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#72 奪い奪われ
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「クッサンドラ!」
返事はない。
寿命の渦的には意識を失っているだけのように感じる。
魔法でやられたのか?
テーブルの二人の方を一瞥すると一人居なくなっている。
寝ている鼠種の先祖返りはそのままだが、兎亜種の方が席を離れている。
足音が近づいてくる方を見ると、樹々の隙間、まだ少し離れた所をこちらへ向かって走ってくるエクシが見える。
『魔力探知機』を『魔力感知』へと切り替え、感知の密度を上げると、偽装の渦で寿命の渦を消し込んだ誰かが一人、近づいて来ているのがわかる。
あのテーブルの方からだから、兎亜種の奴か?
奴らの目的は何だ?
クッサンドラに止を刺しに?
消費命の集中を悟られないよう偽装消費命を用意する。
エクシもすぐ近くまで来ている。
マドハトも走り始めた。
だが一番早いのは兎亜種の奴だ。
もうクッサンドラのすぐ近くまで――寿命の渦は隠しているくせに、その姿は隠さず堂々と現れた。
先祖返りだからか頭部は茶色い夏毛の兎そのもので、身なりのよさそうなコートの下には動きやすさを重視したタイプの革鎧。
膝までのブーツ、その足取りに慎重さを感じる。
それからかなり目につくのは胸元に蝶ネクタイ――そういやフォーリーの富裕層区画の警備兵の中に数名、蝶ネクタイを着けていた人が居たな。何か意味があるのかな。
「交渉は決裂したっ! 身を守れっ!」
思考がエクシの言葉で中断される。
交渉? 決裂? 身を守る?
状況が把握できない中で、兎亜種の奴がコートの下に隠していた短剣を抜き、両手に構えた。
反射的に俺はそいつに左手を向けた。
右手には小石がある。『見えざる弓』でもいいし、他に何か威嚇できるのは――と考えたとき、眼の前の兎亜種の奴が突然、こちらへ向かって走り始めた。
いきなり突きつけられた身の危険に、とっさに俺は消費命を新しく集中した。さっきの偽装消費命じゃ足りなかったから。
俺の意思を感じてくれたポーが手伝ってくれる。左手の先から兎亜種の奴の方へ伸びてくれて。
ポーの先端で、俺は『ぶっ飛ばす』を発動した。
『ぶん殴る』五発分のダメージ。
敵が迫ってくる勢いに呑まれたというか、恐怖が攻撃力の高い確実性のある魔法を選ばせたというか。
そいつが文字通り「ぶっ飛ばされ」たのが、スローモーションで見えた。
ポーの先端はちょうどそいつの喉元にあった。
こちらへ向かおうとするそいつの喉元にカウンター気味に炸裂した『ぶっ飛ばす』は、その兎亜種の体を、首の所でくの字に曲げた。
そいつの体は仰向けに倒れている。
でも、その兎の頭だけはそいつの胸の上に、伏せられて置かれているみたいに、首の所で折りたたまれていた。
しかもその首からは勢いよく噴水のような出血。
そいつへと向けていた左手が震える。
いや、震えているのは全身だ。
さっきまで生きていたはずの鼠種の兎亜種、その寿命の渦は今や消えかけている。偽装の渦ではなく、死ぬ間際の消え方。
殺した。
俺が、殺した。
いや身を守ったのだ。リテルの体を――そう思考しているのに、自責の念が次々と湧いてきて、俺の思考を蝕んでゆく。
「あーあ」
すぐ背後にエクシの声。
と同時に首に何かが装着される音。あの兎亜種の首ではなく、俺の首に。
首が苦しい。やけにぴっちりとした冷たい――恐らく金属製の首輪?
「助けてくれようとした人を殺すだなんて、虫を怖がっていたあのリテルも随分成長したもんだなぁ」
助けに?
振り返ろうとした俺の背中に強い衝撃。
前方に投げ出されて地面へ転がった俺の視界に、槍を構えたエクシの憎しみに満ちた表情。
蹴られたのか?
え、助けるってあの兎亜種が、俺を、エクシから?
待て待て待て。話が通じない。
兎亜種は襲ってきただろう?
だとしたらエクシとグルで、エクシを助けようとした?
あっ、そうだ。何かを首に。
左手で首を確認しようとした瞬間、エクシの槍の穂先が俺の左肩を鋭く貫く。
熱っ痛い。
どういうことだ――状況が見えない。
ただ、エクシは味方じゃないのは確かだということ。
まさか名無し森砦の兵士たちみたいにクスフォード領兵のエクシも――ということはテーブルの二人は盗賊団で――だとしたらエクシがウォルラースとつながって?
「しかしすげぇな魔法ってのは。魔女様の弟子になったってのは嘘じゃなかったんだな」
そうだ魔法――と考えた途端、エクシの槍が再び俺を貫く。
今度は左膝を。
「変な動きするんじゃねぇよ」
この体勢からエクシの槍を避けるのは無理だ。
『生命回復』でも発動しようものなら、それ以上の傷を付けられかねない。
「リテル……お前、調子に乗ってねぇか? 自分に価値があるとか勘違いしてるだろ?」
エクシは槍先を俺の左膝から引き抜き、今度は俺の鼻先で止める。
リテルの記憶を覗いても、エクシにこんなにも恨まれるような過去は見当たらない。
まさかケティを狙っていたとか?
「お前は! お前らは! 俺に言う通りにしてりゃいいんだっ!」
ああ、そのセリフには聞き覚えがある――俺が、ではなく、リテルが、だけど。
きっとケティも、ストウ村の人なら誰もが知っているセリフ。
ハグリーズさんがあの養えない浮気で魔法代償提出刑を受けた後、酒の量が増えて、夜にはちょいちょいあの声が家の外にまで聞こえてきていた。
そういえば、キッチ――エクシのお姉さんで、ハグリーズさんのとこの長女――が隣のゴド村へとお嫁に行った後、エクシは顔にアザを作っていることが多くなった。
エクシがこんな傲慢で傍若無人に振る舞うようになったのって、DV被害者がDVするようになるっていうアレなのか?
「くそっ! くそっ! なんでこうなった! 殺しちまいやがって!」
エクシにしても何やら計画通りではない感じがしている。
しかもすぐに俺を殺そうという気配でもない。
おかげで冷静さを取り戻す。
マドハトがこちらへ向かっている。チャンスがあるとしたらそこか。
人を殺してしまった罪悪感に打ちのめされるよりも前に、やるべきことがたくさんあるじゃないか。
「な、なんだその目は! リテルのくせにっ」
エクシが槍を動かすよりも早く、俺は魔法を発動した。
さっきとっさに発動した『ぶっ飛ばす』の前に集中していた偽装消費命分を用いて。
もちろんポーもそれを察して動いてくれた――槍を握るエクシの右手めがけて伸びてくれたそこに『ぶん殴る』を。
「痛っ」
エクシの手越しに衝撃は槍にも伝わったようで、槍もエクシの手を離れ地面へと転がる。
俺は即座に『生命回復』を左膝に――凄まじい痛みと共に消費命を集めようとした集中が解ける。
なんだ?
首に痛み――まさかこの首輪。
「だよな? 魔法は使えねぇはずだよな?」
エクシは利き手ではない左手で腰の小剣を抜き、構えながら周囲を見渡す。
再び消費命を集中しようとしたが、酷い痛みが――ポーが『虫の牙』の呪詛に囚われていた頃の痛みに比べれば幾らか弱いのだが、場所が首なだけに思考をかき乱されるというか、集中を維持するのがしんどい。
(マモル)
ポーの意識が伝わってくる。
そしてポーが俺の首に移動するのを感じる。
試しに『生命回復』を使うと――いける!
魔法品は肉体に触れて発動する。間にポーが入ってくれることで、触れていないことになるのか、それとも発動している魔法をポーが受け止めてくれているのか。
なんにせよ、ポーに感謝だ。本当にすごいよ、ポー!
