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◆ 第1章

【番外編】 天ケ瀬御曹司の決心

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【翔(ヒーロー)視点】 ※読まなくてもお話は繋がりますので、ヒーロー視点が苦手な方は読み飛ばしてくださいませ。



 後日改めて内容を確認した上で正式に雇用契約を締結すると約束し、このあと別のフロアの掃除をするという美果の背中を見送る。

 これで美果の過酷な労働環境は改善し、睡眠時間も確保できるようになるだろう。そうすれば彼女は少しずつ健康的な生活を営めるようになる、はずだ。

「なるほどね~」

 美果の後ろ姿を見つめていると誠人が納得したように頷くので、ちらりと隣に視線を向ける。すると案の定、誠人がにやにやと笑みを浮かべていた。

「翔が家に女を入れたっていうから天変地異でも起きたのかと思ったけど、やっぱそーゆーこと」
「……なにが」

 森屋誠人は小学生時代からの幼なじみで、翔の素や本音を把握している数少ない人間だ。その誠人に『秋月美果を他社から引き抜くために秘書課に枠を設けて、雇用契約書も作ってほしい』と命じた時点で、おおよその検討はついていたのだろう。

 しかし実際の状況を自分の目で確認した誠人は、ささやかな予想が当たっていたことを確信したようだ。

「いや、あの格好だとパッと見は地味だけど、よく見るとすごい美人だったから」
「よく見なくていい」
「え、なにそれ嫉妬? こわ」
「誠人、お前砂に埋めるぞ」

 誠人の軽口には苛立ちを隠さない。能天気でお調子者の彼には、このぐらいはっきり釘を刺さないと翔の意図が伝わらないのだ。

 だが嫉妬……と言われればそうなのかもしれない。

 これまでの恋愛において『嫉妬の感情』を抱いた経験がほとんどないので、絶対にそうだと言える自信はない。だが今、美果と親しげに話す男性が目の前に現れたら、面白くないと思う気がしている。そんな想像をしてモヤモヤするぐらいには彼女のことが気になっている。

 秋月美果という人物は、これまで接してきたどの女性たちとも質が違っていた。翔に一切の色目を使わず、わざとに壁に追い詰めて耳元で低く囁いても一切動じない。逆に翔の本音を知っても同情することはなく、翔の覚悟を知っても応援することさえない。

 翔がけしかけた罠をすべてかわし、さらけ出した本音をさらりとあしらう。引いた線を絶対に割らせないし、自身も割ってこない。ただ淡々と『あなたの邪魔はしないから、わたしの邪魔もしないで』という態度を貫く。

 そうかと思えば翔の食生活を心配するような素振りを見せるし、手料理も振る舞ってくれる。

 最初のうちは『これまで築いてきた自分のイメージが崩されるのではないか』という点ばかり気にしていた。――はずなのに、いつの間にか美果のことばかり考えるようになっている。

 ちゃんと寝ているのだろうかと気になる父親のように。変な男が寄りついているのではないかと心配する恋人のように。少しでも幸福な人生を歩めるようにと願う熟年夫婦の夫のように。

 そう、気がつけば天ケ瀬百貨店東京を訪れるたびに美果の姿ばかり探している。こんな風に翔の『心』だけをかき乱す女性は、秋月美果という存在がはじめてだ。

「素の翔を見られたのって、栄生商事との接待だっけ? いやー、俺も行きたかったな~」
「絶対思ってねーだろ」

 あの日は別の業務についてもらっていたので、誠人は接待の席に同席していなかった。もし誠人があの場にいたら、店外で美果と遭遇するというハプニングは起こらなかったはずだし、仮に起きたとしても、もっと上手に誤魔化すことも、もっと丁寧に切り抜けることも出来たはずだ。

 だから失敗といえば失敗。だがあの接待の夜があったからこそ、こうして美果を手元に置くという状況に繋がったのだ。

 結果としてどちらが正解だったのか――今はまだ、翔にもわからない。

「でも愛人契約って……吹き出しそうになったよ、俺」
「そうになった、じゃなくて、しっかり吹き出してただろうが。本気で蹴りいれてやろーかと思ったぞ」
「やめて、俺は翔と違って超か弱い」

