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第一章 ダフネはアポロンに恋をした
19 アズ・タイム・ゴーズ・バイ
しおりを挟む「遅くなって悪かった」
男は帰ってきた。
二度目の手術を終えて、あとは経過観察でよいとアパートに戻り。叔父さんが気を遣ってくれて、退院後一週間の休みをもらい、のんびりと過ごし、さてそろそろ職場復帰か、という頃。
一番長い毛先が肩につくかつかないかのダークブロンドの髪は短く黒く。ミリタリーと西海岸のミックスファッションは量販店のリクルートスーツに。
シルバーアクセサリーはゼロ。
別人かという変貌を遂げ、生まれ持った美貌は相変わらず。だけど少し疲れた様子で男は現れた。「責任を取らせてくれ」なんて、これからのすべてを黒く塗りつぶす言葉をひっさげて。
「これまでなにしてたの?」
「就活してた。そんで決まって、これは書類提出しに挨拶行った帰り」
リクルートスーツの上着を脱いで、男はそれを雑に放った。
清潔なカッターシャツと、その下で呼吸に合わせてゆっくり挙上する胸。きっと暖かいのだろう。触れたくてたまらない。だけど右手はさまよって、そこで止まる。
左耳にその大きく温かな手がそっと添えられ、一度止まった涙がじわりと盛り上がって、視界が下の方から少しずつ揺らいでいく。
「それからハハオヤとも、話し合った」
「どんなふうに?」
「俺を息子として扱えって。あっさり頷いたよ。謝ってきたし。院長先生がそばにいたからな」
苦笑する男に今度こそ迷わず手が伸びた。黒く短くなった髪。その頭をなでる。
「……それで、いいの?」
それで気が済んだのだろうか。男のこれまでを、たったそれだけで清算できたのだろうか。
男はぱちぱちと目を瞬く。長いまつげがその都度、鳥が飛びたつときの翼のように上下する。
「ハハオヤがおまえを殴ったこと? それは許してねーよ?」
「違う。あれはあたしも悪かった。あたしが蘭さんを煽ったから」
「それはねぇからな」
急に剣呑な様子を見せる男。身じろぎすると背中をぽんぽんと軽く叩かれる。
「院長先生も、おまえの親父さんも言ってただろうけど、おまえが悪いことなんて一つもない」
「うん」
そうではないと、心のすみで言い訳をしたくなったけれど、それがただの自己満足にすぎず、いい子ちゃんぶって必死に認められよう褒められようとする、向いていないのに優等生の委員長に立候補していた小学生の頃みたいな態度だと気がついてやめる。その代わりに男の思いやりを素直に受け取る。
そうすればほら、男は目を細めてとろけるような微笑みをくれる。あたしも笑い返す。
「おまえに誤解されるのは嫌だ。だから聞いてほしい」
「うん。全部聞くよ」
背中に回されていた手が滑り落ち、手を握られる。ぎゅっと力をこめられて、あたしも握り返す。
「ハハオヤがおまえを殴ったことは、たぶん、一生許せねぇ。ハハオヤに対しても、俺自身にも」
「それは……」
「わるい、最後まで聞いて」
「うん」
全部聞く、と言ったそばから口を出したくなってしまった。
男の真剣な目に頷き返す。
「ハハオヤと親子でいることを選んだのは、ハハオヤに『母親でいてほしかった』からじゃない。ハハオヤが院長先生と復縁したから。院長先生はおまえにとって大事な家族だろ? だったら俺は院長先生の敵になったらダメだ。ハハオヤとの仲を修復することで、院長先生に、多少の恩が売れるし」
「恩?」
「そ。院長先生だって、さすがにおまえに申し訳ねーって思ってるだろ。可愛い姪っ子を殴った女だぜ。そんなキチガイとやり直すってんだ。良心があるヤツだったら、そりゃ痛むだろ」
「……そういうもの? そもそも叔父さんの恋路を邪魔したのは父なんだけど」
「親父さんとおまえは違う人間だろ。っていうか、俺からしてみれば、惚れた女をそんな簡単に逃がすなよって思うけどな」
確かにあたしのアポロンは、きっとどこまでも追いかけてきてくれる。ダフネがペネイオス川かラドン川か。そのどちらかに辿り着くまでもなく。
