その声で抱きしめて〖完結〗

華周夏

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〖第2話〗瀬川side

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 久しぶりに、教会にでも行こうかと思ったのは何故だろう。音大に通っている頃は良く練習させてもらった。自分のマンションにもグランドピアノはあるのに。
 初夏の陽射しが、石造りの古い建物に良く似合う。特別に祈りたいことがあるわけでもない。何となく、ステンドグラスが綺麗で、置いてあるピアノはスタインウェイ。建物自体の音響もいいからだ。顔馴染みの守衛さんに声をかける。土曜日だった。

「こんにちは」

「ああ、瀬川くんか。音大の時も凄かったけど、今も凄い活躍だね」

「凄くはないですよ」

 と、俺は顔の前で手を振る。

「あの、声がしますけど、誰かいるんですか?」

「ああ。朝と夕と人の居ないときに練習させてあげてるんだ。君の後輩だよ」

 うっすら漏れ聞こえる声からするとメゾソプラノ。綺麗な伸びのある声だ。

「佐藤さん、ちょっと覗いていいかな」

「大丈夫だと思うけど。そっとね。臆病な子だから」

 ゆっくり音がしないように年季の入ったドアを開ける。
 見えたのは、何処かまだ頼りない後ろ姿。声量に似合わない華奢な骨格。
白いシャツ。カーキのパンツ。ショートカットの巻き毛の茶色い髪は光の加減で金色に光って見えた。

 その子が歌っていたのは、サティの『ジュ・トゥ・ヴー』フランス語の甘い歌詞。歌い終わったその子に、拍手をし、声をかける。

「教会で『あなたがほしい』なんて、色っぽいね」

 小柄な人が振り返る。少し驚く。少年だった。

「君は………カウンターテナー?とても綺麗な声だ。つやがあって、良い声だ」

 親友の鷹には『社交辞令か皮肉しか言わない』と言われているが、これは本心だった。

「そんなこと、言われたことないです」

 少し照れ臭そうに、少年は身を縮め俯いた。可愛らしいな、と思った。しかし、何処かで聴いたことがある声だ。歌声ではなく、話す方の声がだ。

「名前を、訊いていいかな?」

「深谷朱鷺です。すぐそこの音大の一年です。あの、ピアニストの方、ですよね?」

「瀬川雅之。一応君の先輩。同じ大学の卒業生。よろしくね」

 握手をしようと俺は手を伸ばす。朱鷺は控えめに手を伸ばした。小さい手だと思った。片手で両手が収まってしまうような。じっと手を見つめる。

「気分、悪いんですか?」

「いや、大丈夫だよ」

 俺はいつも通りにっこり笑う。やっと解った。『この前の子』だ。香織との「遊び」を見られた、怯えた小動物のような目をした子。

「ねえ、俺のこと覚えてない?」

「定期演奏会で、ゲストに来てくれましたよね。リストのマゼッパを弾いた──」

「そうじゃなくて!」

 俺は思わず朱鷺の両肩を掴んだ。朱鷺は、驚いたように、大きな瞳で逸らすことなく俺を見る。知っていることを隠しているようには見えなかった。

「本当に覚えていないんだね……」

 ほっとするような、寂しいような。不思議な気持ちだった。どうしてだ?と自問する。あんな最低な出会い方をして、忘れられていて良かったはずなのに。やはり、この声のせいなのだろうか。柔らかで少しだけ高い、どうしようもなく焦がれるひとの声に似た、この子の声。
 怯えさせ、嫌悪の対象になっていたとしても、それでも俺は『あの時の!』とでも、彼に言って欲しかったんだろうか。忘れられたくなかったのだろうか。もう、忘れられるのは誰でも嫌か。心の奥で自嘲する。

