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第七章 愛執編
王子の証言
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夕暮れの、どこかの屋敷の庭にいる。
(ここは……どこだ……)
エディはあたりを見回す。
見覚えのあるようで、はっきりとどこなのかわからない。幼い頃過ごした郊外の生家か、昨夜訪問したシハーブ家の庭か。
ふと、どこからか細い悲鳴が聞こえた――気がした。幻聴かもしれない。それともただの鳥の声かもしれない。だがそれでこの場所がどこなのかエディは悟った。
(これは、夢だ)
だってあそこには、あれから行っていない――。
また悲鳴が聞こえた。
幻聴だ。夢だ。そう思いながらも、足が勝手に進んでいく。庭を突っ切り、娼館の外階段を上がる。(そうだ、ここは『夜の兎』だ)屋根裏から忍び込んで、床板を外し、梯子を下ろすと――。
そこはライラの部屋だった。
鼻をつく異臭。血と体液で汚れたシーツの上に、ぐったりと動かない女の姿があった。
「アトゥイー!」
エディが呼んでも、アトゥイーはぴくりともしない。既に事切れて、青ざめた顔には死相が浮かんでいる。その身体は変に歪んで、中身が抜け出てしまったゴム人形のようにぐんにゃりとしていた。
「いやだ――アトゥイー!死ぬな!いやだあぁっ!アトゥイー!アトゥイー!アトゥイー!!」
ひやりと首筋に冷たいものを感じて、エディは声を呑んだ。エディに剣を突きつけているのはアトゥイーか、それとも。
――マルス様に斬り捨てられるぞ――
「――――っ!!」
エディは飛び起きた。そこは兵舎の個室だった。
時計は十時を指している。結局明け方まで眠れなかったので、五時間ほど眠ったことになる。
(嫌な夢を見た――)
ドアの前の床に、一通の封筒が滑り込ませてあった。開けてみるとスカイからだった。
――ヤーシャール王子と会見の約束ができた。午後一時に王宮まで来られたし――
エディは身支度を整え、日誌や地図などいくつかの資料を持って部屋を出た。
外に出たところで、エディは呼び止められた。
「エディ」
エディが振り返ると、傭兵隊のリンがいた。
「リン!」
リンはエディに追いつくと、声を落として言った。
「君も王子のところへ?」
エディは頷く。その口ぶりから、リンもスカイに呼ばれたのだと察した。
「呼ばれたのは君と俺だけか?」
「そのようだね……ねぇリン、エクバターナから戻ってから、スカイ様と何か話したか?」
リンは首を振った。アトゥイーの捜索に出ていたエディより先に、リンはアルサーシャに戻っていたが、エディとは所属が違うので特に報告を求められていなかった。作戦の責任者はエディだったし、余程のことがなければ伝達経路を飛ばして報告を上げることはない。
王宮の、そう広くはないが瀟洒な一室でエディとリンが待っていると、ヤーシャール王子がシハーブとスカイに伴われて現れた。
「その節は世話になった」
ヤーシャール王子はリンを見て、丁寧に礼を述べた。エディとリンは畏まって片膝を折り礼を執る。
リンはちらりと目を上げた。地底に幽閉されていたときもどこか浮世離れした雰囲気を纏っていたが、こうして王侯貴族の着るような衣装を身に着けて、客分とはいえど王宮にいると、さすがに王族の風格を感じる。
「さて、何やら私に証言してほしいことがあると聞いたが」
ヤーシャールの問いかけに、「は、」とスカイが進み出る。
「エクバターナにエディアカラ少佐らを派遣した、近衛隊長のスカイ・アブドラです。直接王子を地下牢からお救いしたのは、こちらにいるリンで間違いありませんか?」
「いかにも、その青年と他に数名、若い兵たちに救われた」
「中に女性の兵士はいましたか?」
「二人いたな」
「サハルとアトゥイー?」
スカイはエディからの受けていた報告の通りに尋ねた。
