ゼロ距離スイング

でみず

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 翌日から、二人の息はさらに合うようになった。ダブルス練習で烈音はほとんど無言だが、視線で隼人に合図を送り、隼人もそれに応える。ネットを挟んでポーチに入るタイミング、ロブを仕掛ける瞬間の呼吸、相手が角度をつけてくるコースをいち早く察知する直感。
 そういった全てが、はじめて噛み合い出しているように感じられた。コーチたちはしきりに感心したように頷き、

「これなら期待できるぞ。いやぁ、楽しみだなあ」
「正直ここまで息が合うとは思いもしなかった。びっくりだよ、ほんと」
「隼人もなかなかだ。あの烈音についていけるんだから」

 と口々に言う。隼人の胸には充実感が満ちていくと同時に、ある種の怖さも芽生えていた。これほどまでの期待を寄せられて、自分はいつかそれに飲み込まれてしまうのではないか。
 烈音はコート上で圧倒的な存在感を放ち続ける。打球のたびに浮き上がる腕の筋肉、瞬発力を増すために強靭に鍛えられた太腿、長い脚を俊敏に動かすフットワーク。それら全てが激しいエネルギーを発し、隼人の身体と心を揺さぶる。
 練習後、息を切らしながら二人でコートのベンチに腰掛けているときにふと視線が合うと、烈音はわずかに口角を上げる。そんな些細な仕草にさえ、隼人は胸を締めつけられる思いだった。

(そうだ。絶対に足を引っ張っちゃいけない)

 実力派天才と新人選手のダブルスチームは、合宿の最終日前には周囲からも注目を浴びるようになる。他のダブルスペアと練習試合をこなしても、そのコンビネーションは段違いだった。寮に戻ってからの分析も、次第に言葉より雰囲気で通じるようになってきた。少なくともテニスの面において、隼人は確実に烈音との距離を縮めつつあった。
 けれども、その距離の縮まり方は、テニスの技術や連携だけでなく、二人の関係性にも及んでいる。烈音の態度は依然として素っ気ないのだが、ときおり見せる小さな言動に、隼人の心は激しく揺れるようになっていた。
 合宿も折り返しを過ぎ、大会本番が近づいてきた。いよいよ明日は本試合という前日、隼人の緊張はピークに達していた。
 これまでの練習で培った連携を試合の舞台でどこまで活かせるだろうか。
 国内の試合とはいえ注目度は高く、メディアも多く詰めかける。チームやスポンサーの期待もある。何より――烈音の足を引っ張るわけにはいかない。そう考えると、なかなか夜に寝付くことができなかった。
 ベッドの上で身を転がしては時計を見る。夜が更けていくのがわかる。もう就寝の消灯時間をとっくに過ぎているのに、隼人は脳が興奮状態にあり、寝つけない。隣のベッドの烈音は、どうやらすでに眠っているようだ。彼の寝息は意外と静かで、時折ベッドが軋む音がする程度だ。

「こんなんじゃ、明日の試合に支障が出るかも……」 

 隼人は小声で呟き、思い切って起き上がった。軽くストレッチでもして身体をほぐそうか。そう考えてベッドの脇で立ち上がったとき、不意に烈音の声が闇の中から響いた。
 
「隼人、眠れないのか」

 思わずドキリとする。暗闇の中、烈音がこちらを見ている気配がした。先ほどまで寝ていたのではないかと勝手に思い込んでいたが、どうやら違ったようだ。隼人は少し戸惑いながら答える。

「……あ、はい。ちょっと、明日のこと考えると、ですね」

 恥ずかしさもあって、歯切れの悪い言い方になってしまう。すると、烈音がベッドから起き上がってこちらへ近づいてきた。常夜灯の薄明かりに照らされた彼の姿は、パジャマの上からでもはっきりと分かるほどの体格の良さが映えている。
 肩幅は広く、胸板は厚い。肩から首筋にかけての筋肉のラインが、寝起きのゆったりとした動作で僅かに起伏をつくり、それがまた妙に色気を帯びている。

「神経質になりすぎると、パフォーマンスが下がるぞ」 

 烈音の声は冷静だが、気遣いの色も見え隠れする。隼人はうなずきつつ、

「……そうですね」

 とか細く答える。そんな隼人を見やりながら、烈音は小さく息をつく。 

「明日は、勝てる。少なくとも今のお前なら、俺のプレーについてこられる。大丈夫だ」 

 簡潔な言葉。しかし、隼人にはその真っ直ぐな信頼が痛いほど伝わった。

「ありがとうございます」

 と頭を下げると、烈音はなおも隼人の前から動かない。そして、隼人の耳元に顔を寄せる。今度ははっきりと感じる、彼の吐息。夜の静寂を裂くように、烈音がゆっくりと囁く。

「……まだ落ち着かないか」  

 その声と同時に、彼の唇が耳朶のすぐ裏側に触れそうになるほどの近さ。さらに、烈音の指先がそっと隼人の首筋へ触れる。その瞬間、隼人の全身がビクリと震える。闇の中で視覚情報が限定されているせいだろうか、触れられる感覚が一層鮮明に感じられるのだ。
 耳から首筋にかけての肌が総毛立つ。熱を含んだ吐息が微細な音を立て、隼人の耳朶をかすめる。
 烈音は静かに息を吹きかけるような仕草をすると、まるで耳元で囁くかのごとく低く艶やかな声を紡いだ。

