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〖第21話〗瀬川side④
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窓から西日が差すと、時はいつも眩しそうな顔をした。
『先輩、眩しいからブラインド下ろしても良いですか?』
目に染みるんです。すみません。と朱鷺は良く言っていた。彼の目は虹彩が薄い。薄い茶色をしている。まるでカラーのコンタクトをしているようだった。
いつも座っていた場所。朱鷺はよくあそこで譜読みをしていた。俺も向かいに座り、やはりよく譜読みをした。
無言の時間も気にならなかった。
珈琲を取りに立ち上がる。
『朱鷺くんは?』
と訊くと控えめに彼は空のカップを
『じゃあ僕もお願いします』
と言い差し出す。添えられた手が小さくて可愛らしかった。
集中するときに唇に曲げた右手の人差し指を添えるのは朱鷺の癖。
『先輩はこの曲弾けますか?』
俺は楽譜をちらっと見る。
『まあ、この程度は初見でも』
そう言うと
『すごいなあ。やっぱり先輩はプロなんですね』
そう言って嬉しそうに笑っていた。
『弾いてもらえませんか?』
と言われることもあった。その度に弾いた。朱鷺はやはり嬉しそうに笑っていた。
彼が笑う。それだけで嬉しかった。
使っていたマグカップ。
笑うときに覗く白い歯。
そして、声。笑い声、怒った声、喜んだ時の声。泣き声。
部屋のあちこちに朱鷺はいて、いない。
散らばった朱鷺のパーツを拾い集める。この部屋に溢れる彼の気配。でも、彼はいない。
俺はソファに深くもたれ、酔う為だけに買った安いジンをグラスに乱暴に注ぐ。
朱鷺の声が聞こえてきそうだ。
『お酒は練習が終わってからちょっとだけですよ』
『お夕飯は一緒に作るって言ったじゃないですか。ほら。今日は寒かったから鍋ですよ。先輩、好きでしょう?』
温かい声が目を瞑れば聴こえて来そうだ。
ふと、思いだし練習室に行く。教会で録った、朱鷺の歌声と俺の伴奏の録音だ。
録音してから一回も聴いていなかった。
朱鷺の伸びやかな声。俺のピアノの甘い音。二つが絡みあう旋律。『ジュ・トゥ・ヴー』
これは朱鷺が来て2週間くらいたった時に遊びで録音したものだ。
あの頃は幸せだった。きっともう、この音は出ない。
『──私にはあなたの苦しみがわかったの、愛しい恋人よ……私は強く憧れるの。二人して幸せなあの時を。あなたがほしいの──』
フランス語の甘い歌詞。歌い終わったあと俺は不意打ちのように触れるだけの口づけをした。
朱鷺は耳まで真っ赤にしていた。でも、もうそれは過去のこと。二人して幸せなあの時は──あの子は、もう、戻ってこない。
「朱鷺くん」
翳りゆく部屋に小さな呟きがもれる。
「何ですか?」
という答えはないことは解っているのに。
一番好きな人だった。
優しくしたかった。愛していた。
歪んだ形だったと思う。でも彼は受け入れてくれた。一生懸命、寄り添ってくれた。なのに──今浮かぶのは走り去る後ろ姿。もう、戻ってこない。俺が彼を傷つけたから。
彼が金色のちひさき鳥なら俺は何回も傷つけて、傷つけて、苦しめて、羽を折って、飛ぶ自由を奪って、きっと殺してしまっている。
もう、彼は戻って来ない。
あんなことをするつもりも、あんな顔をさせるつもりじゃなかったのに。
謝ることさえ、出来ない。
もう、彼は帰ってこないのだから。
だから俺の居場所もない。
なら、もう俺は、何もすることはない。
だって、そうじゃないか。
もう彼はここに居ないのに。
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『先輩、眩しいからブラインド下ろしても良いですか?』
目に染みるんです。すみません。と朱鷺は良く言っていた。彼の目は虹彩が薄い。薄い茶色をしている。まるでカラーのコンタクトをしているようだった。
いつも座っていた場所。朱鷺はよくあそこで譜読みをしていた。俺も向かいに座り、やはりよく譜読みをした。
無言の時間も気にならなかった。
珈琲を取りに立ち上がる。
『朱鷺くんは?』
と訊くと控えめに彼は空のカップを
『じゃあ僕もお願いします』
と言い差し出す。添えられた手が小さくて可愛らしかった。
集中するときに唇に曲げた右手の人差し指を添えるのは朱鷺の癖。
『先輩はこの曲弾けますか?』
俺は楽譜をちらっと見る。
『まあ、この程度は初見でも』
そう言うと
『すごいなあ。やっぱり先輩はプロなんですね』
そう言って嬉しそうに笑っていた。
『弾いてもらえませんか?』
と言われることもあった。その度に弾いた。朱鷺はやはり嬉しそうに笑っていた。
彼が笑う。それだけで嬉しかった。
使っていたマグカップ。
笑うときに覗く白い歯。
そして、声。笑い声、怒った声、喜んだ時の声。泣き声。
部屋のあちこちに朱鷺はいて、いない。
散らばった朱鷺のパーツを拾い集める。この部屋に溢れる彼の気配。でも、彼はいない。
俺はソファに深くもたれ、酔う為だけに買った安いジンをグラスに乱暴に注ぐ。
朱鷺の声が聞こえてきそうだ。
『お酒は練習が終わってからちょっとだけですよ』
『お夕飯は一緒に作るって言ったじゃないですか。ほら。今日は寒かったから鍋ですよ。先輩、好きでしょう?』
温かい声が目を瞑れば聴こえて来そうだ。
ふと、思いだし練習室に行く。教会で録った、朱鷺の歌声と俺の伴奏の録音だ。
録音してから一回も聴いていなかった。
朱鷺の伸びやかな声。俺のピアノの甘い音。二つが絡みあう旋律。『ジュ・トゥ・ヴー』
これは朱鷺が来て2週間くらいたった時に遊びで録音したものだ。
あの頃は幸せだった。きっともう、この音は出ない。
『──私にはあなたの苦しみがわかったの、愛しい恋人よ……私は強く憧れるの。二人して幸せなあの時を。あなたがほしいの──』
フランス語の甘い歌詞。歌い終わったあと俺は不意打ちのように触れるだけの口づけをした。
朱鷺は耳まで真っ赤にしていた。でも、もうそれは過去のこと。二人して幸せなあの時は──あの子は、もう、戻ってこない。
「朱鷺くん」
翳りゆく部屋に小さな呟きがもれる。
「何ですか?」
という答えはないことは解っているのに。
一番好きな人だった。
優しくしたかった。愛していた。
歪んだ形だったと思う。でも彼は受け入れてくれた。一生懸命、寄り添ってくれた。なのに──今浮かぶのは走り去る後ろ姿。もう、戻ってこない。俺が彼を傷つけたから。
彼が金色のちひさき鳥なら俺は何回も傷つけて、傷つけて、苦しめて、羽を折って、飛ぶ自由を奪って、きっと殺してしまっている。
もう、彼は戻って来ない。
あんなことをするつもりも、あんな顔をさせるつもりじゃなかったのに。
謝ることさえ、出来ない。
もう、彼は帰ってこないのだから。
だから俺の居場所もない。
なら、もう俺は、何もすることはない。
だって、そうじゃないか。
もう彼はここに居ないのに。
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