左膝に続けて左肩の傷も『生命回復』で塞ぎつつ立ち上がる。
「おいおいっ! 『魔法封印の首輪』じゃねぇのかっ? 壊れているのか? それとも俺は騙されたのかっ? くそう! あいつらも殺してやるっ!」
エクシから距離を取りつつ自分の寿命の渦を「落ち着いているときの状態」に整える。
これ、本当に効果があるな。冷静に状況に対峙できている。
マドハトももうすぐ到着する。
「リテルさまっ!」
「マドハト、気をつけろ。エクシは盗賊団の一味かもしれない」
「はいです!」
マドハトは短剣を抜いて構える。
「盗賊だと? おめでたいやつだな!」
エクシが俺に向かって小剣の突きを繰り出す。
俺はその突きを避けつつ後ろへ下がると、その間にエクシは倒れているクッサンドラの方へと走る。
エクシはまだ痛みが残っているであろう右手でクッサンドラの小剣も鞘から抜き、その剣先をクッサンドラの喉元へ当てる。
自分の小剣は俺とマドハトの方へと交互に向け、牽制を続けている。
「お前ら、動くなよ」
とは言われても、エクシとクッサンドラは同じ部隊。
クッサンドラが倒れたフリをしているのであれば、今このタイミングでも偽装消費命を集中していて、魔法を使う機会をうかがっている恐れだってある。
そんな状況が、また一人加わることでさらに複雑になった。
「ど、どういうことになっているんですか!」
さっきまでテーブルで寝ていた鼠種の先祖返りが、近くまで来ていた。
あの兎亜種の先祖返りと同じ格好。蝶ネクタイまで一緒。
その顔はなんとなくハムスターみがある。
ただこの発言。仲間じゃないのか?
どういうことかってのはこっちが聞きたいんだけど。
「エクシさん、どうなってます? 交渉の橋渡しをお願いしたはずでしょう?」
エクシと鼠種が顔見知りなのは想定内として、何やらモメてる?
交渉? やはりまだ話がつながらない。
「何か勘違いされているようですが、彼を殺したのはリテルですよ」
エクシは牽制の剣先を一瞬、さっきの兎亜種へと向けた。
「……ヘイヤ? ヘイヤっ!」
鼠種があの死体へと意識を向けた瞬間、エクシは大きく踏み出し、後ろから鼠種へと切りつけた。
「……ぐっ……エクシ……あなた……」
鼠種が驚愕の表情を浮かべたとき、マドハトが動いた――消費命の集中、そして発動。
エクシが鼠種へ追撃を加えようとしたとき、大きくバランスを崩す。
その剣先は鼠種の目元をかすめ、その直後、エクシはみっともなく転んだ。
しかし、転んだはずみに鼠種とぶつかり、二人は互いに弾かれるように『大笑いのぬかるみ』の範囲外へ滑り出てしまう。
俺はその間に滑った先の鼠種の方へと走り、背中の深い傷へ『生命回復』を強めにかける。
丁寧さが二の次なのはこの際許してもらって、せめて命を救えれば。
エクシはぬかるみを大きく回り込んでこちらの方へ。
そこへマドハトが再び別のぬかるみを作る。
エクシは転んだものの勢いがついているせいか、ぬかるみの上を滑って通り過ぎる。
「なんだよ。勢いつけりゃどうってことないな!」
慌てて俺は左手を構えるが、ポーは『魔法封印の首輪』をカバーしてくれているからか体を伸ばしてはくれない。
ならばと小石を一つ、三本指で構えて『見えざる弓』を発動する。
俺の構えを見たエクシは小剣二本で自身を庇いつつ、左右に素早く動きながら、距離の詰め方も少しずつになった。
あの動きはメリアンに教えてもらった。
魔法や射撃武器を警戒するときの動き。
エクシは領兵として訓練を受けているのだろう。
だが俺も偽装消費命で『大笑いのぬかるみ』を発動する。
エクシはバランスを崩して、つるつるとその場で滑り出す。
「犬っころ! 滑らせてばかりで面倒臭えんだよっ!」
俺が使ったとは思っていないようだ。
よし、次の手を――と思考を巡らせたそのとき、エクシは片方の小剣を地面へと突き刺した。
「なんだよ。浅ぇじゃねぇか」
刺した小剣を軸に体をひねったエクシは、上半身だけの力でもう片方の小剣を投げた――マドハトの方へ。
「マドハト避けろっ!」
俺が叫び終わらないうちに、鈍い音がした。
小剣が深々と刺さった背中は、ゆっくりと地面へ倒れる。
その向こうに、呆然と立ち尽くすマドハト。
マドハトを庇ったのは、さっきまで倒れていたクッサンドラだった。
「クッサンドラ!」
「クッサンドラっ!」
マドハトとエクシが同時に叫ぶ。
俺はぬかるみを避けてマドハトたちの所へと走る。
小剣を抜くと同時に『生命回復』をかけるが、溢れる血の量に圧倒される。
傷が深すぎる。なんとかなるのか?
「リテルさまっ!」
マドハトが指す方向を見ると、エクシがこちらへ近づいて来る。
ぬかるむのは地面が露出している部分だけなので、下草が多いここいらでは草につかまって魔法効果範囲からの脱出も不可能ではないということか。
「どいつもこいつも俺の邪魔しやがってっ!」
エクシが直線でこちらへ来ないと思ったら槍を拾っている。
マドハトが再びぬかるみを作るが、エクシは草の上だけを走ってこちらの方へ。
俺はクッサンドラの治療を途中で辞めて立ち上がる。
新たに偽装消費命を集中しつつ小剣を構える。
「マドハト! ぬかるみはいいから隠れろ!」
「はいです!」
魔法無しに小剣で、武技を鍛えたエクシの槍と戦うのは分が悪い。
しかもここいらは樹々の間隔がまばらだから槍が戦いづらいってこともない。
せめてメリアンたちが気づいてくれれば――いや、そうじゃないだろ。
俺自身の力で乗り越えられないで、この先ルブルムを守れるわけないだろうが。
剣先に強めの『発火』を『接触発動』する。
そして即座に偽装消費命を左手へ集中する。
こちらは『ぶぶぶん殴る』。『ぶん殴る』三発分の威力だが『ぶっ飛ばす』だと魔法代償が大きすぎて今の俺にはまだ偽装できないから。
「また魔法かよ! むかつくんだよっ!」
理不尽にもエクシが怒っている。
感情のままにエクシの寿命の渦が揺れる。
だからなのか、心だけじゃなく体の動きもその寿命の渦に大きく出ている。
エクシが俺へ大きな突きを出そうとした瞬間を狙い、大きく踏み込み小剣を突き出す。
エクシは槍の柄でそれを防ごうと受ける。
接触したことで封じてあった『発火』の大きな火球がパッと燃え上がった。
さらに踏み込み魔法をぶつけようとした俺の脇腹に鋭い痛み。
エクシの左手は槍を捨て、いつの間にか短剣に持ち替えていた。
でもこの程度の痛みじゃ俺を止めることはできない。
俺はそのままエクシの左胸へと触れ、『ぶぶぶん殴る』を発動した。
『発火』で体勢を崩していたのか、エクシの体は大きく仰け反り、そしてまだ効果が残っていたぬかるみの上を滑る。
俺は急いで脇腹へ『生命回復』をかける。
エクシが体勢を崩していたからか、幸い傷も浅く、内臓までは届いてないようだ。
「お前らっ! お前らっ!」
エクシは上体を起こす。
その場所は途中まで回復しかけていたクッサンドラの傍ら。
クッサンドラの傷口からはまだ血がとめどなく流れ出ている。
エクシは短剣をクッサンドラへ突き立てようとしたが、その手には短剣が握られていない。
滑っている途中に手放したのか、俺とエクシたちとのちょうど中間くらいに転がっている。
そのとき、とても大きな消費命の集中を感じた。
エクシとクッサンドラのすぐ後ろにマドハトが。
「エクシっ! こっちを向けっ!」
注意を引き付けるつもりで左手を構えながら叫んだ。
小石はもう手元にないから自分の短剣を三本指で構え、『見えざる弓』の魔法代償分の消費命を集中して。
エクシは俺を睨みつけ、俺もエクシを見つめる。
リテルの、エクシと楽しく遊んだ記憶を一瞬だけ思い出す。
その一瞬のせいで、俺の魔法の発動が遅れ、マドハトの魔法が先に発動した。
すぐにエクシの体がぶるりと震える。
エクシの目の焦点が揺れながらあらぬ方向へと向き、その方向へゆっくりと倒れ込む。
俺は『見えざる弓』をいつでも放てるよう構えは維持しながら三人が居る場所へと近づいてゆく。
エクシが起き上がる――恐る恐る、といった感じで。
俺がすぐに魔法を発動させなかったのは、その違和感にすぐに気付いたから。
呆然としているエクシのすぐ横で、力尽きたようにへたり込んでいるマドハト。
そして起き上がるクッサンドラ。
そのクッサンドラが、エクシを見つめて激昂した。
「お前らっ! 何をしガハッ」
吐血し、そのまま倒れ込むクッサンドラを、エクシは慌てて抱きかかえる。
クッサンドラの中の寿命の渦が急速に尽きてゆく。
「おいらが、死んだ」
エクシは確かにそう言った。
その言葉は、俺が感じた違和感と一致した。
クッサンドラが起き上がる直前、寿命の渦の動きが、エクシとクッサンドラとで入れ替わったのだ。
二人とも犬種だから基本的な部分は同じなのだが、ゆっくりと静かに動きを止めかけていたクッサンドラの寿命の渦と、激しく怒りに満ち満ちていたエクシの寿命の渦とが。
起き上がったクッサンドラの寿命の渦は激しい怒りに満ちながらも消えてゆき、逆にエクシの寿命の渦は急に静かに落ち着いた動きへと変わった。
「……ああ、そうか」
エクシの表情からは険が取れ、代わりに悲しみと苦しみとが加わっている。
「マドハト……これ、君が前に話してくれた、あれかい? おいらのこと、助けてくれたのかい?」
「クッサンドラが先に! 僕を! 助けてくれたです!」
ということは、まさかの『取り替え子』なのか?
