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一章 漫画家志望の猫山先輩
漫画家志望の猫山先輩 19
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それから猫山は、定位置のようになっていたリビングのソファーに現れなくなった。
ダイニングで居合わせた時に話を聞くと、「恥を忍んで、大学時代の友人知人に仕事がないかって連絡しまくってたんだ」と言う。
「オレって優秀だから、クラスのやつに結構レクチャーしてやってたんだよ。その恩も忘れて、だんだん離れていくからさ、ちぇって思いながら卒業したんだ。だからちょっと連絡を取りづらかったんだけど」
拓斗には、猫山が「こんなこともできねえのかよ」「アチャー、これだから凡人は」などと言いながら絵を教えている姿が目に浮かんだ。猫山にとっては親切のつもりで、まったく悪びれはないのだろう。
「みんなデザイン関連の仕事だったり、雑誌の編集の仕事に就いていてさ。事情を説明して、二か月パソコンで描き溜めたサンプルイラストを送ったんだよ。その中には、拓斗に言われてから練習したカラーイラストも入れた。そうしたら何人か、イラストの発注をしてくれるってヤツがいてさ。今、その仕事で忙しいんだ。……カラーの依頼もある」
猫山は噛みしめるように話した。
「それは、おめでとうございます」
「ありがと」
猫山は照れくさそうに、ニカッと笑った。
「ちゃんと絵で食えるようになったら、ここを出ていかないとな」
「えっ、出ていくんですか?」
「当たり前だろ。ここに住む条件は、夢を追っていること、だからな。居心地がいいから残念だけど、でも、ここを出るってめでたいことだから」
「そうですよね」
猫山は大きな水筒に紅茶をたっぷり入れ終わり、「じゃあな」と手を振って部屋に戻っていった。
「猫山先輩、出ていっちゃうのか」
それは、そう遠い日ではないだろう。まだ会って間もないというのに、とても淋しい気がした。
しかし本人が言っていたように、それは喜ばしいことなのだ。
猫山の告白を聞いている拓斗は、行くべき方向を定めて歩き出した猫山を心から祝福した。
あの告白は衝撃だった。
――俺は画家なんだぞ! 色彩なくしてどう生きていけばいいんだよ!
医師に噛みつき、縋ったという猫山。
しかし拓斗はどうだろう。
ピアノを弾こうとすると指が震えることに気づいた時、絶望した。
世界が終わったような気さえした。
しかし、もう一度病院に行こうという母の提案には従わなかった。あらゆる可能性を試して治療しようとはしなかった。
猫山とは違い、拓斗の手は動く機能を失っていないはずなのに。
拓斗はリビングにあるアップライトピアノに近づいた。セパレートの白いカバーを左右に分けて、そっと鍵盤蓋を持ち上げる。ウール地の白いキーカバーを外した。黒鍵と白鍵が並んでいる。
拓斗はゆっくりと鍵に指先を近づけていった。
指先が震え、さらに近づけると手まで大きく震えだす。
息を止め、無理に鍵に触ろうとするが、もう少しというところで身体が動かなくなった。
拓斗は諦めて息を吐きだした。荒い息を繰り返しながら、伸ばしていた右手を胸に引き寄せて左手で包むと、次第に震えはおさまった。額に汗が浮いていた。
ピアノを弾きたい。
しかし、触るのが怖い。
その迷いが手の震えに表れるのだろうか。
「一体どうしたいんだ、ぼくは」
拓斗はきつく目を閉じて天井を仰いだ。
ダイニングで居合わせた時に話を聞くと、「恥を忍んで、大学時代の友人知人に仕事がないかって連絡しまくってたんだ」と言う。
「オレって優秀だから、クラスのやつに結構レクチャーしてやってたんだよ。その恩も忘れて、だんだん離れていくからさ、ちぇって思いながら卒業したんだ。だからちょっと連絡を取りづらかったんだけど」
拓斗には、猫山が「こんなこともできねえのかよ」「アチャー、これだから凡人は」などと言いながら絵を教えている姿が目に浮かんだ。猫山にとっては親切のつもりで、まったく悪びれはないのだろう。
「みんなデザイン関連の仕事だったり、雑誌の編集の仕事に就いていてさ。事情を説明して、二か月パソコンで描き溜めたサンプルイラストを送ったんだよ。その中には、拓斗に言われてから練習したカラーイラストも入れた。そうしたら何人か、イラストの発注をしてくれるってヤツがいてさ。今、その仕事で忙しいんだ。……カラーの依頼もある」
猫山は噛みしめるように話した。
「それは、おめでとうございます」
「ありがと」
猫山は照れくさそうに、ニカッと笑った。
「ちゃんと絵で食えるようになったら、ここを出ていかないとな」
「えっ、出ていくんですか?」
「当たり前だろ。ここに住む条件は、夢を追っていること、だからな。居心地がいいから残念だけど、でも、ここを出るってめでたいことだから」
「そうですよね」
猫山は大きな水筒に紅茶をたっぷり入れ終わり、「じゃあな」と手を振って部屋に戻っていった。
「猫山先輩、出ていっちゃうのか」
それは、そう遠い日ではないだろう。まだ会って間もないというのに、とても淋しい気がした。
しかし本人が言っていたように、それは喜ばしいことなのだ。
猫山の告白を聞いている拓斗は、行くべき方向を定めて歩き出した猫山を心から祝福した。
あの告白は衝撃だった。
――俺は画家なんだぞ! 色彩なくしてどう生きていけばいいんだよ!
医師に噛みつき、縋ったという猫山。
しかし拓斗はどうだろう。
ピアノを弾こうとすると指が震えることに気づいた時、絶望した。
世界が終わったような気さえした。
しかし、もう一度病院に行こうという母の提案には従わなかった。あらゆる可能性を試して治療しようとはしなかった。
猫山とは違い、拓斗の手は動く機能を失っていないはずなのに。
拓斗はリビングにあるアップライトピアノに近づいた。セパレートの白いカバーを左右に分けて、そっと鍵盤蓋を持ち上げる。ウール地の白いキーカバーを外した。黒鍵と白鍵が並んでいる。
拓斗はゆっくりと鍵に指先を近づけていった。
指先が震え、さらに近づけると手まで大きく震えだす。
息を止め、無理に鍵に触ろうとするが、もう少しというところで身体が動かなくなった。
拓斗は諦めて息を吐きだした。荒い息を繰り返しながら、伸ばしていた右手を胸に引き寄せて左手で包むと、次第に震えはおさまった。額に汗が浮いていた。
ピアノを弾きたい。
しかし、触るのが怖い。
その迷いが手の震えに表れるのだろうか。
「一体どうしたいんだ、ぼくは」
拓斗はきつく目を閉じて天井を仰いだ。
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