいたら、『あいつは結婚秒読みなのではないか』と毎回噂になる。

 昼前の中途半端な時間、宿舎の中はしんと静まり返っていた。
 非番の騎士も何人かいるはずだが、ほとんどが勤務中で出払っているからだ。
 緊張しつつ、三階にある団長専用の部屋の扉の前に立ち、大きく深呼吸をした。

 ニナはかつて一度だけこの扉を同じように叩いたことがある。
 あの時は、フレデリックの忘れ物を届けに来ただけだったので、室内には入らず用がすんだらすぐに宿舎を後にした。 
 だが、今日はそれだけでは終わらない。
 この扉の中に入って、フレデリックの呪いを解くために子種を抜くという重大な任務があるのだ。

(必ずやり遂げてみせるわ。私なら大丈夫だってエル兄さんもハワード先輩も言ってたんだから)

 ニナは意を決して扉をコンコンとノックした。

「団長、リンドールです」

『ぱおーん』
『ぱおーん』
『ぱおーん』

「……入れ」

『ぱおーん』
『ぱおーん』

 ニナの声に反応したのか、また象がうるさく鳴きだし、その間でフレデリックの声が辛うじて聞こえた。

「失礼します」

 初めて足を踏み入れたフレデリックの私室は、きれいに片づけられ掃除も行き届いているようだった。
 寝台と、本棚と、クローゼットと机と椅子くらいで最低限の家具しかないが、どれも装飾もないシンプルな造りになっている。
 
 フレデリックはガウンを羽織り、寝台に腰かけて俯いていた。
 髪が濡れているのはシャワーを浴びたからなのだろうか。

『ぱおーん』
『ぱおーん』

「来てくれないかと」

『ぱおーん』
『ぱおーん』

「思っていた」

『ぱおーん』
『ぱおーん』
『ぱおーん』
『ぱおーん』

「こんな」

『ぱおーん』
『ぱおーん』

「ことに」

『ぱおーん』
『ぱおーん』

「巻きこんで」

『ぱおーん』
『ぱおーん』

「しまって」

『ぱおーん』
『ぱおーん』
『ぱおーん』

「すまない」

『ぱおーん』
『ぱおーん』

「俺は」

『ぱおーん』
『ぱおーん』

 とにかく象さんがうるさすぎて会話もままならない。

(これって、団長がそれだけ私に対して劣情を抱いてるってこと……なのよね?)

 正直なところ半信半疑だが、劣情というところにニナは赤くなった。

 だが、今は恥じらっている場合ではない。

「団長!あの、エル兄さんとハワード先輩から、団長がどのような状況かは説明を受けました」

『ぱおーん』
『ぱおーん』

「そうか」

『ぱおーん』
『ぱおーん』

「まず、呪いを解いてしまいませんか」

『ぱおーん』
『ぱおーん』

「……そうだな」

『ぱおーん』
『ぱおーん』

「本当に」

『ぱおーん』
『ぱおーん』

「いいのか?」

『ぱおーん』
『ぱおーん』
『ぱおーん』
『ぱおーん』

「はい!私、団長のためなら頑張れます!」

『ぱおーん』
『ぱおーん』
『ぱおーん』
『ぱおーん』

「だから、どうしたらいいのか教えてください!」

『ぱおーん』
『ぱおーん』
『ぱおーん』
『ぱおーん』
『ぱおーん』
『ぱおーん』

「……こちらに来てくれないか」

 ニナが慎重にフレデリックに近づくと、腕を掴まれて膝の前の床に座らされた。
 こうして近くまで来ると、この鳴き声は逞しい彼の足の間から聞こえてくることがはっきりとわかる。

「……驚くなとは言わないが……怖がらないでくれると助かる」

 端正な顔も耳も首筋も真っ赤になったフレデリックはそっとガウンの前を寛げた。

「まぁ……象さん……」

 そこにあったのは、ハワードが言った通りのものだった。

 猫の顔くらいの大きさで、灰色で鼻が長くて、大きな耳がパタパタしていて……
 うるさく鳴きながらも、そのつぶらな瞳はニナをしっかりと見据えているようだった。

(想像以上に細部までしっかり象さんだわ……なんて恐ろしい呪いなのかしら)

「……その……大丈夫か?」
「大丈夫です!それで、これからどうするのですか?」
「手を……」

 ニナは素直に両手を差し出した。
 フレデリックの大きな手がニナの手をとり、それから象さんの鼻のところを握るように導いた。

 ニナの手が触れると、象さんの鼻の部分がびくっと跳ね、だらりと下を向いて垂れ下がっていたのが持ち上がってきた。
 一瞬怯んだニナだったが、そのままえいやっと鼻を両手でしっかりと握った。
 触れてみると、ずいぶんと熱を持っているようだということがわかった。

「あの……冷やしたりしなくてもいいのですか?」
「冷やす、必要は、ない……続けていいか?」
「は、はい!」

 象さんの鼻を握るニナの手を、フレデリックが上から包み込むように掴んだ。
 
「これを……こうして、動かしてくれ……」
「はい、やってみます!」
 
 ニナは真剣な表情で教えられた通りに手を動かして、象さんの鼻を慎重に扱いた。

(子種って、残り少なくなった歯磨き粉を絞り出した時みたいな感じで出てくるのかしら)

 その動きからなんとなくそんな想像をするニナの手の中で、象さんの鼻はどんどん硬く大きく姿を変えていった。

(あら?なんだか感触が変わってきたわね)