「ねぇ、マドハト。元に戻すことってのはできるのかい?」
「死んじゃったら無理です!」
「……そうか……」
「あと! 次に使えるのは十年後です!」
この世界は十二進数だから十進換算で十二年間か。
以前、カエルレウム師匠に『取り替え子』のことをお聞きしたとき、俺はゴブリンが『取り替え子』を使いまくったらって心配した。
そうか、そんな制限もあるのか。
エクシが落ち着くまでにハムスター似の鼠種にもう一度『生命回復』をかけたところ、目を覚ました。
「ありがとうございます。後は自分でやりますので」
そう言うと彼は、自分の名がドマースであること、そして寝ている間に多重の『生命回復』効果が得られる彼の作った魔術『癒やしのゆりかご』を発動することを宣言し、本当に寝てしまった。
彼の相棒であるヘイヤという鼠種の兎亜種には『生命回復』が効かなかった。
肉体がもう、生命体が本来持つ回復力を失っていたのだ。
ドマースが寝ている間、エクシは落ち着いたのか、まず、俺の首にはめられた『魔法封印の首輪』を外し、そして自身の首へと装着した。
着脱のときだけ接続する魔法品『魔法封印の首輪の鍵』を俺へと手渡し、それからポツリポツリと語り始めた――『取り替え子』で入れ替わったことにより、「思い出す」ことができるようになったエクシの人生について。
エクシの父ハグリーズは、村人に対しては陽気で調子がいいスケベ男だ。
しかし、村人たちに笑顔を見せるその対価であるかのように、自分の子に、主に次男であるエクシに対してはつらくあたった。
長男に対しても厳しさはあったものの、理不尽な暴言や体罰はエクシにだけ与えられた。
特に、養えずの浮気による罰を受けた後は、村人からの非難や嘲笑、ネタにされてのからかい等を受けたその鬱憤は全てエクシへと流れていった。
普段、家の中で虐げられていたからこそエクシは、外で自分より幼いケティやリテルに対しマウントを取っていた。
それでかろうじて保てていた心のバランスが一気に崩れはじめたのは、エクシの姉が家を出たのがきっかけだった。
エクシの姉キッチは、誰にでも優しく、愛されていた。
リテルも、リテルの兄ビンスンも、初恋がキッチだったとリテルの記憶の中にはあった。
そのキッチは、ハグリーズがエクシに対して暴力を振るったとき、いつも間に入ってかばってくれていた。
ただ、それだけ人気のある娘がいつまでも放っておかれるわけもなく、エクシが十歳の時、隣村であるゴド村へと嫁いでいった。
キッチの結婚した相手は、クッサンドラの兄である犬種の半返り、アーレ。
自分を庇護する存在を奪われたという絶望は、やがて半返りや先祖返り全般への憎しみとして育っていった。
エクシはその頃から特に体を鍛え始め、十二歳――ホルトゥスは十二進数なので十進換算で十四歳を迎えたとき、テニール兄貴に紹介状を書いてもらって家を出た。
もともとこの世界では十歳の半成人になると、税を支払う義務が発生する。
そのため家業を継がない子供については他の職業に就く資格を得る。
ただし、全ての者が好きな職業に就けるかというとそうではない。
特に組合職と呼ばれる、親方について特別な技術を学ぶような職業は、適性がない者がそれを望んでも途中で挫折する恐れが少なくない。
組合は、その職業に関する技術や知識を守るための団体なので、その職業を途中で投げ出しそうな者は初めから拒絶されるのである。
そのため、その職業経験者による推薦を得た者でなければ就くことができないのだ。
兵士という職業は組合職ではないが、同様に職業経験者による推薦が必要となる。
領兵のような領主に直接仕えるような兵士は特に。
肉体的にも精神的にも強靭さが求められる仕事だからだ。
エクシがハグリーズに虐げられているのは村人たちにも周知の事実であったため、テニール兄貴の図らいもあったのだろう。
とにかくエクシは十二歳で領兵への道を拓き、フォーリーへと旅立ったのだった。
フォーリーでエクシは貪欲に体を鍛え、自分にようやく自信を持てるようになり始めた頃、新たに領兵見習いとなったのがクッサンドラだった。
クッサンドラからしたら、自分の義姉となってくれた優しいキッチの弟――年齢的には一歳だけクッサンドラの方が年下だったから、もうほとんど義理の兄に出会ったかのようにエクシに声をかけた。
その笑顔が、エクシには気に食わなかった。
自分を守ってくれていた頼れる姉を奪われた恨みを、自分が苦しんでいる間、毎日のように姉の優しさに包まれて幸せそうに暮らしてきたクッサンドラへの妬みを、怒りを、自分の哀しみを、全てクッサンドラへとぶつけた。
クッサンドラは、エクシの闇の深さに驚き、だがその優しさと、魔術師適性のある深い思考とで、同時にエクシの事情も理解し、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
だからエクシの無茶な要求もすべて呑んできた。
中には呑めないほど酷いものもあったが、それでエクシが起こした癇癪を、彼の気が済むまで付き合うべく努力し続けた。
しかしそうやって全て受け入れてきたことが、甘やかしたことが、結果的にこんな事件にまでエクシを追い詰めることになってしまったと、中身が入れ替わったことで見えるようになったエクシの記憶を覗きながら、クッサンドラは言った。
ドマースたちがエクシと接触したのは、アイシスの宵闇通りでエクシが馴染みの娼婦と共に路地へと消えた直後のこと。
王都キャンロルのさる偉いお方から「スノドロッフの一件に絡んだ者たちの一人に声をかけたい」との密命を受けたドマースが、先回りして色々と準備をしていた網に引っかかったのがエクシだった。
名無し森砦での無駄な足止めも、その準備をするための時間を兼ねていたようだ。
エクシは最初、自分へ声をかけてもらえたことをとても喜んだ。
今まで誰かに認めてもらうことなんて全くない人生だったから。
でも違ったのだ。
求められていたのは自分ではなかった。
魔女の弟子であるルブルム本人は無理だろうということで、その従者である見習い、つまり俺が、お声がかりの対象だった。
エクシは、自分がようやく認められる機会を、俺に奪われたように感じたらしい。
やっぱり自分は要らない子だった。自分を認めてくれるのは、鍛錬と筋肉、ただそれだけ。
かつて自分のあとをついてまわっていた同郷の幼馴染たち――ケティとリテルはいつの間にか自分のことなど忘れて二人で仲良くしていた。
それどころか、その俺が、魔女様にも認められ、魔女の弟子や、名無し森砦の女兵士にすら認められ、慕われていた。
あのどんくさかった俺が、いつの間にか偉そうになり、所構わずイチャつき、しかもアイシスのトップ娼婦にすら求められ、そういえば自分に夢中になったはずの娼婦でさえもそれを忘れて俺に夢中になっていた。
怒りは既に憎しみへと変わっていた。
魔女の弟子たちと俺を離した状態で交渉したいというドマースの作戦を聞いたとき、それはそのまま「リテルへわからせてやる」いい機会だと考えた。