「そんな名であったか」
「大変失礼ですが――王子は具体的にどなたの陰謀で幽閉されるに至ったのでしょう?――本来、我が国王よりお伺いすべき内容ですが、只今伏せっておりまして」
スカイはちらりとエディに視線を送った。口裏を合わせろと無言で命じる。
「リンと言ったか。その方にも話したが、私は幼き頃より病がちでな。人事不省の折りに何者かの陰謀で投獄されたらしい。誰の差し金かは分からぬのだ」
「それは――さぞお辛かったことでしょう」
「なに、元々侍医らにも長くは生きられぬと言われていた命だ。が、皮肉なことに地下では八年も生きながらえることができた。私の身体には地下暮らしのほうが合っていたのやもしれぬな」
からからと笑う。王子はどこか飄々としていた。無論、救い出されたことを少なからず喜んでいる様子ではあるが、これまでの不遇を殊更に嘆いたり、誰かを恨んだりしているようでもない。
(あるいは――毒でも盛られていたか)
シハーブはちらりとそんな考えが過ぎった。病と見せかけて、何年もかけてじわじわと肉体を蝕んでいく毒がある。
「とはいえ――リンといったか。其方らには大層感謝している。偶然とはいえ、其方らがあの場所に来なければ、私はこうして再び陽の下に出ることもかなわなかったやも知れん。今は貴国の客分ゆえ、何も与えることはできぬが、心より礼を申す」
「――もったいないお言葉でございます」
名指しされたリンは、その場で膝を揃え、床に頭をつける東洋の古風な作法の礼をした。
「彼らには相応の報酬を与えておきます、王子」
シハーブが言った。
「おお、ありがとう。この場にいない者たちも同様に厚遇されることを願っている。特に、アトゥイーと言ったか」
「……は」
シハーブが硬い声で応じた。スカイとエディにも緊張が走った。
「彼女はあの場に囚われていた奴隷たちを救命すべく、大層な尽力をした。並の人間ではできぬ。貴賤に関わりなく生命を大切にする思いに、このヤーシャール、深く心を打たれたと伝えておくれ」
「確かに承りました」
(ここは……どこだ……)
エディはあたりを見回す。
見覚えのあるようで、はっきりとどこなのかわからない。幼い頃過ごした郊外の生家か、昨夜訪問したシハーブ家の庭か。
ふと、どこからか細い悲鳴が聞こえた――気がした。幻聴かもしれない。それともただの鳥の声かもしれない。だがそれでこの場所がどこなのかエディは悟った。
(これは、夢だ)
だってあそこには、あれから行っていない――。
また悲鳴が聞こえた。
幻聴だ。夢だ。そう思いながらも、足が勝手に進んでいく。庭を突っ切り、娼館の外階段を上がる。(そうだ、ここは『夜の兎』だ)屋根裏から忍び込んで、床板を外し、梯子を下ろすと――。
そこはライラの部屋だった。
鼻をつく異臭。血と体液で汚れたシーツの上に、ぐったりと動かない女の姿があった。
「アトゥイー!」
エディが呼んでも、アトゥイーはぴくりともしない。既に事切れて、青ざめた顔には死相が浮かんでいる。その身体は変に歪んで、中身が抜け出てしまったゴム人形のようにぐんにゃりとしていた。
「いやだ――アトゥイー!死ぬな!いやだあぁっ!アトゥイー!アトゥイー!アトゥイー!!」
ひやりと首筋に冷たいものを感じて、エディは声を呑んだ。エディに剣を突きつけているのはアトゥイーか、それとも。
――マルス様に斬り捨てられるぞ――
「――――っ!!」
エディは飛び起きた。そこは兵舎の個室だった。
時計は十時を指している。結局明け方まで眠れなかったので、五時間ほど眠ったことになる。
(嫌な夢を見た――)
ドアの前の床に、一通の封筒が滑り込ませてあった。開けてみるとスカイからだった。
――ヤーシャール王子と会見の約束ができた。午後一時に王宮まで来られたし――
エディは身支度を整え、日誌や地図などいくつかの資料を持って部屋を出た。
外に出たところで、エディは呼び止められた。