 小学校に入る前から空手を習っていた翔は、誰かと喧嘩をしても負けたことがない。といっても、天ケ瀬百貨店グループの御曹司に面と向かってかかってくる相手はほとんどおらず、両親もどちらかというと護身用として翔に武術を習わせたようだ。

 唯一、翔の技にかかったことがあるのが誠人だ。何かにつけて翔をからかってくるので黙らせようと腕を伸ばしたら、偶然拳が当たったために鼻血を吹き出して倒れること過去数十回。自分でも認識しているように、誠人はかなりの軟弱である。

 ただその弱さの代わりに頭は相当切れるので、相棒としてはこれ以上ないほど頼りにしてはいる。

 ……いや。
 今は誠人のことではなく、美果の話だ。

 とりあえず美果を手元に置くための段取りを組み、夜の職業を辞めてもらうことまでは成功したが、どうやら彼女は翔とは深く関わりたくないらしい。

 強い眼差しと確固たる意志を持って己の生き方を貫く彼女が――秋月美果が、自分に振り向いてくれるかどうかはまったく別の話だ。

「愛人……か。そうなったら、俺は査定される側だな」
「ん?」
「いや、これまで付き合ってきた男たちと比べられるのかと思ったら、あんまり無様なことも出来ないな……と思って」

 キャバレークラブ〝Lilin〟での様子を窺うに、『さやか』は店のキャバ嬢の中でずば抜けて人気があるわけではなさそうだった。

 もちろん接待の日に会っただけなので正確な情報ではないが、常連客に煙草を頼まれて接客中におつかいで外出するなんて、売れっ子のキャバ嬢がするはずがない。店の者が、そんな真似など絶対にさせないだろう。

 ということは、『さやか』はそれほど人気者だったわけではない、と思われる。

 とはいえ多少なりとも夜の世界で生きてきた女性なのだから、それなりの経験を積んでいるはずだ。ならば天ケ瀬百貨店本社の営業本部長という肩書を持とうと、有名企業の御曹司として生まれようと、これまでそれなりの恋愛経験を積んでいようと、きっとまったく関係ない。

 いざなったとき、異性としての魅力をジャッジされるのは間違いなく翔の方だ。

「おま……まじでマジなんか……」
「何が?」

 真面目に考え込んでいると、誠人が奇妙なものを見るような視線を送ってきた。その表情を不思議に思って首を傾げると、顎の下に両手で握りこぶしを作った誠人が気持ちの悪い裏声を出した。

「きゃっ♡ 恋ってしゅごい♡」
「うるせぇ」

 何が「きゃっ」だ。可愛くないぞ。

 誠人はいつもこうだ。本気で悩んだり、真剣に考え事をしようとしても、すぐに翔を茶化して揶揄ってくる。あれこれと考えすぎてしまう翔の右腕としてはバランスが取れて丁度いいのかもしれないが、折角色々考えていても誠人のせいでつい力が抜けてしまうのだ。

(まぁ、やるしかないんだけどな)

 抜けた力を取り戻すべく、己を鼓舞して次の会議の場所へと向かう。

 美果とは今はまだ雇用契約をしたにすぎない。だが出来れば早いうちに、自分のことだけを見てほしいと思っている。珍しく自分から『もっと近付きたい』と思うようになった相手なのだ。

 そのために翔がしなくてはならないことはいくつかあるが、まずは目の前の仕事をいつも通りに終わらせることが先決だ。

 これまでの言動から推察するに、美果は男としての魅力さえあれば落ちるほど簡単な女性ではない。つまりあまり好かれていないらしいマイナススタートの翔は、人として気に入ってもらうところから始めなければ、美果を本当の意味で手に入れることなど出来はしないのだ。

「まあ、心配しなくてもすぐ幻滅されるって。なんせ翔、朝は毎日だからな」
「……」

 ……出鼻を挫くような誠人の言葉には、せっかく意気込んだ翔も黙るしかない。

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