初めは殺すつもりまではなく、俺が怯え、色々と垂れ流しながら許しを乞えば許してやる、くらいに考えていたらしい。
しかし俺の対応やその後の行動を見て、俺を認めかけた自分に気付いた途端、エクシの中で何かが壊れたという。
あとは俺が体験したまんま。
エクシは、自分の中に渦巻く負の感情を抑えきれず、血迷い、そして自ら手をかけたクッサンドラと肉体を交換され、絶命した。
「おいらは……俺は、エクシとして責任を取らなきゃいけない。マドハト、いつかゴド村に帰れるその時まで、お、俺は、エクシとして……俺は、この罪を償うつもりです」
あまつさえ、ヘイヤを殺した罪までエクシがかぶると言い出した。
俺とマドハトに助けてもらった命だからと。
俺は紳士として食い下がったのだが、「王都キャンロルのさる偉いお方」のことを考えると、俺の罪にしてしまうとルブルムや、その師匠たる寄らずの森の魔女にまで悪い影響が出る恐れがあると言われ、俺は断腸の思いでその提案を受け入れた。
すやすやと眠るドマースの横に、ずっと倒れたままのヘイヤを見つめる。
俺が初めて殺した人。
それも状況的にエクシの言った通り、俺の勘違いの過剰防衛なのだろう。
俺はもう、紳士になるための資格を永遠に失ったのではないだろうか。
● 主な登場者
・有主利照/リテル
猿種、十五歳。リテルの体と記憶、利照の自意識と記憶とを持つ。魔術師見習い。
ゴブリン用呪詛と『虫の牙』の呪詛と二つの呪詛に感染。レムールのポーとも契約。森の中で怪しい連中と遭遇。
・ケティ
リテルの幼馴染の女子。猿種、十六歳。黒い瞳に黒髪、肌は日焼けで薄い褐色の美人。胸も大きい。
リテルとは両想い。フォーリーから合流したがリテルたちの足を引っ張りたくないと引き返した。ディナ先輩への荷物を託してある。
・ラビツ
久々に南の山を越えてストウ村を訪れた傭兵四人組の一人。ケティの唇を奪った。
アイシスでもやはり娼館街を訪れていて、二日前にアイシスを出発していた。ギルフォドへ向かっている可能性が大。
・マドハト
ゴブリン魔法『取り替え子』の被害者。ゴド村の住人で、今は犬種の体を取り戻している。
元の世界で飼っていたコーギーのハッタに似ている。変な歌とゴブリン語とゴブリン魔法を知っている。地味に魔法勉強中。
・ルブルム
魔女様の弟子である赤髪の少女。整った顔立ちのクールビューティー。華奢な猿種。
魔法も戦闘もレベルが高く、知的好奇心も旺盛。親しい人を傷つけてしまっていると自分を責めがち。
・アルブム
魔女様の弟子である白髪に銀の瞳の少女。鼠種の兎亜種。
外見はリテルよりも二、三歳若い。知的好奇心が旺盛。
・カエルレウム
寄らずの森の魔女様。深い青のストレートロングの髪が膝くらいまである猿種。
ルブルムとアルブムをホムンクルスとして生み出し、リテルの魔法の師匠となった。『解呪の呪詛』を作成中。
・ディナ
カエルレウムの弟子。ルブルムの先輩にあたる。重度で極度の男嫌い。壮絶な過去がある。
アールヴを母に持ち、猿種を父に持つ。精霊と契約している。トシテルをようやく信用してくれた。
・ウェス
ディナに仕えており、御者の他、幅広く仕事をこなす。肌は浅黒く、ショートカットのお姉さん。蝙蝠種。
魔法を使えないときのためにと麻痺毒の入った金属製の筒をくれた。
・『虫の牙』所持者
キカイー白爵の館に居た警備兵と思われる人物。
呪詛の傷を与えるの魔法武器『虫の牙』を所持し、ディナに呪詛の傷を付けた。フラマの父の仇でもありそう。
・メリアン
ディナ先輩が手配した護衛。リテルたちを鍛える依頼も同時に受けている。ラビツとは傭兵仲間。
ものすごい筋肉と角と副乳とを持つ牛種の半返りの女傭兵。知識も豊富で頼れる。
・エクシあんちゃん
絶倫ハグリーズの次男でビンスンと同い年。ビンスン、ケティ、リテルの四人でよく遊んでいた。犬種。
父による虐待により歪み、妬みからリテルを襲い、自身が傷つけたクッサンドラの体に『取り替え子』で入れられ、死亡。
・エクシ(クッサンドラ)
ゴド村で中身がゴブリンなマドハトの面倒をよく見てくれた犬種の先祖返り。ポメラニアン顔。
クスフォード領兵であり、偵察兵。若干だが魔法を使える。マドハトの『取り替え子』により現在、エクシの体に入っている。
・レム
爬虫種。胸が大きい。バータフラ世代の五人目の生き残り。不本意ながら盗賊団に加担していた。
同じく仕方なく加担していたミンを殺したウォルラースを憎んでいる。トシテルの心の妹。現在、護衛として同行。
・ウォルラース
キカイーがディナたちに興味を示すよう唆した張本人。過去にディナを拉致しようとした。金のためならば平気で人を殺す。
ダイクの作った盗賊団に一枚噛んだが、逃走。海象種の半返り。
・ロッキン
名無し森砦の守備隊第二隊副隊長であり勲爵。フライ濁爵の三男。
現在はルブルムたちの護衛として同行している。婚約者が居て、その婚約者のためにヴィルジナリスの誓いを立てている。
・チェッシャー
姉の薬を買うための寿命売りでフォーリーへ向かう途中、野盗に襲われ街道脇に逃げ込んでいたのをリテルに救われた。
猫種の半返りの女子。宵闇通りで娼婦をしているが魔法を使い貞操は守り抜いている。リテルに告白した。
・フラマ
おっぱいで有名な娼婦。鳥種の半返り。淡いピンク色の長髪はなめらかにウェーブ。瞳は黒で口元にホクロ。
胸の大きさや美しさが際立つ痴女っぽい服装だが、所作は綺麗。ラビツに買われていた。父親が地界出身。
・ヘイヤ
鼠種の兎亜種の先祖返り。茶色い夏毛の兎顔。身なりのよさそうなコート、動きやすさ重視の軽革鎧。
膝までのブーツ、胸元に蝶ネクタイ。リテルの過剰防衛により死亡。
・ドマース
鼠種先祖返り。ハムスター似。身なりのよさそうなコート、動きやすさ重視の軽革鎧。
膝までのブーツ、胸元に蝶ネクタイ。リテルが交渉のテーブルへついてもらうようエクシに依頼した。
・レムール
レムールは単数形で、複数形はレムルースとなる。地界に生息する、肉体を持たず精神だけの種族。
自身の能力を提供することにより肉体を持つ生命体と共生する。『虫の牙』による呪詛傷は、強制召喚されたレムールだった。
■ はみ出しコラム【蝶ネクタイ】
今回、ヘイヤとドマースが着けていた蝶ネクタイ。
そして回想にて、フォーリーの富裕層区域の警備兵のうち何名かが着けていたと語られた蝶ネクタイ。
ホルトゥスにおいて蝶ネクタイにはどのような意味があるのかを説明する。
蝶ネクタイは、お洒落として着用されるものではない。
そもそもはとある貴族の館で、使用人として雇われた者が着用したのがきっかけである。
彼の働きは素晴らしく、その貴族は蝶ネクタイを彼のシンボルとして他の使用人には許可しなかった。
やがてその事実が他の貴族にも伝わり、模倣された。
現在のホルトゥスにおける蝶ネクタイは、特定の貴族に対し直接、声を届けることができる身分を示すものとして富裕層以上の常識として広まっている。
返事はない。
寿命の渦的には意識を失っているだけのように感じる。
魔法でやられたのか?