「エディ」
エディが振り返ると、傭兵隊のリンがいた。
「リン!」
リンはエディに追いつくと、声を落として言った。
「君も王子のところへ?」
エディは頷く。その口ぶりから、リンもスカイに呼ばれたのだと察した。
「呼ばれたのは君と俺だけか?」
「そのようだね……ねぇリン、エクバターナから戻ってから、スカイ様と何か話したか?」
リンは首を振った。アトゥイーの捜索に出ていたエディより先に、リンはアルサーシャに戻っていたが、エディとは所属が違うので特に報告を求められていなかった。作戦の責任者はエディだったし、余程のことがなければ伝達経路を飛ばして報告を上げることはない。
王宮の、そう広くはないが瀟洒な一室でエディとリンが待っていると、ヤーシャール王子がシハーブとスカイに伴われて現れた。
「その節は世話になった」
ヤーシャール王子はリンを見て、丁寧に礼を述べた。エディとリンは畏まって片膝を折り礼を執る。
リンはちらりと目を上げた。地底に幽閉されていたときもどこか浮世離れした雰囲気を纏っていたが、こうして王侯貴族の着るような衣装を身に着けて、客分とはいえど王宮にいると、さすがに王族の風格を感じる。
「さて、何やら私に証言してほしいことがあると聞いたが」
ヤーシャールの問いかけに、「は、」とスカイが進み出る。
「エクバターナにエディアカラ少佐らを派遣した、近衛隊長のスカイ・アブドラです。直接王子を地下牢からお救いしたのは、こちらにいるリンで間違いありませんか?」
「いかにも、その青年と他に数名、若い兵たちに救われた」
「中に女性の兵士はいましたか?」
「二人いたな」
「サハルとアトゥイー?」
スカイはエディからの受けていた報告の通りに尋ねた。
「そんな名であったか」
「大変失礼ですが――王子は具体的にどなたの陰謀で幽閉されるに至ったのでしょう?――本来、我が国王よりお伺いすべき内容ですが、只今伏せっておりまして」
スカイはちらりとエディに視線を送った。口裏を合わせろと無言で命じる。
「リンと言ったか。その方にも話したが、私は幼き頃より病がちでな。人事不省の折りに何者かの陰謀で投獄されたらしい。誰の差し金かは分からぬのだ」
「それは――さぞお辛かったことでしょう」
「なに、元々侍医らにも長くは生きられぬと言われていた命だ。が、皮肉なことに地下では八年も生きながらえることができた。私の身体には地下暮らしのほうが合っていたのやもしれぬな」
からからと笑う。王子はどこか飄々としていた。無論、救い出されたことを少なからず喜んでいる様子ではあるが、これまでの不遇を殊更に嘆いたり、誰かを恨んだりしているようでもない。
(あるいは――毒でも盛られていたか)
シハーブはちらりとそんな考えが過ぎった。病と見せかけて、何年もかけてじわじわと肉体を蝕んでいく毒がある。
「とはいえ――リンといったか。其方らには大層感謝している。偶然とはいえ、其方らがあの場所に来なければ、私はこうして再び陽の下に出ることもかなわなかったやも知れん。今は貴国の客分ゆえ、何も与えることはできぬが、心より礼を申す」
「――もったいないお言葉でございます」
名指しされたリンは、その場で膝を揃え、床に頭をつける東洋の古風な作法の礼をした。
「彼らには相応の報酬を与えておきます、王子」
シハーブが言った。
「おお、ありがとう。この場にいない者たちも同様に厚遇されることを願っている。特に、アトゥイーと言ったか」
「……は」
シハーブが硬い声で応じた。スカイとエディにも緊張が走った。
「彼女はあの場に囚われていた奴隷たちを救命すべく、大層な尽力をした。並の人間ではできぬ。貴賤に関わりなく生命を大切にする思いに、このヤーシャール、深く心を打たれたと伝えておくれ」
「確かに承りました」
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