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第一章 ダフネはアポロンに恋をした
10 クラブで踊ったあとには金目鯛
しおりを挟む濃い酒精とたばこと香水と。あと疲労の滲む男の体臭。そうして抱かれる。翌朝はいつも寝不足。仕事がおろそかになってはと気合を入れる。その分、夜学では座学になるととたんに眠気が襲ってくる。
それがあたしの日常になった。たまの非日常に、男があたしをどこかへ連れていく。気に入るときもあるけど、たいていは馴染めない。
室内を靴で過ごす文化のホームパーティーに招かれたような。その上、たしかに招かれたはずなのに、招待状がない。正式な招待だったのか不安。ここにいるべきなのかわからない。ならば帰るべきなのか。親切な気遣いを台無しにしてしまうことになっても?
そんなそわそわとした気分になる。
居心地はどう? 楽しんでる?
はい、とても。
グラスを片手に、ひたすら愛想笑いを返す。微笑みは長続きしない。
「クラブ、好きなの?」
とてもうるさい。うるさいなんてものじゃない。男のシャツの裾をひっぱり、声をはりあげた。男はかがみこんで、あたしの耳もとに唇を寄せた。
「別に。好きなわけじゃねぇ」
「じゃあなんで」
「ここはさ。いてもいい気がすんだよ」
壁にもたれかかり、飲み終えたショットグラスを左手に持ち替えると、あたしの腰を抱き寄せた。あたしはまだ、ショットグラスの中のイエーガーマイスターを飲み干せないでいる。
あたしはいていいのかわからない気がするよ。
男の横顔を見上げて、やっぱり口にするのはやめた。
地下へと階段を下りていき、IDチェックに男は運転免許証。あたしはパスポート。セキュリティに提示すると重たい扉が開いて、エントランスで男が入場料金を支払い、ワンドリンク制だと教えられた。その先の扉が開くと音と光の洪水。
彫刻のような男の顔や体に、ネオンが様々な模様を浮かびあがっては消えていく。それから親しげに寄ってくる人たち。
「ひさしぶりじゃん。元気してた?」
「まあな」
「あれ? めずらしー。最初から女連れ?」
毛先にいくにしたがって赤くなる長い髪を靡かせて、首をかしげる色っぽくて綺麗な人。リップラインをはみ出ることなく丁寧に描かれたぽってりと煽情的な唇。いかにもな真っ赤ではなくて、ヌーディーなベージュ色で、すばらしく魅力的。
目が合うとにっこりと微笑まれ、「こんにちは」と挨拶された。「こんにちは」と返しながら『こんばんは』じゃないんだな、なんてどうでもいいことが頭によぎる。
「もしかして、店外デート?」
男の肩に手をのせ、上半身を乗り出した彼女が、口にした疑問。大音量のここでは、小声でこっそり、なんてことはほとんど叶わない。あたしには聞こえないように。きっとそんな気遣いがあったのだろうけれど、あいにく耳に入ってしまった。
「違う。客じゃなくて本カノ。本営でもねーから。コイツしかとなりに寄せねーって言っといて」
「まじで?」
誰に? 誰に知らせるの?
