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〖第54話〗朱鷺side④
しおりを挟むあのひとの表情が浮かんでは消える。
「……あの人、何か言ってた?」
「いや、何も」
「そう………」
あるのは落胆と焦げるような怒りだった。握った手の爪が手のひらに食い込む。
「良かったじゃないか。忘れたかったんだろ?あいつも忘れて、お前も忘れて───嘘だよ。悪い。悪趣味だな、俺が悪かった。確かめたかったんだ。お前自身、あいつに未練があるのかをな」
ため息を一つ吐いて、鷹さんは言った。
「あいつ、この世の終わりみたいな顔してたよ。お前がどうしてるか、から始まってずっと質問攻め。
楽譜買いに行くって言ってた。
あと、握力つけるみたいなグッズ。
左手、あんまり上手く動かないんだと」
血が引いた。あの時──。
グラスを割った時。
あの人がすべてを放棄したとき。
僕のせいだ、僕の……。
手が震えてくる。
「兄さん、ごめんなさい。ちょっと出かけてくる!」
足早に街へ出る。いつも二人で行っていた、楽譜がたくさん置いてある楽器店。
よく行ったカフェ。
トローチが置いてあるドラッグストア。
思いあたる所をあたるが見つからない。
───────────
あてもなくとぼとぼ歩く。だんだん空が暗くなり、街はまた明るくなり始める。
ガラスに写った僕は以前と違うけど同じだ。自信が無さそうにおどおどとしている。知らない人に何人か、男女問わずに声をかけられたが、話を濁して逃げた。
派手な街が嫌でイルミネーションを遠ざけるように歩く。
最後に僕がたどり着いたのは、先輩のマンションだった。
インターフォンを押すか迷う。
押さなかった。
何をしているんだろう、僕は。
どうでもいいじゃないか。
あんな人。
もう僕には関係がない人だ。
『会うのは最後にしたい』
とあの時言った。
下を向き、マンションのエントランスを出ようとする。
外から入って来る人影があった。
すれ違う瞬間、手首を捕まれた。
驚いて、見上げる。
「どうして──来たの………どうして」
切なそうに眉をひそめ、先輩は泣きそうな顔をして言った。
そんな顔をしないで欲しかった。
全部無かったことにしたくなる。
思わず目を逸らす。
けれど、強い力で掴まれた手首が嫌な記憶を呼び起こし、
冷たい水のような手による痛みが、
ザワザワと自己主張をし始める。
痛み
苦しみ
悲しみ
数えきれない『負』の感情と感覚。
あの人から欲しくなかったものは、あの時全部もらった。
この人のこんな顔を見るのは、バスルームでのとき以来だ。
自嘲したくなる。ほんの少し後悔した表情を見ただけで、ほだされる弱い自分を。
もう、僕はモジャモジャの冴えない子供じゃない。『深谷朱鷺』はもう居ない。
傷つけばいい。
もっともっと、傷ついて泣いて縋りつくくらいに。
そんな思いが、生まれる。
ゆらゆらと小さな残酷な火が、
僕の胸の奥に点く。
「手首、『まだ』痛いんです。放してくれませんか」
『ご、ごめん……』と短くそう言い、先輩は手の力を抜いた。
「あげてくれないんですか?寒いんです」
自分でも、なぜこの言葉が出たか解らない。一番思い出が残る、鳥籠。
エレベーターではお互いが無言だった。
先輩が気まずそうに、口を開く。
「寒かったよね。どうして、来てくれたの?俺になんて──会いたくなかったはずなのに………」
「会いたくなかったですが、
忘れ物があって」
すらすらと、言葉が出た。嘘ではなかった。
サティの歌曲集の楽譜。
この人にもらった、綺麗な思い出。
『ジュ・トゥー・ヴー』
何回歌ったか解らない。最初は会いたくて。次はこの人の伴奏で。溶けるくらい幸せだった──。
────────────
僕の私物は鷹さんが先輩の家に行き、運んでくれた。
鷹さんが持ってきてくれた荷物の中に唯一無かったものが、その楽譜だった。
「暖かいもの、作るよ。何か飲みたいものある?」
「ココア」
軽く上を向き先輩を見据えて嘲笑する。
傷ついた表情をするこの人をみるのが楽しくて仕方がなかった。
でも、僕も血だらけだ。自分の傷口を開いて見ているようだった。
ゆらゆらとした火が大きくなっていく。
苦しむのが見たいのは、
目の前のこの人のはずなのに、
どうして僕自身がこんなに苦しいんだろう。
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