テーブルの二人の方を一瞥すると一人居なくなっている。
寝ている鼠種の先祖返りはそのままだが、兎亜種の方が席を離れている。
足音が近づいてくる方を見ると、樹々の隙間、まだ少し離れた所をこちらへ向かって走ってくるエクシが見える。
『魔力探知機』を『魔力感知』へと切り替え、感知の密度を上げると、偽装の渦で寿命の渦を消し込んだ誰かが一人、近づいて来ているのがわかる。
あのテーブルの方からだから、兎亜種の奴か?
奴らの目的は何だ?
クッサンドラに止を刺しに?
消費命の集中を悟られないよう偽装消費命を用意する。
エクシもすぐ近くまで来ている。
マドハトも走り始めた。
だが一番早いのは兎亜種の奴だ。
もうクッサンドラのすぐ近くまで――寿命の渦は隠しているくせに、その姿は隠さず堂々と現れた。
先祖返りだからか頭部は茶色い夏毛の兎そのもので、身なりのよさそうなコートの下には動きやすさを重視したタイプの革鎧。
膝までのブーツ、その足取りに慎重さを感じる。
それからかなり目につくのは胸元に蝶ネクタイ――そういやフォーリーの富裕層区画の警備兵の中に数名、蝶ネクタイを着けていた人が居たな。何か意味があるのかな。
「交渉は決裂したっ! 身を守れっ!」
思考がエクシの言葉で中断される。
交渉? 決裂? 身を守る?
状況が把握できない中で、兎亜種の奴がコートの下に隠していた短剣を抜き、両手に構えた。
反射的に俺はそいつに左手を向けた。
右手には小石がある。『見えざる弓』でもいいし、他に何か威嚇できるのは――と考えたとき、眼の前の兎亜種の奴が突然、こちらへ向かって走り始めた。
いきなり突きつけられた身の危険に、とっさに俺は消費命を新しく集中した。さっきの偽装消費命じゃ足りなかったから。
俺の意思を感じてくれたポーが手伝ってくれる。左手の先から兎亜種の奴の方へ伸びてくれて。
ポーの先端で、俺は『ぶっ飛ばす』を発動した。
『ぶん殴る』五発分のダメージ。
敵が迫ってくる勢いに呑まれたというか、恐怖が攻撃力の高い確実性のある魔法を選ばせたというか。
そいつが文字通り「ぶっ飛ばされ」たのが、スローモーションで見えた。
ポーの先端はちょうどそいつの喉元にあった。
こちらへ向かおうとするそいつの喉元にカウンター気味に炸裂した『ぶっ飛ばす』は、その兎亜種の体を、首の所でくの字に曲げた。
そいつの体は仰向けに倒れている。
でも、その兎の頭だけはそいつの胸の上に、伏せられて置かれているみたいに、首の所で折りたたまれていた。
しかもその首からは勢いよく噴水のような出血。
そいつへと向けていた左手が震える。
いや、震えているのは全身だ。
さっきまで生きていたはずの鼠種の兎亜種、その寿命の渦は今や消えかけている。偽装の渦ではなく、死ぬ間際の消え方。
殺した。
俺が、殺した。
いや身を守ったのだ。リテルの体を――そう思考しているのに、自責の念が次々と湧いてきて、俺の思考を蝕んでゆく。
「あーあ」
すぐ背後にエクシの声。
と同時に首に何かが装着される音。あの兎亜種の首ではなく、俺の首に。
首が苦しい。やけにぴっちりとした冷たい――恐らく金属製の首輪?
「助けてくれようとした人を殺すだなんて、虫を怖がっていたあのリテルも随分成長したもんだなぁ」
助けに?
振り返ろうとした俺の背中に強い衝撃。
前方に投げ出されて地面へ転がった俺の視界に、槍を構えたエクシの憎しみに満ちた表情。
蹴られたのか?
え、助けるってあの兎亜種が、俺を、エクシから?
待て待て待て。話が通じない。
兎亜種は襲ってきただろう?
だとしたらエクシとグルで、エクシを助けようとした?
あっ、そうだ。何かを首に。
左手で首を確認しようとした瞬間、エクシの槍の穂先が俺の左肩を鋭く貫く。
熱っ痛い。
どういうことだ――状況が見えない。
ただ、エクシは味方じゃないのは確かだということ。
まさか名無し森砦の兵士たちみたいにクスフォード領兵のエクシも――ということはテーブルの二人は盗賊団で――だとしたらエクシがウォルラースとつながって?
「しかしすげぇな魔法ってのは。魔女様の弟子になったってのは嘘じゃなかったんだな」
そうだ魔法――と考えた途端、エクシの槍が再び俺を貫く。
今度は左膝を。
「変な動きするんじゃねぇよ」
この体勢からエクシの槍を避けるのは無理だ。
『生命回復』でも発動しようものなら、それ以上の傷を付けられかねない。
「リテル……お前、調子に乗ってねぇか? 自分に価値があるとか勘違いしてるだろ?」
エクシは槍先を俺の左膝から引き抜き、今度は俺の鼻先で止める。
リテルの記憶を覗いても、エクシにこんなにも恨まれるような過去は見当たらない。
まさかケティを狙っていたとか?
「お前は! お前らは! 俺に言う通りにしてりゃいいんだっ!」
ああ、そのセリフには聞き覚えがある――俺が、ではなく、リテルが、だけど。
きっとケティも、ストウ村の人なら誰もが知っているセリフ。
ハグリーズさんがあの養えない浮気で魔法代償提出刑を受けた後、酒の量が増えて、夜にはちょいちょいあの声が家の外にまで聞こえてきていた。
そういえば、キッチ――エクシのお姉さんで、ハグリーズさんのとこの長女――が隣のゴド村へとお嫁に行った後、エクシは顔にアザを作っていることが多くなった。
エクシがこんな傲慢で傍若無人に振る舞うようになったのって、DV被害者がDVするようになるっていうアレなのか?
「くそっ! くそっ! なんでこうなった! 殺しちまいやがって!」
エクシにしても何やら計画通りではない感じがしている。
しかもすぐに俺を殺そうという気配でもない。
おかげで冷静さを取り戻す。
マドハトがこちらへ向かっている。チャンスがあるとしたらそこか。
人を殺してしまった罪悪感に打ちのめされるよりも前に、やるべきことがたくさんあるじゃないか。
「な、なんだその目は! リテルのくせにっ」
エクシが槍を動かすよりも早く、俺は魔法を発動した。
さっきとっさに発動した『ぶっ飛ばす』の前に集中していた偽装消費命分を用いて。
もちろんポーもそれを察して動いてくれた――槍を握るエクシの右手めがけて伸びてくれたそこに『ぶん殴る』を。
「痛っ」
エクシの手越しに衝撃は槍にも伝わったようで、槍もエクシの手を離れ地面へと転がる。
俺は即座に『生命回復』を左膝に――凄まじい痛みと共に消費命を集めようとした集中が解ける。
なんだ?
首に痛み――まさかこの首輪。
「だよな? 魔法は使えねぇはずだよな?」
エクシは利き手ではない左手で腰の小剣を抜き、構えながら周囲を見渡す。
再び消費命を集中しようとしたが、酷い痛みが――ポーが『虫の牙』の呪詛に囚われていた頃の痛みに比べれば幾らか弱いのだが、場所が首なだけに思考をかき乱されるというか、集中を維持するのがしんどい。
(マモル)
ポーの意識が伝わってくる。
そしてポーが俺の首に移動するのを感じる。
試しに『生命回復』を使うと――いける!
魔法品は肉体に触れて発動する。間にポーが入ってくれることで、触れていないことになるのか、それとも発動している魔法をポーが受け止めてくれているのか。
なんにせよ、ポーに感謝だ。本当にすごいよ、ポー!