 鳴き声もさっきまでは『ぱおーん』だったのに、今はなぜか『ぱおおおおんん!』と声量を増している。

 フレデリックは腕に血管が浮かぶほど右手を強く握りしめ、左手で目元を覆って天井を仰ぎ、 息が乱れているようで肩が大きく上下している。

(なんだか苦しそうだけど……大丈夫なのかしら)

「団長、あの」
「もう少し強く握って……そう、それくらいで……そのまま、続けて……」

 掠れた声はニナを不安にさせたが、言われた通りに続けるしかない。
 象の鼻の先端からぬるぬるした液が零れてきてニナの手を濡らしていく。
 
(拭いた方がいいのかしら……でも、なにも言われないから、このまま続けていいんだわ)

 だが、果たしてこれをいつまで続けたら子種が出てくるのだろうか。

 ニナの頭の中に、動物園で象が水浴びをしている光景が蘇った。
 あの時、象は長い鼻で水を吸い上げ、噴水みたいに噴き出して体に水をかけていた。
 きっとあんな感じで、この鼻の先から子種が抜け出てくるのだろう。

 だんだんと手が疲れてきたニナだったが、さらに大きな声で鳴き続ける象さんを睨みつけた。

(負けないわ。絶対に呪いを解いてみせるんだから!)

 象さんと一騎打ちでもしているような気分で、ニナは必死で手を動かし続けた。

 フレデリックの顔はさらに赤くなり、象さんの声はさらに大きくなっている。

(この声、絶対に外の廊下にまで響いてるわね。人がいない時間帯でよかったわ)

「う……リンドール……もうすぐだ……」

(もうすぐ?もうすぐ子種が抜けて出てくるの?)

「は、あ……も、出る!」

 フレデリックがさっとガウンの裾で象さんの鼻の先端を包むと同時に、

『ぱおおおおおおおおんんん!!!』

 と象さんの一際大きな咆哮が響き、ニナの手の中で象さんの鼻がびくびくと跳ねた。

「ひゃっ……」

 なにが起こっているのかわからず、ニナは鼻を両手で握ったまま小さな声を上げた。

(なにか、出てる……?子種が抜けてるのかしら)

 ガウンで隠されているので見えないが、なにかが鼻の中を通って出ていっているような感触がある。

 やがて鼻は動きを止め、フレデリックが大きく息を吐き出した。

「もう、手を離していい……」
「あ、はいっ」

 ニナは慌てて手を引っ込めると、フレデリックも象さんを覆っていたガウンの裾を除けた。

 二人の視線はさっきまで象さんがいた場所に吸い寄せられ、それから二人同時に安堵の息をついた。

(象さんじゃなくなってる!私、やり遂げたんだわ!)

 そこにあったのは、フレデリックの髪と同じ青みががかった銀色の下生えの中からにょきっとそそり立っている、赤黒いなにかだった。
 表面には血管が浮き出ていて、先端は白っぽい液体で濡れている。

(象さんじゃなくなってるのはいいけど……これでいいの?)

 弟のオムツを替えた時に見たのと同じものとは思えず、ニナは首を傾げてまじまじと見つめた。

 フレデリックは赤い顔のまま、ガウンの前を閉じてその部分をニナの視界から隠した。

「あまり見ないでくれ……」
「あ、す、すみません!つい……」
「いや、いいんだ……」
「その、呪いは、解けたんですよね?」
「ああ、呪いは無事に解けたようだ。ありがとう。本当に助かった」
「よかった!私も、団長のお役に立てて嬉しいです!」

 無邪気に笑うニナに、フレデリックは複雑な顔になった。

「じゃあ、私はこれで!ハワード先輩とエル兄さんにも、呪いが解けたことは報告しておきますね」

 さっさと立ち上がって部屋を出て行こうとしたニナを、フレデリックは引き止めた。

「待て!あー……そこの扉の先がバスルームになってるから、まず手を洗ってこい」

 そういえば手が汚れているんだった、と思い直してニナは素直に手を洗いに行った。

「リンドール……なにか、礼をさせてほしいんだが……ほしいものとか、ないだろうか」

 バスルームから出てきたニナに、複雑な顔のままのフレデリックが問いかけた。

「いいえ、ほしいものは特にありません。私が団長を助けたかったからしたことなので、お気になさらないでください」
「だが、それでは」
「もちろん、このことは誰にも言いませんよ。業務の一環のようなものですから、守秘義務がありますし」
「業務の一環……」

 フレデリックは一瞬呆然とした顔をした後、頭をガシガシとかいた。

「とにかく、ええと、今すぐでなくてもいいから、なにか望みがあれば言うように。いいな!」
「はい!じゃあ、失礼します!」

 ニナは一礼して部屋を辞し、その足で執務室に向かった。

「エル兄さん!ハワード先輩!呪いが解けましたよ!」

 達成感でいっぱいのニナは満面の笑みで報告をしたのだが、それを受けた男性二人はやや微妙な反応をした。

「そ、そうか……随分と早く戻ってきたな」
「よく頑張ったね……それで、団長はなにか言ってた?」

「お礼がしたいって言われたんですけど、業務の一環でしたことだからいらないって応えました!」

 元気に応えたニナに、男性二人はまた目を見合わせた。

「エルネスト殿……」
「ああ、わかってる。あいつの様子を見に行ってくるよ」

(本当に呪いが解けたのか、エル兄さんは確認する必要があるのね)

 エルネストが去ったのを見送ってから、ニナは山のように積みあげられた書類を手に取った。

「ハワード先輩、今までお仕事押しつけちゃってすみませんでした。これからは私も通常通り働けますから!とりあえず、ここにあるのを処理しちゃいますね」

 やる気に満ちてペンを手に取るニナは、ハワードがまだ微妙な顔をしていることに気がついていなかった。
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