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第一章 ダフネはアポロンに恋をした

11 しがないバンギャ卒、現在進行系ホス狂いでっす

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「こんちは。しがないバンギャ卒、現在進行系ホス狂いでっす。担当はタクミ。だからアンタとは被ってないよ!」

 歯医者勤務を終えて夜学に向かう途中。以前男が路上演奏をしていた駅前で声をかけられ、振り返る。
 ぴえん系。もしくは地雷系。そんな感じのメイクの、華奢で年齢不詳の女の子が立っていた。
 黒字にBALENCIAGAの白いロゴが正面に入った、だぼっとしたフーディー。ホットパンツはフーディーの裾に隠れてほとんど見えなくて、ほっそりとした足は黒の編み上げミドルブーツに包まれている。厚底のチャンキーヒール。
 ツヤのある長い黒髪が両サイドの耳の上で結ばれて、MCMのピンクのリュックをかすめて揺れている。

「こんにちは。ええと……」

 どちらさま? 担当? タクミって? 被りとは?
 自称バンギャ卒ホス狂いの女は、芸術的なネイルを施した人差し指で、ぷるぷるとした赤い唇に触れた。

「ねぇ。アンタ、ミツルと一緒に住んでるんだって?」

 ミツル? みつる? 叔父さんのこと?
 しかしそこで思い直す。ああ、男の源氏名か。
 目の前のホス狂いさんが歯医者に患者として来た記憶はない――メイクを変えたら別人になる可能性は否定できないけれど――し、叔父さんが個人的に親交を深めそうな年齢でもない。

 そこでようやく、『担当』と『タクミ』と『被り』の意味がわかった。『担当』はつまり推しているホストのことで、『被り』は推し被りということで、『タクミ』さんはきっと『ミツル』こと男と同僚のホスト。

「いえ。一緒には……」
「悪いこと言わないから、やめときなー。あいつ、アンタみたいなオジョウサマには手に負えないって。いやこれ、マジで。嫌味とかじゃなくて、親切心で言ってんのよ?」
「はあ」
「だってマジ、ヤバいよ? あいつの『エース』知ってる? あっ。ていうか『エース』がわかんないか」
「いえ。お金を一番落とす方、と聞きました」
「お、おう……。それは聞いたんだ……」

 それまで息をつく間もなくまくし立てられたマシンガントーク。ホス狂いさんがひるんだ隙に知っているぞ、と伝える。
 そうは言っても、あたしの知っていることなんて、ほとんどない。男があたしに何か隠し立てをしているというわけではないけれど、ホス狂いさんの方が、男のホストとしての顔をよく知っているに違いない。

「はい。そしてその『エース』がお母さまだとも」
「えっ? そこまで聞いたの? マジで?」
「はい」
「じゃーマジで、あいつがヤバイってわかるっしょ? だって母親よ? 母親があいつの『エース』よ? マザコンとかってレベルじゃなくね? くそキショイじゃん? 無理よりの無理じゃね?」
「子供の職場見学と応援を兼ねているのでは……」
「んなわけねー」

 ケッと吐き捨てるように、ホス狂いさんが愛らしい顔を歪ませる。言いながら自分でも苦しいなと思った。

「っていうか、そんじゃアンタが嬢で、キャバでアンタのパパを接待して飲むのかってハナシ。しかも色恋とか。やる? アンタ」
「…………それは、ないですね」

 それはとても、かなり、本当に。遠慮したい。勘弁してほしい。

「でしょ? キンシンソーカンじゃん?」
「肉体関係はないと聞いています」
「いやいや、そんなん信じられるわけなくね? だってさ、あたしあいつと寝たことあるよ? ヘルプでついた客と寝るとかありえなくね? 本指名チェンジNGの店だよ? まぁ、アタシもバレたらやべーけど。あいつ金出せば誰とでも枕するよ? ホストなんてそんなもんよ?」
「それはあなたがお綺麗な方だったからだと思います。気が向かなければ枕はしないと聞きました」
「えっ。まじで。そんなん言ってた?」
「はい」
「えー。まじでー。ちょっと嬉しいじゃん……って違うわ!」

 ぶかぶかのフーディーの袖から、キラキラとしたネイルの輝く指先を頬に添えて嬉しそうに体をくねらせていたホス狂いさんは、まるでコントのような変わり身で叫んだ。
 ふふっと思わず笑いがこぼれる。
 ホス狂いさんの細い指があたしの肩をつかんで揺さぶる。こってりと甘い、夜にふさわしいパフュームが香った。
 眉尻をさげ、ピンク色のアイカラーとマッチ棒が幾本ものりそうなしっかりとカールした睫毛で囲われた目。色素の薄いカラコンの入った瞳は、よく見ると不自然なのだけど、ホス狂いさんにはよく似合っていて素敵だと思った。

「そうじゃなくて! え? あんた、あいつが枕してるって聞いても、そんでも惚れてるわけ? あんたフッツーのっていうか、むしろチョーオジョウサマでしょ? なんかさ、シンソーのレイジョーとかってやつ」
「いえ。普通の歯科助手です。一般女性より年収が低く、また将来的にも年収アップのほとんど見込めない職業に就いています。具体的に言うと、年収は約300万円です」
「えっ……。そーなの?」
「はい。あ、でも夜学に通って歯科衛生士の資格を取りたいな、とは思っています」
「あっ……そーなん……。え? なんかちょっと聞いてたイメージとちゃうやん…」

 なぜか戸惑っている様子のホス狂いさん。どんなイメージを持たれていたのだろう。その前に、いったい誰から?

「……うーん。アンタ、フツーにいい子っぽいし。なんかアホらしくなってきたけど。ん-。でもやっぱさ、アンタ、マジでミツルはやめといた方がいいよ? たまの枕くらいなら『エース』、見逃してくれるけど。一緒に住んでるとか、マジやばいよ? アンタ殺されるよ?」
「いえ、一緒に住んではいないんですけど……」
「そんなん知らんわ。『エース』がアンタをターゲットにしたらやばいって話。アンタ、宿カノなんてやめときな? どうせあのミツルのことだし、飽きたらすぐ捨てられるよ? あいつマジ気まぐれだし。本カノ気取ってんのかもしれねーけど。たぶんっていうか、絶対違うから! いやマジで。悪いこと言わないからさぁ。今のうちに手ぇ切っときな? ホストなんかクソだかんな? マジでホストに夢見るとやべーよ? もうわかっててもさぁ、沼なの。アンタ、引き返せるうちにやめとけー。アタシみたいにホス狂いになって人生狂う前にさ」

 そしてホス狂いさんは「アタシ、これから出勤だからさ! じゃーね!」と嵐のように去っていった。ホス狂いさんの様子は、歯医者で男がナンパしてきたときのことを思い起こさせた。
 その日の夜学は遅刻した。


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