「明日のことは心配するな。お前は、お前のやるべきプレーをすればいい。ほら、リラックスさせてやる……」 

 囁きが、耳から直接脳に流れ込んでいくようだった。隼人の身体の奥で何かが解けていく。自分が今、どんな姿勢で立っているのかもよくわからないほど、神経が耳の一点に集束している。思わず隼人は唾を飲み込む。

「は、はい……」 

 声が裏返りそうになるほど戸惑いながら、隼人はかろうじて答える。すると、烈音は耳にふうっともう一度軽く息を吹きかける。かすかに湿った感触が残る。それがなんとも妙な官能を伴って隼人の心を揺さぶった
 こんな形でリラックスできるのか。いや、むしろ余計に昂ぶってしまうのではないか。そう思いながらも、身体は烈音の吐息に身を任せた。

「隼人、深呼吸しろ。……そう、ゆっくり。もっと力を抜いて」 

 烈音の声は限りなく穏やかだ。ダブルスのパートナーとして、緊張をほぐすためにやっているのか、それともそれ以上の意図があるのか、隼人にはもう判断がつかない。
 ただ、耳への刺激があまりにも心地よすぎて、隼人は立っているのが精一杯だった。膝が笑いだし、身体の力が抜けていく。まるで足元がふわふわと浮き上がるような感覚があり、両手を烈音の胸あたりにすがりつくように当ててしまう。
 すると、烈音の胸板の硬さが手のひら越しに伝わってくる。トレーニングによって形作られた大胸筋は熱を含み、その下でしっかりと心臓が鼓動しているのを感じられた。

「くっ……んくぅ…………」
「……ふっ、なんて声だ。もう少し耳貸せ」 

 囁き終えると、烈音はもう一度耳にゆっくりと吐息を吹きかける。
 ついばむようなかすかな湿ったおtが混じり、隼人はもう完全に頭の中が真っ白になる。
口元が緩みそうになるのを必死にこらえるが、声による耳への刺激は隼人を際限なく恍惚へと誘う。かろうじて誤魔化そうと唇を引き結ぼうとするが、その行為自体がさらに自身が感じる官能を煽っていた。

「ん、くぅ……はぁぅつ…………」

 吐息の音がいっそう甘く響き、隼人は浅い息を漏らす。
 烈音の大きな手が隼人の背中にまわり、そのまま支えるように抱き寄せてくれる。互いの体温が重なり合い、部屋の中の冷えた空気とは対照的な熱を放つ。
 天才としてのクールな印象とは裏腹に、こんなにも身体の接触が熱いとは。隼人は自分でも驚くほど、その温度に安心を感じていた。
 やがて烈音は耳への吐息をやめ、額を隼人のこめかみに寄せるようにして静かに呼吸を整えた。隼人はまだ心臓がバクバクと音を立て、呼吸が荒い。
 口の中にはまだ唾がたまっていて、それをごくりと飲み込むと、不覚にものどを鳴らしてしまった。暗闇の中でその音はいやに大きく感じられるが、烈音は軽く笑っただけで何も言わない。
 数秒、あるいは数分にも感じられる沈黙が流れたあと、烈音は隼人の肩をそっと離した。その目は先ほどの官能的な様相とは打って変わって、いつもの冷静さを取り戻しているように見える。 

「大丈夫か。少しは気が紛れた?」

 隼人は顔を赤らめたまま、

「はい……たぶん」

 と答えた。情けないほど声が震える。だが、その震えにすら、烈音は微かに笑みを浮かべて応じた。その表情は、あの初対面の朝には想像すらできなかったほど、穏やかな色合いを帯びている。

「じゃあ、寝ろ。明日は絶対に勝つぞ」

 そのひとことに、隼人は強く頷く。

「はい!」

 確かに、いくぶん身体がほぐれた気がする。
 あの耳への甘い刺激はいまだに脳裏から離れないが、逆に言えばそれによって、無駄な思考が頭から追い払われたようでもあった。身体はとろんとした心地よい多幸感に包まれ、今なら寝つけるかもしれない。
 ベッドに横たわる隼人を確認すると、烈音もベッドへ戻り、明かりを完全に落とす。静寂が二人を包み込む。先ほどまでの刺激が嘘のように、穏やかな暗闇があたりを支配する。
 しかし、隼人の胸の内には、先ほど烈音が耳元でくれた吐息の余韻が、優しく、けれど熱を帯びて残り続けていた。

「……ありがとう、烈音さん」 

 隼人は小さく呟いた。それが相手の耳に届いたかどうかはわからない。が、かすかな寝息とは異なるリズムの呼吸が隣から聞こえた気がして、隼人は安心して目を閉じた。
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