イシュラヴァール放浪記

道化の桃

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第十章 王都編

愛してる

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 ヌールに添い寝したファーリアの髪を、ユーリが優しく梳いている。
 子を産んだばかりのファーリアは、イランたちと砂漠を越えていくことはできなかった。
 イランたちは後日必要なものを持ってくると約束し、一旦レーに戻っていった。
 ララ=アルサーシャは新政府とアルヴィラ解放戦線の占領下に置かれた。カイヤーンは王都に残してきた一族と合流したが、そこに留まることなく砂漠へと去った。「街暮らしは性に合わん」と言ったとか言わないとか。
 岩屋には静けさが戻り、夜にはランタンのあたたかい灯が揺れた。穏やかな時間が流れていく。
「……ファーリア」
「なあに?ユーリ」
 ファーリアのしっとりとした声が愛おしい。ユーリはファーリアの髪を梳いていた指を滑らせて、こめかみから頬をなぞり、唇に触れた。
「ユーリ……?」
 ファーリアが繰り返した。ユーリはファーリアの上に屈み込み、その髪に顔を埋めて囁いた。
「……目を離すと、またどこかへ消えてしまいそうだ……」
 不安を言葉にしたら、かえって胸苦しさに襲われた。ユーリの声がか細く震える。
「お前はいつも俺のもとを去っていく。俺はそれを止められない。お前は自由で、行きたいところへ行く強さがある。だから俺は、お前に行くなと言えない」
「ユーリ」
「行かないでくれ。ずっとそばにいてくれ。そうお前に懇願して、お前を縛り付けて……たとえ俺が、神にするように地面に額をつけてお前に請うたとしても、きっとお前はその時になれば行ってしまう。それがお前の行くべき道だから」
 ユーリの漆黒の瞳が揺れた。ファーリアはたまらず両手を掲げ、ユーリの首を抱き寄せて接吻した。
「……お前が俺ではなくあの男を選ぶとしても、俺に止めることはできない。でも俺は、ずっと」
 重なり合った唇の間から、ユーリは絞り出すように続けた。
「俺はずっとお前を追いかけていた。もう一度、この腕に抱き締めたくて、昼も、夜も、お前のことばかり考えていた。お前の口枷を外してやった。お前に刺青を入れてやった。お前に剣を教え、服を買ってやった。一緒に夕陽を見た。あの日からずっと」
 ユーリはファーリアを抱き締めた。
「砂漠でお前を拾った日から、ずっと、ずっと――」
「……ユーリ……っ」
「――お前を愛している、ファーリア」
 ファーリアのまなじりから、涙が零れた。
「お前だけを愛している」
 ファーリアはユーリを抱き返した。
「……どこにも行かない、ユーリ」
 胸が張り裂けそうだ、とファーリアは思った。悲しみでも怒りでもない、この感情はなんだろう。
(ああ……そうか)
 切ないほどの幸福が身体中を満たしていく。それは初めての感覚だった。
「わたしも、愛してる――」
 ユーリが愛しくてたまらない。この不安気に揺らめく黒い瞳を、どうにかして安心させたい。自分が与えられるだけの安らぎを差し出したい。
「わたしも、ずっとずっと、ユーリに逢いたかった。きっと、ユーリに出会う前から、ユーリに焦がれていた。あなたはわたしの身体を、わたしのものとして扱ってくれる。あなたがわたしを人間にしたの。わたしは、あなたと生きていきたい」
 ファーリアはユーリから身体を離し、ユーリに向き合った。
「わたしはどこへも行かない。――だから、安心して行ってきたらいい」
「……!」
 ユーリの顔が強張った。
「行くんでしょう?アルヴィラへ」
「ファーリア、でも」
 ユーリの顔がくしゃりと歪んだ。
「大丈夫。わたしはどこへも行かない。ここでヌールと待ってる」
「ファーリア、俺はもうお前と離れたくないんだ」
 ユーリが再びファーリアを抱き締めた。
「大丈夫よ、ユーリ」
「うそだ。また消えてしまう。お前が出ていかなくても、誰かにさらわれるかもしれない。殺されるかもしれない。そうしたら俺は、俺はもう」
 もうきっと、耐えられない――。

   *****

 ジェイクと話さなければならない。
 新政府のことは置いても、ジェイクの作戦で脱獄できたのは事実だ。ユーリが本拠地アルヴィラに顔を出さないままでいるわけにはいかない。ファーリアが駱駝に乗れるまでに回復するのを待って、ユーリは重い腰を上げた。
 ユーリの留守中、ファーリアは一旦レーのイランのもとへ身を寄せることになった。
「町には子連れの母親もいるし、わからないことがあったら何でも聞くといい。ここなら安心して暮らせるぜ」
「ありがとう、イラン」
 千戸超ほどの住居の、半数以上がまだテント暮らしだったが、町は活気に溢れていた。大勢の子供たちが、言いつけられた仕事の合間にそこらを駆け回って遊んでいる。彼らはよくヌールの世話を焼いた。ヌールはよく笑うようになり、やがてお喋りな子供たちに囲まれて言葉を覚えていった。
 目まぐるしい日々だった。新しい町ができていく様子を眺めながら、日々成長するヌールを育てていると、あっという間に時が流れた。
 ユーリは、帰ってこなかった。
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