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二章 目指せ声優! 鈴華愛紗

目指せ声優! 鈴華愛紗 9

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「ごめん、やっぱり無理だ」
 弾けると思ったのに。
 弾きたいと思いながらも、ずっと逃げてきた。
 がむしゃらにピアノに戻ろうと努力しなかった。
 いざとなれば弾けるようになると、どこかに甘えがあったからだ。
 しかし、こんなに身体がピアノを拒絶している。いや、ピアノが拓斗を拒絶している。
 これが一度でもピアノから逃げた末路だというのか。一度違えた道は元には戻らないのか。
「これは、相当ハードなスランプですね」
 拓斗の尋常ではない反応を見て、愛紗は指先でとがった顎をなでた。
「拓斗さん、ピアノと向き合っているからダメなんじゃないですか? 背を向けてみたらいいかもしれません」
「……どういうこと?」
 拓斗は顔だけ上げて愛紗に視線を向ける。
「ピアノを見ないんです」
「目を閉じるってことかな」
「いえ、見ていてください。わたし、実はすごいんですよ」
 愛紗は、更に椅子ごと離れるようにと拓斗にジェスチャーする。そして拓斗を見たままピアノの前に立ち、両手を背中に回した。
「えっと、この辺かな。久しぶりだから、うまくできるかな」
 鍵盤の位置を確かめるように愛紗は音を鳴らした。
「よし、じゃあいきますよ」
「いくって、ピアノに背を向けたままだけど」
「そうです」
 愛紗はピアノを弾きだした。
 音の強さもテンポもめちゃめちゃだが、『ねこふんじゃった』だとわかる。
 その曲を聞いていると、踏まれた猫が大暴れして、踏んだ人間が逃げ回っているようにも聞こえてくる。
 それにしても、こんな弾き方をしている人を初めて見た。
 拓斗が呆気にとられているうちに、一曲が終わった。
「上手いものでしょ?」
「……パワフルだった」
「拓斗さんにもできる?」
「後ろ向きの『ねこふんじゃった』?」
「そうです。バカにできないんですよ。中学の音楽の先生もできなかったんだから。あの先生、有名な音大出身だって言ってましたよ」
「へえ、そうなんだ」
 拓斗の胸がチリッと燃えた。普段はのんびりとしているが、ことピアノに関しては負けず嫌いだ。
「これはゲームです。後ろ向きで弾くとなったら、上手に弾くとか、いかに表現するかとかじゃなくなりますよね。空間認知能力というか、思った場所に思ったタイミングで指を置けるかどうかが勝負、みたいな」
 指を適切な場所に置けるかどうかのゲーム。ただ、そのツールがピアノであるというだけ。
「さあさ、ゲームしましょ」
 拓斗は腕をとられて引っ張り上げられ、ピアノの前に後ろ向きで立たされた。
 頭の中では詭弁だとわかっている。ゲームといっても、ピアノはピアノなのだと。
 しかし、わかりやすく煽ったり趣向を変えたりして拓斗にピアノを弾かせようとする、愛紗の気持ちに応えたかった。
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