左膝に続けて左肩の傷も『生命回復』で塞ぎつつ立ち上がる。
「おいおいっ! 『魔法封印の首輪』じゃねぇのかっ? 壊れているのか? それとも俺は騙されたのかっ? くそう! あいつらも殺してやるっ!」
エクシから距離を取りつつ自分の寿命の渦を「落ち着いているときの状態」に整える。
これ、本当に効果があるな。冷静に状況に対峙できている。
マドハトももうすぐ到着する。
「リテルさまっ!」
「マドハト、気をつけろ。エクシは盗賊団の一味かもしれない」
「はいです!」
マドハトは短剣を抜いて構える。
「盗賊だと? おめでたいやつだな!」
エクシが俺に向かって小剣の突きを繰り出す。
俺はその突きを避けつつ後ろへ下がると、その間にエクシは倒れているクッサンドラの方へと走る。
エクシはまだ痛みが残っているであろう右手でクッサンドラの小剣も鞘から抜き、その剣先をクッサンドラの喉元へ当てる。
自分の小剣は俺とマドハトの方へと交互に向け、牽制を続けている。
「お前ら、動くなよ」
とは言われても、エクシとクッサンドラは同じ部隊。
クッサンドラが倒れたフリをしているのであれば、今このタイミングでも偽装消費命を集中していて、魔法を使う機会をうかがっている恐れだってある。
そんな状況が、また一人加わることでさらに複雑になった。
「ど、どういうことになっているんですか!」
さっきまでテーブルで寝ていた鼠種の先祖返りが、近くまで来ていた。
あの兎亜種の先祖返りと同じ格好。蝶ネクタイまで一緒。
その顔はなんとなくハムスターみがある。
ただこの発言。仲間じゃないのか?
どういうことかってのはこっちが聞きたいんだけど。
「エクシさん、どうなってます? 交渉の橋渡しをお願いしたはずでしょう?」
エクシと鼠種が顔見知りなのは想定内として、何やらモメてる?
交渉? やはりまだ話がつながらない。
「何か勘違いされているようですが、彼を殺したのはリテルですよ」
エクシは牽制の剣先を一瞬、さっきの兎亜種へと向けた。
「……ヘイヤ? ヘイヤっ!」
鼠種があの死体へと意識を向けた瞬間、エクシは大きく踏み出し、後ろから鼠種へと切りつけた。
「……ぐっ……エクシ……あなた……」
鼠種が驚愕の表情を浮かべたとき、マドハトが動いた――消費命の集中、そして発動。
エクシが鼠種へ追撃を加えようとしたとき、大きくバランスを崩す。
その剣先は鼠種の目元をかすめ、その直後、エクシはみっともなく転んだ。
しかし、転んだはずみに鼠種とぶつかり、二人は互いに弾かれるように『大笑いのぬかるみ』の範囲外へ滑り出てしまう。
俺はその間に滑った先の鼠種の方へと走り、背中の深い傷へ『生命回復』を強めにかける。
丁寧さが二の次なのはこの際許してもらって、せめて命を救えれば。
エクシはぬかるみを大きく回り込んでこちらの方へ。
そこへマドハトが再び別のぬかるみを作る。
エクシは転んだものの勢いがついているせいか、ぬかるみの上を滑って通り過ぎる。
「なんだよ。勢いつけりゃどうってことないな!」
慌てて俺は左手を構えるが、ポーは『魔法封印の首輪』をカバーしてくれているからか体を伸ばしてはくれない。
ならばと小石を一つ、三本指で構えて『見えざる弓』を発動する。
俺の構えを見たエクシは小剣二本で自身を庇いつつ、左右に素早く動きながら、距離の詰め方も少しずつになった。
あの動きはメリアンに教えてもらった。
魔法や射撃武器を警戒するときの動き。
エクシは領兵として訓練を受けているのだろう。
だが俺も偽装消費命で『大笑いのぬかるみ』を発動する。
エクシはバランスを崩して、つるつるとその場で滑り出す。
「犬っころ! 滑らせてばかりで面倒臭えんだよっ!」
俺が使ったとは思っていないようだ。
よし、次の手を――と思考を巡らせたそのとき、エクシは片方の小剣を地面へと突き刺した。
「なんだよ。浅ぇじゃねぇか」
刺した小剣を軸に体をひねったエクシは、上半身だけの力でもう片方の小剣を投げた――マドハトの方へ。
「マドハト避けろっ!」
俺が叫び終わらないうちに、鈍い音がした。
小剣が深々と刺さった背中は、ゆっくりと地面へ倒れる。
その向こうに、呆然と立ち尽くすマドハト。
マドハトを庇ったのは、さっきまで倒れていたクッサンドラだった。
「クッサンドラ!」
「クッサンドラっ!」
マドハトとエクシが同時に叫ぶ。
俺はぬかるみを避けてマドハトたちの所へと走る。
小剣を抜くと同時に『生命回復』をかけるが、溢れる血の量に圧倒される。
傷が深すぎる。なんとかなるのか?
「リテルさまっ!」
マドハトが指す方向を見ると、エクシがこちらへ近づいて来る。
ぬかるむのは地面が露出している部分だけなので、下草が多いここいらでは草につかまって魔法効果範囲からの脱出も不可能ではないということか。
「どいつもこいつも俺の邪魔しやがってっ!」
エクシが直線でこちらへ来ないと思ったら槍を拾っている。
マドハトが再びぬかるみを作るが、エクシは草の上だけを走ってこちらの方へ。
俺はクッサンドラの治療を途中で辞めて立ち上がる。
新たに偽装消費命を集中しつつ小剣を構える。
「マドハト! ぬかるみはいいから隠れろ!」
「はいです!」
魔法無しに小剣で、武技を鍛えたエクシの槍と戦うのは分が悪い。
しかもここいらは樹々の間隔がまばらだから槍が戦いづらいってこともない。
せめてメリアンたちが気づいてくれれば――いや、そうじゃないだろ。
俺自身の力で乗り越えられないで、この先ルブルムを守れるわけないだろうが。
剣先に強めの『発火』を『接触発動』する。
そして即座に偽装消費命を左手へ集中する。
こちらは『ぶぶぶん殴る』。『ぶん殴る』三発分の威力だが『ぶっ飛ばす』だと魔法代償が大きすぎて今の俺にはまだ偽装できないから。
「また魔法かよ! むかつくんだよっ!」
理不尽にもエクシが怒っている。
感情のままにエクシの寿命の渦が揺れる。
だからなのか、心だけじゃなく体の動きもその寿命の渦に大きく出ている。
エクシが俺へ大きな突きを出そうとした瞬間を狙い、大きく踏み込み小剣を突き出す。
エクシは槍の柄でそれを防ごうと受ける。
接触したことで封じてあった『発火』の大きな火球がパッと燃え上がった。
さらに踏み込み魔法をぶつけようとした俺の脇腹に鋭い痛み。
エクシの左手は槍を捨て、いつの間にか短剣に持ち替えていた。
でもこの程度の痛みじゃ俺を止めることはできない。
俺はそのままエクシの左胸へと触れ、『ぶぶぶん殴る』を発動した。
『発火』で体勢を崩していたのか、エクシの体は大きく仰け反り、そしてまだ効果が残っていたぬかるみの上を滑る。
俺は急いで脇腹へ『生命回復』をかける。
エクシが体勢を崩していたからか、幸い傷も浅く、内臓までは届いてないようだ。
「お前らっ! お前らっ!」
エクシは上体を起こす。
その場所は途中まで回復しかけていたクッサンドラの傍ら。
クッサンドラの傷口からはまだ血がとめどなく流れ出ている。
エクシは短剣をクッサンドラへ突き立てようとしたが、その手には短剣が握られていない。
滑っている途中に手放したのか、俺とエクシたちとのちょうど中間くらいに転がっている。
そのとき、とても大きな消費命の集中を感じた。
エクシとクッサンドラのすぐ後ろにマドハトが。
「エクシっ! こっちを向けっ!」
注意を引き付けるつもりで左手を構えながら叫んだ。
小石はもう手元にないから自分の短剣を三本指で構え、『見えざる弓』の魔法代償分の消費命を集中して。
エクシは俺を睨みつけ、俺もエクシを見つめる。
リテルの、エクシと楽しく遊んだ記憶を一瞬だけ思い出す。
その一瞬のせいで、俺の魔法の発動が遅れ、マドハトの魔法が先に発動した。
すぐにエクシの体がぶるりと震える。
エクシの目の焦点が揺れながらあらぬ方向へと向き、その方向へゆっくりと倒れ込む。
俺は『見えざる弓』をいつでも放てるよう構えは維持しながら三人が居る場所へと近づいてゆく。
エクシが起き上がる――恐る恐る、といった感じで。
俺がすぐに魔法を発動させなかったのは、その違和感にすぐに気付いたから。
呆然としているエクシのすぐ横で、力尽きたようにへたり込んでいるマドハト。
そして起き上がるクッサンドラ。
そのクッサンドラが、エクシを見つめて激昂した。
「お前らっ! 何をしガハッ」
吐血し、そのまま倒れ込むクッサンドラを、エクシは慌てて抱きかかえる。
クッサンドラの中の寿命の渦が急速に尽きてゆく。
「おいらが、死んだ」
エクシは確かにそう言った。
その言葉は、俺が感じた違和感と一致した。
クッサンドラが起き上がる直前、寿命の渦の動きが、エクシとクッサンドラとで入れ替わったのだ。
二人とも犬種だから基本的な部分は同じなのだが、ゆっくりと静かに動きを止めかけていたクッサンドラの寿命の渦と、激しく怒りに満ち満ちていたエクシの寿命の渦とが。
起き上がったクッサンドラの寿命の渦は激しい怒りに満ちながらも消えてゆき、逆にエクシの寿命の渦は急に静かに落ち着いた動きへと変わった。
「……ああ、そうか」
エクシの表情からは険が取れ、代わりに悲しみと苦しみとが加わっている。
「マドハト……これ、君が前に話してくれた、あれかい? おいらのこと、助けてくれたのかい?」
「クッサンドラが先に! 僕を! 助けてくれたです!」
ということは、まさかの『取り替え子』なのか?