あたしは、そう信じてる。
ぎゅっと手を握ると、男は口を開いてすぐに閉じた。そして唸る。
「あー……。くそ……」
「なに? どうしたの?」
急に不機嫌そうになった男に戸惑う。男は眉間に皺を寄せて目をつむり、口をへの字にして、顔全体をぎゅっと中央に寄せる。そしてふと力を抜いて、ため息をついた。
「……まじめな話、終わってからな」
「……うん」
想像がついてしまった。思わず笑ってしまいそうになった。
「まあさ、だから話を戻すけど。院長先生も恋に浮かれたバカってことでさ。じゃなかったらあんなキチガイとやり直すか? しかももう相手はいい年したババアだぜ。昔は多少、綺麗だったのかもしんねーけど、中身だってあのババア、腐ってやがるし。裏とも繋がっちまってるみてーだし、社会的信用も失うかもしれねえのに、やり直すなんざ院長先生には不利益しかねーだろ。正直俺にはあのババアのどこがいいのか、さっぱりわかんねーよ」
わあ。すごい。
ここまであけすけに暴露されれば、あたしにはもう何も言うことはない。
「でもわかるとこもあるんだ」
「うん?」
「いい年した院長先生が恋に浮かれたバカみてぇなことする理由。たぶん、院長先生も俺も、おんなじタイプなんだ。惚れた女が一番になっちまうとこ」
おさまったと思った熱が、目頭にどんどん集まってきてしまう。ちゃんと男の顔を見て話を聞きたいのに、視界がぶれていく。
「常識とか理屈とか良心とかさ。そういうの。正しいかどうかじゃねーんだよ。正しくしちまうんだよ。相手の行動原理を聞いたら、そうだなって言い分まるごと受け入れちまう。そういうもんなんだろ」
「うん……うん……あたしも、そう。わかる。わかるよ」
鼻をかみたい。思いきり垂れてる。なのに男は手を放してくれない。
男はくしゃりと笑って、それから涙でぐちゃぐちゃの目を覗き込む。ニヤッと意地悪そうに笑う。
「まあ、だから嫁姑問題は安心しろよ? なにがあっても俺はおまえの味方すっから」
「嫁姑問題って」
「気が早い?」
「うん」
頷くと男は沈黙して、じっとあたしを見つめた。
涙と鼻水と。朝から飲んでいたお酒で浮腫んでいる顔。きっと息だって酒臭い。
急に恥ずかしくなってうつむくと、「顔をあげてくれ」と言われた。それでも顔をあげられないでいると、ようやく男は手を放した。だけどティッシュを取りに行こうと腰をあげたところで、手をつかまれてしまう。
「おまえはさっき、俺に『それでいいのか』って聞いただろ。なにを? 俺はなにを問題にすればよかった?」
「あなたのこと。あなたが蘭さんから受け取ってきた傷のこと」
男はびっくりしたように固まると、次の瞬間、思い切り噴き出した。それからこれ以上ないってくらいの笑顔で、あたしのいまだ涙のにじむ目尻にキスをする。
「そんなもん! そんなもん、もうどうでもいい。俺の人生はハハオヤのもんじゃない。俺のこれからは全部、おまえと過ごすって決めたんだ。おまえが嫌だって言うんじゃなきゃ……」
男は落ち着いた態度に戻り、じっとこちらの目を見つめた。お互いに深呼吸をして、これから始まることに備える。
冷静に、冷静に。
そう唱えるのに、自然と目頭が熱くなる。それは男も同じ。
「おまえが責任を取ってほしくないって、そう言ってたって聞いて」
頬を伝う涙は滝のようになって鼻水も垂れて、全然美しくない泣き顔が男のオリーブの瞳に映っているけれど、男もまた赤い鼻から鼻水は垂れているし、目の下の青黒いクマに涙がたまっているし、以前より少しこけた頬は少し肌荒れしている。
「もう受け入れてもらえねぇのかって。捨てられんのかって」
それ以上の声は震えて聞き取ることができなかった。
満身の力で男を抱きしめた。男もきつく抱きしめ返してくれた。
男の大きな肩に涙でべちょべちょの目を押しつけて、男はあたしの髪に顔をうずめて、二人でわんわんと声を上げて泣いた。
これまでの不安や恐怖や絶望や憎悪や、ときには相手の不幸すら願う、さもしい心のすべてを洗い流していく。
あたしはちゃんと知っていた。
