上 下
22 / 62
一章 漫画家志望の猫山先輩

漫画家志望の猫山先輩 19

しおりを挟む
 それから猫山は、定位置のようになっていたリビングのソファーに現れなくなった。
 ダイニングで居合わせた時に話を聞くと、「恥を忍んで、大学時代の友人知人に仕事がないかって連絡しまくってたんだ」と言う。
「オレって優秀だから、クラスのやつに結構レクチャーしてやってたんだよ。その恩も忘れて、だんだん離れていくからさ、ちぇって思いながら卒業したんだ。だからちょっと連絡を取りづらかったんだけど」
 拓斗には、猫山が「こんなこともできねえのかよ」「アチャー、これだから凡人は」などと言いながら絵を教えている姿が目に浮かんだ。猫山にとっては親切のつもりで、まったく悪びれはないのだろう。
「みんなデザイン関連の仕事だったり、雑誌の編集の仕事に就いていてさ。事情を説明して、二か月パソコンで描き溜めたサンプルイラストを送ったんだよ。その中には、拓斗に言われてから練習したカラーイラストも入れた。そうしたら何人か、イラストの発注をしてくれるってヤツがいてさ。今、その仕事で忙しいんだ。……カラーの依頼もある」
 猫山は噛みしめるように話した。
「それは、おめでとうございます」
「ありがと」
 猫山は照れくさそうに、ニカッと笑った。
「ちゃんと絵で食えるようになったら、ここを出ていかないとな」
「えっ、出ていくんですか?」
「当たり前だろ。ここに住む条件は、夢を追っていること、だからな。居心地がいいから残念だけど、でも、ここを出るってめでたいことだから」
「そうですよね」
 猫山は大きな水筒に紅茶をたっぷり入れ終わり、「じゃあな」と手を振って部屋に戻っていった。
「猫山先輩、出ていっちゃうのか」
 それは、そう遠い日ではないだろう。まだ会って間もないというのに、とても淋しい気がした。
 しかし本人が言っていたように、それは喜ばしいことなのだ。
 猫山の告白を聞いている拓斗は、行くべき方向を定めて歩き出した猫山を心から祝福した。
 あの告白は衝撃だった。

 ――俺は画家なんだぞ! 色彩なくしてどう生きていけばいいんだよ!

 医師に噛みつき、縋ったという猫山。
 しかし拓斗はどうだろう。
 ピアノを弾こうとすると指が震えることに気づいた時、絶望した。
 世界が終わったような気さえした。
 しかし、もう一度病院に行こうという母の提案には従わなかった。あらゆる可能性を試して治療しようとはしなかった。
 猫山とは違い、拓斗の手は動く機能を失っていないはずなのに。
 拓斗はリビングにあるアップライトピアノに近づいた。セパレートの白いカバーを左右に分けて、そっと鍵盤蓋を持ち上げる。ウール地の白いキーカバーを外した。黒鍵と白鍵が並んでいる。
 拓斗はゆっくりと鍵に指先を近づけていった。
 指先が震え、さらに近づけると手まで大きく震えだす。
 息を止め、無理に鍵に触ろうとするが、もう少しというところで身体が動かなくなった。
 拓斗は諦めて息を吐きだした。荒い息を繰り返しながら、伸ばしていた右手を胸に引き寄せて左手で包むと、次第に震えはおさまった。額に汗が浮いていた。
 ピアノを弾きたい。
 しかし、触るのが怖い。
 その迷いが手の震えに表れるのだろうか。
「一体どうしたいんだ、ぼくは」
 拓斗はきつく目を閉じて天井を仰いだ。
しおりを挟む
1 / 3

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

異世界転生補佐官になったけど担当女神が幼すぎる

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:0pt お気に入り:5

地球一家がおじゃまします

児童書・童話 / 連載中 24h.ポイント:21pt お気に入り:3

白斑の花

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:0pt お気に入り:2

眠れぬ夜にはオモイデを

ライト文芸 / 連載中 24h.ポイント:0pt お気に入り:0

とりあえず、文字数を天元突破したい、あなたへ

エッセイ・ノンフィクション / 完結 24h.ポイント:0pt お気に入り:3

処理中です...