「ねぇ、マドハト。元に戻すことってのはできるのかい?」
「死んじゃったら無理です!」
「……そうか……」
「あと! 次に使えるのは十年後です!」
この世界は十二進数だから十進換算で十二年間か。
以前、カエルレウム師匠に『取り替え子』のことをお聞きしたとき、俺はゴブリンが『取り替え子』を使いまくったらって心配した。
そうか、そんな制限もあるのか。
エクシが落ち着くまでにハムスター似の鼠種にもう一度『生命回復』をかけたところ、目を覚ました。
「ありがとうございます。後は自分でやりますので」
そう言うと彼は、自分の名がドマースであること、そして寝ている間に多重の『生命回復』効果が得られる彼の作った魔術『癒やしのゆりかご』を発動することを宣言し、本当に寝てしまった。
彼の相棒であるヘイヤという鼠種の兎亜種には『生命回復』が効かなかった。
肉体がもう、生命体が本来持つ回復力を失っていたのだ。
ドマースが寝ている間、エクシは落ち着いたのか、まず、俺の首にはめられた『魔法封印の首輪』を外し、そして自身の首へと装着した。
着脱のときだけ接続する魔法品『魔法封印の首輪の鍵』を俺へと手渡し、それからポツリポツリと語り始めた――『取り替え子』で入れ替わったことにより、「思い出す」ことができるようになったエクシの人生について。
エクシの父ハグリーズは、村人に対しては陽気で調子がいいスケベ男だ。
しかし、村人たちに笑顔を見せるその対価であるかのように、自分の子に、主に次男であるエクシに対してはつらくあたった。
長男に対しても厳しさはあったものの、理不尽な暴言や体罰はエクシにだけ与えられた。
特に、養えずの浮気による罰を受けた後は、村人からの非難や嘲笑、ネタにされてのからかい等を受けたその鬱憤は全てエクシへと流れていった。
普段、家の中で虐げられていたからこそエクシは、外で自分より幼いケティやリテルに対しマウントを取っていた。
それでかろうじて保てていた心のバランスが一気に崩れはじめたのは、エクシの姉が家を出たのがきっかけだった。
エクシの姉キッチは、誰にでも優しく、愛されていた。
リテルも、リテルの兄ビンスンも、初恋がキッチだったとリテルの記憶の中にはあった。
そのキッチは、ハグリーズがエクシに対して暴力を振るったとき、いつも間に入ってかばってくれていた。
ただ、それだけ人気のある娘がいつまでも放っておかれるわけもなく、エクシが十歳の時、隣村であるゴド村へと嫁いでいった。
キッチの結婚した相手は、クッサンドラの兄である犬種の半返り、アーレ。
自分を庇護する存在を奪われたという絶望は、やがて半返りや先祖返り全般への憎しみとして育っていった。
エクシはその頃から特に体を鍛え始め、十二歳――ホルトゥスは十二進数なので十進換算で十四歳を迎えたとき、テニール兄貴に紹介状を書いてもらって家を出た。
もともとこの世界では十歳の半成人になると、税を支払う義務が発生する。
そのため家業を継がない子供については他の職業に就く資格を得る。
ただし、全ての者が好きな職業に就けるかというとそうではない。
特に組合職と呼ばれる、親方について特別な技術を学ぶような職業は、適性がない者がそれを望んでも途中で挫折する恐れが少なくない。
組合は、その職業に関する技術や知識を守るための団体なので、その職業を途中で投げ出しそうな者は初めから拒絶されるのである。
そのため、その職業経験者による推薦を得た者でなければ就くことができないのだ。
兵士という職業は組合職ではないが、同様に職業経験者による推薦が必要となる。
領兵のような領主に直接仕えるような兵士は特に。
肉体的にも精神的にも強靭さが求められる仕事だからだ。
エクシがハグリーズに虐げられているのは村人たちにも周知の事実であったため、テニール兄貴の図らいもあったのだろう。
とにかくエクシは十二歳で領兵への道を拓き、フォーリーへと旅立ったのだった。
フォーリーでエクシは貪欲に体を鍛え、自分にようやく自信を持てるようになり始めた頃、新たに領兵見習いとなったのがクッサンドラだった。
クッサンドラからしたら、自分の義姉となってくれた優しいキッチの弟――年齢的には一歳だけクッサンドラの方が年下だったから、もうほとんど義理の兄に出会ったかのようにエクシに声をかけた。
その笑顔が、エクシには気に食わなかった。
自分を守ってくれていた頼れる姉を奪われた恨みを、自分が苦しんでいる間、毎日のように姉の優しさに包まれて幸せそうに暮らしてきたクッサンドラへの妬みを、怒りを、自分の哀しみを、全てクッサンドラへとぶつけた。
クッサンドラは、エクシの闇の深さに驚き、だがその優しさと、魔術師適性のある深い思考とで、同時にエクシの事情も理解し、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
だからエクシの無茶な要求もすべて呑んできた。
中には呑めないほど酷いものもあったが、それでエクシが起こした癇癪を、彼の気が済むまで付き合うべく努力し続けた。
しかしそうやって全て受け入れてきたことが、甘やかしたことが、結果的にこんな事件にまでエクシを追い詰めることになってしまったと、中身が入れ替わったことで見えるようになったエクシの記憶を覗きながら、クッサンドラは言った。
ドマースたちがエクシと接触したのは、アイシスの宵闇通りでエクシが馴染みの娼婦と共に路地へと消えた直後のこと。
王都キャンロルのさる偉いお方から「スノドロッフの一件に絡んだ者たちの一人に声をかけたい」との密命を受けたドマースが、先回りして色々と準備をしていた網に引っかかったのがエクシだった。
名無し森砦での無駄な足止めも、その準備をするための時間を兼ねていたようだ。
エクシは最初、自分へ声をかけてもらえたことをとても喜んだ。
今まで誰かに認めてもらうことなんて全くない人生だったから。
でも違ったのだ。
求められていたのは自分ではなかった。
魔女の弟子であるルブルム本人は無理だろうということで、その従者である見習い、つまり俺が、お声がかりの対象だった。
エクシは、自分がようやく認められる機会を、俺に奪われたように感じたらしい。
やっぱり自分は要らない子だった。自分を認めてくれるのは、鍛錬と筋肉、ただそれだけ。
かつて自分のあとをついてまわっていた同郷の幼馴染たち――ケティとリテルはいつの間にか自分のことなど忘れて二人で仲良くしていた。
それどころか、その俺が、魔女様にも認められ、魔女の弟子や、名無し森砦の女兵士にすら認められ、慕われていた。
あのどんくさかった俺が、いつの間にか偉そうになり、所構わずイチャつき、しかもアイシスのトップ娼婦にすら求められ、そういえば自分に夢中になったはずの娼婦でさえもそれを忘れて俺に夢中になっていた。
怒りは既に憎しみへと変わっていた。
魔女の弟子たちと俺を離した状態で交渉したいというドマースの作戦を聞いたとき、それはそのまま「リテルへわからせてやる」いい機会だと考えた。