「責任を取ってほしくない」なんて伝えれば、男がどんなに不安になるのかを。あたしが別れを望んでいるかもしれないと、そんなふうに受け取るだろうことをわかっていた。
叔父さんが呆れたように首を振ったけれど、こじれるかもしれないなんて、そんなことはちゃんとわかっていた。
でもあのままではダメだったのだ。
男の母親から殴られ、被害者となったあたしを加害者の息子である男が責任をとる。その図式がいけないだけじゃない。そうじゃなくて、男が本気で自分自身の問題を解決しなくては、あたしも男も互いの傷を舐め合うだけで、いずれ共倒れしてしまうことは目に見えていた。
逃げ道を用意してはいけなかった。なぜならあたしも男も、ずっと甘ったれで、ずっと逃げ道ばかり探して、つねにどこかに滑り込むような真似ばかりして、いつの間にか薄暗い、夜行性の獣と虫とゴロツキしかいないような空き地で、『ここにはなぜ緑の木も、赤いバラもないの?』と嘆いているだけだった。
あたしも男も、一人で向かい合わなくてはいけなかった。一人で向かい合ったという時間が必要だった。
その時間こそがあたし達を立ち上がらせ、互いの手を取って車に乗り込み、エンジンをかけるための燃料になるのだから。
ずぶずぶと二人で沼に沈んでいくなんてごめんだ。
あたしはずっと男といたい。その先は沼の底ではなく、虹のかかった青い空がいい。月明りの下で、ラブソングを歌いたい。
世界は美しい。
時が流れても大事なことは何も変わらない。
そうして男とあたしと、二人で笑っていたい。
ドーリー・ウィルソンの『アズ・タイム・ゴーズ・バイ』が、あたし達のこれまでの物語とこれからの物語の、共通するバックミュージックでテーマ曲。
これからも続いていく人生で、これからも流れていくラブソングを二人で歌い続ける。
「まぁ、ハハオヤのおかげで英語力はそこそこついたから。ガキ向けの英会話教室の教師することにしたわ」
「うへぇ。こどもみんな泣いちゃいそう…」
「ばっか。おまえ、俺の美貌にかかれば幼女もイチコロだからな」
「確かに」
「………否定しろよ。俺がロリコンのヤベーやつみてぇじゃねぇか」
「何言ってるの? 女はいくつだっていい男を狙ってるものなんだよ。女はハンターなのよ、坊や」
「へぇ。なんでそれでおまえはこの年まで、一人の男もいなかったんだ?」
「ぐ……っ。モテなかったの……っ!」
「違うだろ? おまえは俺を待ってたんだよ」
なんだそれ。なんだそのドヤ顔。なんだその手は。
ときめきが止まらないじゃないか。
するすると頬を滑っていく熱くてぶ厚い手が、首筋を撫でて、鎖骨をなぞって。不埒なところへ侵入しようとしている。
「はい。待ってました。まいぷりんす」
「あいかわらずクソみてぇな発音だな、お姫様」
「発音とか。『まい』と『ぷりんす』しかありませんが。英語できる風、ダサっ」
失笑。
鬼みたいにプライドの高い男にむかって、そう揶揄してやると、男は猛禽類みたいに目を剣呑に光らせて、不吉な感じに口の端を吊り上げた。
「英語できる風、じゃなくて、英語の教師だ。覚えとけ」
「こども向けのね?」
「ばっか。人間、一番学習能力が高いのが、いつだと思ってんだよ」
グシャグシャなまんまの布団の上にどさりと倒される。
「カタカナ英語がしみついちまった大人より、まっさらなとこに刻み込むことの重要性をわかってねぇな?」
男の大きくてぶ厚い手のひらが、下腹部にそっと落とされてた。
「まっさらなとこに、刻み込んでやっただろ?」
「セクハラ野郎め」
「好きなくせによ」
「その官能小説みたいな台詞、恥ずかしくないの」
「あ? もっとイヤらしいこと言えって? 好き者だな、おまえ」
「ふぁっきんあすほー」
「…………おまえのその、クソみてぇな発音も、俺がちゃんと教えて直してやるからな?」
ベッドの中でな。覚悟しろよ、君江。
そう言って充さんはいやらしく色っぽく笑った。
(第一章 「ダフネはアポロンに恋をした」 了)
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