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◆ 第1章

13. これは家政婦契約ですか? 後

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 どこかで聞いたような気がする、と思っていると、男性が手にしていたケースから名刺を抜き取って美果に差し出してきた。そこに記された名前を見て合点がいく。

 翔の秘書である男性、森屋誠人。

 そうだ。以前翔が電話で話しているのを聞いてしまったとき、翔は『誠人にも言うな』と言っていたのだ。

「あの、ごめんなさい。私、名刺をもってなくて」
「構いませんよ。それよりこちらを」

 二人は上司と秘書だったのか、と納得しながら謝罪をすると、誠人が美果の目の前に名刺とは別の用紙を差し出してきた。

 条件反射で文字がびっしりと書かれたその紙を受け取る。しかし急に謎の紙を渡されても、やっぱり意味がわからない。

「これは……?」
「雇用契約書です」

 意図を把握できずに首を傾げると、にこっと人のよさそうな笑みを浮かべた誠人が端的にそう説明してくれた。

「雇用契約……?」
「そうです。秋月美果さん、我々はあなたをヘッドハンティングしに来たんですよ」
「……え? へっど……?」
「天ケ瀬翔の自宅で炊事、洗濯、掃除、買い物、その他諸々の家事全般。交通費と早朝に出勤してもらう時間外手当が込みで、給与は月に五十万」
「ご、ごじゅ……? 五十万円……!?」

 衝撃的な金額を告げられ、思わず声がひっくり返る。

 五十万円……ごじゅうまんえん……
 美果の月収を大幅に上回る金額だ。

 笑みを浮かべて成り行きを見守っている翔と、にこにこと笑顔のままの誠人と、誠人が差し出してきた紙切れを見比べる。それを何度か繰り返しているうちに、二人が美果の前に突然現れた理由を少しずつ理解してきた。

 翔と誠人は、月五十万円の報酬を支払う代わりに翔の家で美果に家政婦業をしてほしい、というのだ。

「って、いやいやいや! 何考えてるんですか!?」

 美果を家政婦として雇うという突然の提案。驚くほどの高額な給与の提示。しかもただの思いつきではなく、用意周到に契約書まで作成してきている。

「天ケ瀬百貨店って、そんなに儲かってるんですか?」
「まぁ、それなりに」
「ですよね! 知ってましたけど!」

 その状況に大混乱したせいで、かなり失礼なツッコミを入れてしまう。

 しかし美果の困惑は予想していたのか、それとも困る様子を面白がっているのか、翔はあっさりと美果の問いかけを肯定してしまう。もちろん天ケ瀬百貨店の経営が順調であることは、美果も知っていたけれど。

「基本的には週休二日。日曜と、もう一日好きな曜日に休んでいい」
「その代わり副業は一切禁止します。つまり、今の仕事を全て辞めて頂くことが条件です」

 え、あ、う、とか細い鳴き声を上げているうちに翔と誠人が次々と畳みかけてくる。だが美果はとても理解が追いつかない。

 一旦、状況を整理する。

 その場から一歩後退してゆっくりと深呼吸をする。それからちらりと視線を上げ、美果の反応を待つ気があるらしい二人に、今いちばん疑問に思っていることをぶつけてみる。

「あの、これって本当に家政婦契約ですか?」
「ん?」
「愛人契約とかじゃないですよね?」
「……ブフッ」

 つい真顔で聞いてしまう。それを聞いた誠人が翔の隣で盛大に吹き出す。

 自分のような平凡どころか貧乏女子を愛人にしたいと思うだなんて、あまりに自意識過剰かもしれない。だがきらきら御曹司である翔が月に五十万円も自分に支払う理由なんて、美果にはそれしか考えられないのだ。