初めは殺すつもりまではなく、俺が怯え、色々と垂れ流しながら許しを乞えば許してやる、くらいに考えていたらしい。
しかし俺の対応やその後の行動を見て、俺を認めかけた自分に気付いた途端、エクシの中で何かが壊れたという。
あとは俺が体験したまんま。
エクシは、自分の中に渦巻く負の感情を抑えきれず、血迷い、そして自ら手をかけたクッサンドラと肉体を交換され、絶命した。
「おいらは……俺は、エクシとして責任を取らなきゃいけない。マドハト、いつかゴド村に帰れるその時まで、お、俺は、エクシとして……俺は、この罪を償うつもりです」
あまつさえ、ヘイヤを殺した罪までエクシがかぶると言い出した。
俺とマドハトに助けてもらった命だからと。
俺は紳士として食い下がったのだが、「王都キャンロルのさる偉いお方」のことを考えると、俺の罪にしてしまうとルブルムや、その師匠たる寄らずの森の魔女にまで悪い影響が出る恐れがあると言われ、俺は断腸の思いでその提案を受け入れた。
すやすやと眠るドマースの横に、ずっと倒れたままのヘイヤを見つめる。
俺が初めて殺した人。
それも状況的にエクシの言った通り、俺の勘違いの過剰防衛なのだろう。
俺はもう、紳士になるための資格を永遠に失ったのではないだろうか。
● 主な登場者
・有主利照/リテル
猿種、十五歳。リテルの体と記憶、利照の自意識と記憶とを持つ。魔術師見習い。
ゴブリン用呪詛と『虫の牙』の呪詛と二つの呪詛に感染。レムールのポーとも契約。森の中で怪しい連中と遭遇。
・ケティ
リテルの幼馴染の女子。猿種、十六歳。黒い瞳に黒髪、肌は日焼けで薄い褐色の美人。胸も大きい。
リテルとは両想い。フォーリーから合流したがリテルたちの足を引っ張りたくないと引き返した。ディナ先輩への荷物を託してある。
・ラビツ
久々に南の山を越えてストウ村を訪れた傭兵四人組の一人。ケティの唇を奪った。
アイシスでもやはり娼館街を訪れていて、二日前にアイシスを出発していた。ギルフォドへ向かっている可能性が大。
・マドハト
ゴブリン魔法『取り替え子』の被害者。ゴド村の住人で、今は犬種の体を取り戻している。
元の世界で飼っていたコーギーのハッタに似ている。変な歌とゴブリン語とゴブリン魔法を知っている。地味に魔法勉強中。
・ルブルム
魔女様の弟子である赤髪の少女。整った顔立ちのクールビューティー。華奢な猿種。
魔法も戦闘もレベルが高く、知的好奇心も旺盛。親しい人を傷つけてしまっていると自分を責めがち。
・アルブム
魔女様の弟子である白髪に銀の瞳の少女。鼠種の兎亜種。
外見はリテルよりも二、三歳若い。知的好奇心が旺盛。
・カエルレウム
寄らずの森の魔女様。深い青のストレートロングの髪が膝くらいまである猿種。
ルブルムとアルブムをホムンクルスとして生み出し、リテルの魔法の師匠となった。『解呪の呪詛』を作成中。
・ディナ
カエルレウムの弟子。ルブルムの先輩にあたる。重度で極度の男嫌い。壮絶な過去がある。
アールヴを母に持ち、猿種を父に持つ。精霊と契約している。トシテルをようやく信用してくれた。
・ウェス
ディナに仕えており、御者の他、幅広く仕事をこなす。肌は浅黒く、ショートカットのお姉さん。蝙蝠種。
魔法を使えないときのためにと麻痺毒の入った金属製の筒をくれた。
・『虫の牙』所持者
キカイー白爵の館に居た警備兵と思われる人物。
呪詛の傷を与えるの魔法武器『虫の牙』を所持し、ディナに呪詛の傷を付けた。フラマの父の仇でもありそう。
・メリアン
ディナ先輩が手配した護衛。リテルたちを鍛える依頼も同時に受けている。ラビツとは傭兵仲間。
ものすごい筋肉と角と副乳とを持つ牛種の半返りの女傭兵。知識も豊富で頼れる。
・エクシあんちゃん
絶倫ハグリーズの次男でビンスンと同い年。ビンスン、ケティ、リテルの四人でよく遊んでいた。犬種。
父による虐待により歪み、妬みからリテルを襲い、自身が傷つけたクッサンドラの体に『取り替え子』で入れられ、死亡。
・エクシ(クッサンドラ)
ゴド村で中身がゴブリンなマドハトの面倒をよく見てくれた犬種の先祖返り。ポメラニアン顔。
クスフォード領兵であり、偵察兵。若干だが魔法を使える。マドハトの『取り替え子』により現在、エクシの体に入っている。
・レム
爬虫種。胸が大きい。バータフラ世代の五人目の生き残り。不本意ながら盗賊団に加担していた。
同じく仕方なく加担していたミンを殺したウォルラースを憎んでいる。トシテルの心の妹。現在、護衛として同行。
・ウォルラース
キカイーがディナたちに興味を示すよう唆した張本人。過去にディナを拉致しようとした。金のためならば平気で人を殺す。
ダイクの作った盗賊団に一枚噛んだが、逃走。海象種の半返り。
・ロッキン
名無し森砦の守備隊第二隊副隊長であり勲爵。フライ濁爵の三男。
現在はルブルムたちの護衛として同行している。婚約者が居て、その婚約者のためにヴィルジナリスの誓いを立てている。
・チェッシャー
姉の薬を買うための寿命売りでフォーリーへ向かう途中、野盗に襲われ街道脇に逃げ込んでいたのをリテルに救われた。
猫種の半返りの女子。宵闇通りで娼婦をしているが魔法を使い貞操は守り抜いている。リテルに告白した。
・フラマ
おっぱいで有名な娼婦。鳥種の半返り。淡いピンク色の長髪はなめらかにウェーブ。瞳は黒で口元にホクロ。
胸の大きさや美しさが際立つ痴女っぽい服装だが、所作は綺麗。ラビツに買われていた。父親が地界出身。
・ヘイヤ
鼠種の兎亜種の先祖返り。茶色い夏毛の兎顔。身なりのよさそうなコート、動きやすさ重視の軽革鎧。
膝までのブーツ、胸元に蝶ネクタイ。リテルの過剰防衛により死亡。
・ドマース
鼠種先祖返り。ハムスター似。身なりのよさそうなコート、動きやすさ重視の軽革鎧。
膝までのブーツ、胸元に蝶ネクタイ。リテルが交渉のテーブルへついてもらうようエクシに依頼した。
・レムール
レムールは単数形で、複数形はレムルースとなる。地界に生息する、肉体を持たず精神だけの種族。
自身の能力を提供することにより肉体を持つ生命体と共生する。『虫の牙』による呪詛傷は、強制召喚されたレムールだった。
■ はみ出しコラム【蝶ネクタイ】
今回、ヘイヤとドマースが着けていた蝶ネクタイ。
そして回想にて、フォーリーの富裕層区域の警備兵のうち何名かが着けていたと語られた蝶ネクタイ。
ホルトゥスにおいて蝶ネクタイにはどのような意味があるのかを説明する。
蝶ネクタイは、お洒落として着用されるものではない。
そもそもはとある貴族の館で、使用人として雇われた者が着用したのがきっかけである。
彼の働きは素晴らしく、その貴族は蝶ネクタイを彼のシンボルとして他の使用人には許可しなかった。
やがてその事実が他の貴族にも伝わり、模倣された。
現在のホルトゥスにおける蝶ネクタイは、特定の貴族に対し直接、声を届けることができる身分を示すものとして富裕層以上の常識として広まっている。
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