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第一章 ダフネはアポロンに恋をした

閑話 チンピラのお誘い

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※ 『10 クラブで踊ったあとには金目鯛』より、少し前あたりのお話です。



 ◇ ◇ ◇ ◇



「へい、そこのニイチャン、いいケツしてんなぁ」


 ……今、なんつった?

 聞こえてきた音と、その出どころ。
 目の前には、ダイニングチェアに座って、両肘をテーブルにつき、組んだ手の上に顎をのせている君江。

 ああ、昨晩飲みすぎたかも。
 いや、『かも』じゃねぇ。確実に飲みすぎだった。
 まぁ、飲みすぎてねぇ日の方が、稀だってもんだけど。

 二日酔いで霞む目を、手の甲でこすり、それからこめかみを揉んだ。
 幻聴まで聞こえるなんざ、相当だ。
 昨日はだいぶ飲まされた。
 あのクソババア、どこから金作ってんだよ。

 頭の中で、キチガイに向かってツバを吐きかけていると、残った酒の倦怠感、鈍く嫌らしい痛みに、倦んで、重苦しい頭に、澄んだ声が降りてくる。


「ニイチャン、無視すんなや。なぁ、ちょっとこっち来いや。こっち来ていいことしよ、な?」


 マジか。

 再び目を戻してみれば、窓から差し込む光をテーブルがレフ板みてぇに反射して、君江が白く発光して見える。
 アイボリーのローゲージニットがまた、そこに柔らかな光源を加えている。

 ――あれ、コイツ、化粧してねぇな。

 ボンヤリと働かない頭を巡らせて、だけど、今日は互いに休みが被るから、水族館に行くんだって話をしていたはずだ。

 ニンマリと吊り上がった口角が怖い。
 黙ってりゃ、良家のお嬢さん然として、冷たく近寄りがたい印象の君江。
 細められた目が、捕らえた獲物は離さないと訴えている。
 完全に肉食獣のそれ。

 額をゴシゴシと擦って、息を吐き出す。
 ああ、頭がいてぇ。

 早朝にうるせぇとか。生活リズム狂うとか。酒くせぇ、タバコくせぇ、香水くせぇとか。飲みすぎだとか。
 なんも言わねぇけど、悪いとは思っていた。

 そらそうだろ。
 ホスト遊びなんざ、一度もしたことのねぇ女で。
 それどころか男と付き合ったこともねぇっていう。

 ホンモノのお嬢さん。
 それが俺みてぇなのに引っかかった。
 少しも悪いって思わねぇ方が、どうかしている。

 とはいえ。


「……なぁ、それ。怒ってんの? いや、怒っててもいいけどよ」


 すると君江は目を瞬いた。
 まるで全然、予期していなかった、というように。

 組んだ指に載せていた顎を引き、いつも通りすっと伸ばした背筋。それからゆっくりと組んだ手を前に倒す。
 その指先を目で追う。
 絡めた指と指に、力がこもったのがわかった。ほんの僅かに。


「怒ってないよ? どうして?」


 思わず舌打ちしたくなる。
 君江は、否定されることに敏感だ。


「いや、だってその口調。それ、おまえ、なんで?」


 ほとんど片言の日本語状態。
 だけど君江は、それで指先から力を抜いた。


「疲れてるんじゃないかなぁって思って。だから真似してみたの。あたしが疲れてるとき、いつも労ってくれるでしょ? だからそのお返しのつもりで」


 まさか。


「……俺の真似ってこと?」


 おそるおそる問いかけると、満面の笑みの君江。
 さて、その答えとは。


「うん!」


 ……ウソだろ。

 俺、そんなにガラ悪く思われてんの?
 どこのチンピラだよ。

 残った酒のダルさも相成って、その場に崩れ落ちそうになった。
 自分の口から漏れる息が生温く、ウンザリするほど酒くせぇ。

 見上げれば、君江が手招きしている。「こっちにおいで」と。

 できる限り、息を止めよう。

 そう思いながらも、疲労が身体から引き摺り出されていくのを、留められそうになかった。
 普段は気にもならねぇ、ほとんど存在を忘れているようなチェーン。それが首を一周するのが、今はとてつもなく鬱陶しい。



------



「……うん。おまえが喜んでくれてたのはわかった。それは嬉しい。けど、その口調、もうすんな。マジでやめてくれ」

「そう? あたしはあなたにそうやって誘われるの、すごく好きなのに」


 そうやってって。
 いや。俺、あそこまで、ひでぇの?
 完全に、下卑たエロジジィじゃねぇか。
 君江の中の俺って、どんなイメージなんだ?

 顎を天井に突き上げ、斜め上にある君江の顔に目をやると、君江はぐしゃぐしゃの髪を揺らしていた。
 少しだけ開けた窓。風でカーテンが揺れると、光の強弱が変わって、君江の髪が淡く霞み、輪郭がぼやけていく。
 目が合うと、君江が顔を寄せてきた。

 酒くせぇからって、口元に近づく唇を避けると、「何をいまさら。全身が獣くさいのに」と君江が眉を顰める。

 ――言ってくれるじゃねぇか。

 仕返しとばかりに、腹に力を入れて勢いよく体を起こし、君江の上にのしかかる。
 布団が跳ね上がって、温まった空気が逃げていった。シーツの上から滑り落ちていく陽光。
 君江の腕が、スルリと俺の首に巻きつけられる。
 シャンプーと髪の匂い。白い花と白い太陽。まどろみと日向を感じさせるもの。


「休みの日になーんにもしないで、ずっとベッドでゴロゴロ寝ていられるのって、すごく贅沢!」


 君江が誘ったのは、ひたすら眠ること。
 手を繋いで、肩を抱き、ついばむみてぇなキスを交わす。そういった、R指定の一切入らねぇ、睡眠そのもの。

 結局、水族館には行かず、ずっとベッドの中。
 君江を抱き枕にして、ひたすら眠っていた。
 時々目が覚めると、君江が気がついて、額や頬、鼻先にキスをしてくる。俺の髪を梳いて、嬉しそうに笑いながら。

 君江の細い指が、首や鎖骨、胸元、肩、腕を這う。
 期待に応えねぇと、なんて気負わせるやり方じゃなく。くすぐって、笑って、腕と脚を絡めて、巻きつけて、それで眠る。
 起きたらキスをする。

 君江の仕事が休みで、俺の仕事のある日。そういう、どこにも出掛けられない、制約のある毎日と、なんら変わらない昼。
 それにも関わらず、君江は笑う。

 誰かと生活を共にするというビジョン。その先が途切れることなく、今後も続いていくということ。
 微かに、何かが見えたような気がした。





(閑話 「チンピラのお誘い」 了)
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