「お前な……」
「日頃の行いが悪いんじゃないか、翔?」
「うるさいぞ」

 翔の呆れた顔を横目に誠人がくつくつと笑う。二人はお互いに気心が知れているようで、翔も自然体で接しているようだが、今の美果には目の前の二人の関係など後回しだ。

 改めて『雇用契約書』と書かれた紙を握りしめ、そこに書かれている文字を慎重かつ迅速に目で追っていく。

 内容は翔の生活環境を保つことを主体としており、彼の夜の相手をしなければならない、とはどこにも書かれていない。つまり本当に家政婦としての雇用契約であって、愛人契約ではないらしい。

「私が、天ケ瀬本部長のおうちの家政婦……?」
「そうだ」

 ぽつりと呟くと、翔が短く頷いた。

 きっかけは間違いなく、先日翔の部屋を掃除したことにあるだろう。それに気付いた美果は知らず知らずのうちに転職の試験を受けさせられている気分になったが、かといって不快な感情は起こらなかった。

 いや、それどころか努力が認められた気がして嬉しいと思ってしまったのが、美果の素直な心だ。

「天ケ瀬百貨店本社、総務部秘書課、特別秘書……?」
「ええ、そうです。私一人では翔の子守りをするのはめんど……少々大変なので、私の補佐をしてもらう形ですね」
「お前、そーゆーとこだぞ」

 どうやら翔との雇用契約を結ぶと、天ケ瀬百貨店本社の秘書のひとり、という扱いになるらしい。誠人の説明によると、翔の秘書である彼の補佐役という位置づけになるそうだ。

(これなら誰に聞かれても、ちゃんと所属を名乗れる)

 翔が言う『しっかりした所属と給料を保証する』という意味を理解する。確かにこれなら、清掃会社での仕事を続ける『確かな身分を名乗るため』という理由も、キャバクラでの仕事を続ける『高い収入を得るため』という理由も内包している。

 もちろんキャバクラに勤める売れっ子のキャバ嬢ならば、月に五十万どころか百万ぐらい稼げる人もいるだろう。

 しかし清掃会社での仕事がある美果には同伴出勤が出来ないし、翌早朝の新聞配達のアルバイトに備えて少しでも睡眠時間も確保するべく、アフターもすべて断っている。つまりキャバ嬢として売り上げに繋げる営業がほとんどできていないのが現状だ。

 それに年齢も二十五歳となり、次々と入って来る若い子に台頭されつつある。いや、そもそも美果は人の顔と名前を覚えるのがあまり得意ではない。時間と給料の都合と店長の厚意でどうにか継続してきているが、美果は本来、この職業は向いていないのだ。

 そして何より、今の生活は圧倒的に自分のための時間が少ない。

 大好きな祖母・静枝に会いに行く時間が作れない。体力を回復するための睡眠時間も足りない。こんな生活を続けていては、いつか身体を壊してしまうだろう。それでは静枝に心配をかけたくなくて無理をしている意味がなくなる。

(この雇用契約を受け入れたら、お世話になった人たちを裏切ることになってしまうかもしれない……)

 美果を十年以上雇ってくれている、新聞屋の心優しい夫婦。美果の苦労を知っていて時間や福利厚生の調整をしてくれる、清掃会社の親切な上司。そしてキャバ嬢として圧倒的に不利な美果を使い続けてくれる、気さくで明るい店長。

 彼らの手を自ら離すことは、これまでの親切を裏切るという不義理になってしまうかもしれない。それに天ケ瀬グループの御曹司である翔の元で働くことに、不安がないわけでもない。

 それでも――

「本当に、いいんですか?」
「当たり前だろ。そのために作った契約書だ」

 顔を上げて目が合うと、翔がそっと笑みを深める。その笑顔に導かれるように、差し出された手に指先を伸ばす。

(それでも、私は……)

 翔の手を取ると決める。
 未来を少しだけ変える選択をする。

 驚きと緊張からまだ少しだけ指先が震えている。そんな美果の手に触れると強い力で握り返してくる翔の手は、思ったよりも温かい。

 優しい温度が美果の不安をそっと解きほぐしていく。

「ふつつかものですが、よろしくお願いいたします」
「ああ」

 こうして翔の手を取った美果の苦しくて冷たい人生は、これまでとは違った彩りの日常へと動き始めた。

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