そう思ったけれど、目を丸くして心底驚いた、という様子の彼女が、あたしに目を向けたとたん、にかっと笑った。嬉しそうに気取ったところもなく。まっすぐな『嬉しい! おめでとう!』が向けられる。
だから、あたしは胸がぽかぽかと温かくなった。我ながら単純だ。
「そっかー。そんじゃ邪魔して悪かったね。オシアワセにー!」
たくさんのアクセサリーとタンクトップにホットパンツ。そのカーヴィーな後ろ姿は、とてもかっこよかった。
ぼんやりと彼女の消えたDJブースの方を眺めていると、男の視線を感じた。見上げると男はまた身を屈めてくる。
「出るか?」
「もういいの?」
入場して、まだ一時間と経っていない。
「さっきので俺の用は済んだ。おまえがまだここにいてぇってんなら別だけど」
「ううん。もう帰る」
「んじゃ、飯食いに行こ」
クラブを出てすぐのクロークからジャケットを取り出して、何を食べにいくか思案する。
むっとした熱気から開放されて夜風が頬や首すじを浚っていく。耳管から脳に響いていた音は、まだ頭の中を揺すぶるように残っている。歩を進める足元はぐらぐらとしていた。
「ねえ、やっぱりアパートに帰りたい。ごはん作るから」
「いいけど。今から飯作るって、おまえ大変じゃね? 弁当でも買って帰る?」
「ううん。自分で作ったものがいい。いや?」
「うんにゃ。俺はその方が嬉しい。ありがと」
こめかみにキスをくれる。照れたのか、はにかむ男の腰にぎゅっとつかまる。
クラブの熱気にはあてられたけど、外でイチャイチャするのに、気恥ずかしさが薄れていることは、クラブに出向いてよかったこと。きっと男もそうなんだろう。普段、外ではお互いにこんなことをしない。
興奮の熱気にさらされて、疲れていた。たくさんの油やスパイスに塗れた刺激的なものは食べたくなくて、かといってアットホームな定食屋や小料理屋に行くには、クラブ帰りの匂いが残り過ぎている。どうせお弁当を買うなら、自分で作ったものを食べたい。その方が好きなものを好きなだけ食べられる。
遅くまで営業しているスーパーで食材を買いに行く。
「クラブで用って、なんだったの?」
「ああ…」
男は気だるげに店内に視線を走らせた。それにならってあたしも見回してみる。
仕事帰りのサラリーマンやOLが見切り品割り引きシールの貼られたお惣菜を吟味している姿。
レトルトのポケモンカレー、ツナ缶、ミニトマトにサニーレタスをかごに入れては足早にレジへ向かう女性。きっと仕事帰りの誰かのお母さん。
ジャージに眼鏡のいかにも気の抜けた、部屋から抜け出してきたままであることを主張している人。在宅ワークかな。それとも今日はお休みだったのかな。
「あそこはさ。クソみてぇな俺が、ここにいても、許されるっつーかさ。昼間、誰もが真面目に働いてる中、オフィス街歩く場違い感とか。そーいうの。おまえにはわかんねぇか」
諦めたような小さなため息。むっとして言い返す。
「わかるよ。親族の誰もが医者なのに。あたしは大学進学すらしなかった。親族会合のいたたまれなさ。わかるよ」
「…………そっか。そーだったな」
男が大きく息を吐きだす。今度はさっきよりずっと大きなため息。
「最後に声かけてきた女いただろ。あいつ、幼馴染なんだ。ガキの頃から知ってる。あいつの母親も。あいつも俺の母親を知ってる」
男は歩き出した。カートを押してついていく。店内に流れるインストゥルメンタル。安っぽいフュージョン。
屋外の暗さと屋内の明るさ。その対比によって店のウィンドウがうつし出したのは、彫刻のような男の横顔と戸惑うあたしの正面顔。
「何が食べたい?」と聞いたら、煮魚と言われ、半額になっていた金目鯛を買った。1尾まるまるあって、半額だったけれど目は澄んでいる。鱗とはらわたが処理されていたから、排水溝のネットが鱗ですぐに詰まることもないし、可燃ごみの日まで生ゴミが悪臭を放つのを我慢しなくてもいい。
あたしは金目鯛の目が好きだ。つるんとした食感。
「まじで目なんか食うの?」
恐れおののく男の様子もまたおもしろくて。
「まじで食うよ」
「やめとけ。似合ってねーよ」
男の口ぶりを真似てみると、男はおもいきり眉間にシワを寄せた。露骨に嫌そうな顔。それがおもしろくて、もう一度口にしてみる。
「まじで?」
男は無言で残りのごはんを平らげた。
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