「ピアノは弾かないの?」

「苦手なんです。それに……」

「それに?」

「ちょっと怖くて」

 そう言い朱鷺は笑った。乾いた笑い声に、俺はそれ以上何も訊かなかった。

「何か弾いてみて。『テンペスト』とかは?」

「暗譜はしてますけど………入試に向けて練習した曲なんで……」

 ステージ袖の薄暗い所にグランドピアノがあった。

「笑わないでくださいね。先輩の前だっていうだけで緊張するんですから」

 そう言い朱鷺はテンペストを弾いた。あまり長くはない曲なのであっという間に弾き終わる。

「これは……ちょっと酷いな。これでよくあの大学に受かったね」

 その一言に尽きた。この小さい手では弾きにくいかもしれないがそれ以前の問題だ。この子はピアノが苦手ではなく嫌いなんだろうと思った。

「……解ってます。だからここで練習してるんです」

『しょんぼり』とはまさに、このことを言うんだと思う。普段なら冷笑していた。でも、何故か朱鷺を笑う気は起こらなかった。斜め上を向いて俺を見つめる朱鷺がいじらしいとさえ思った。

「特訓しない?俺と」

「え、でも………」

「嫌、かな?」

「嬉しいですけど、謝礼とか払えません。生活費でギリギリですから。それに忙しいんじゃないですか?」

「俺が好きでするんだ。気にしなくて良いよ。頑張ろう」

 朱鷺はにっこり笑った。傾いた陽はもうなくて、教会の薄いランプが俺と朱鷺を照らしていた。面倒を抱えるのは、嫌いなはずなのに。朱鷺を見るとあまりにも必死な感じがして、切なくなる。
─────
「ありがとうございました」

 と、守衛の佐藤さんに声をかける。「また、お世話になります」とも。方向が同じで途中まで一緒に歩いた。

「──夜なのに空気が冷えてこないね」

「そ、そうですね」

 上の空の返事で朱鷺は足元ばかり気にしていた。

「どうしたの?」

 見かねて俺は朱鷺に声をかけた。

「──何でもないです」

「からかったりしないから言ってごらん」

「………コンタクト、落としちゃいました。見えない………。僕、すごく目が悪くて。変な見栄張らないで眼鏡にすれば良かった」

「そう言うことは早く言え!」

 朱鷺の大きな瞳が怯えるように俺を見つめる。思わず怒鳴ってしまったことを一瞬で後悔した。

 朱鷺に腹をたてたのではない。街灯を頼りにおぼつかなく歩く隣を気遣えなかった自分に腹が立った。でも、こんなことは言っても詮なきことだ。

 ただ、身を縮める朱鷺に『ごめん。大きな声をだして』と謝り、手をとった。手を繋いでいれば少しは怖くないだろう。
 ゆっくりと歩調を朱鷺に合わせた。彼の手は少し震えていた。罪悪感が滲む。

 大通りでタクシーをつかまえコンタクトレンズを取り扱っている店に行った。ずっと考えていた。

 何で俺はこの子の世話を必死になってやいているんだろう。しかも今日──ではないが──会ったばかりの子だ。歌声と──好きな奴に『声』が似ているだけだ。あとは『遊び』のツケくらいか。でなければ、こんなモジャモジャ頭の子供とせっかくの初夏の夜なのにコンタクトレンズを一生懸命選んでいるはずはない。
 
「──選び終わった?」

「助かりました。ありがとうございました。本当に」

「どうして眼鏡にしないの?便利だよ?俺も眼鏡だし」

「──高校の頃のあだ名が『モジャモジャ眼鏡』だったんで。『モップが眼鏡してる』って散々からかわれて。大学に入ったら絶対コンタクトにするって決めてたんです」

 こんなことに拘ってるなんて、僕も馬鹿だなぁって思うんですけど。と、朱鷺は、少し哀しそうな顔から気を使った笑顔に変わる。思っていたことを見透かされたようで、胸が痛んだ。

「会計は済んだの?」

「まだです。少し混んでいて。時間がかかりそうです。だから、先輩は先に帰って下さい。遅くなっちゃいます。それに裸眼で来店するとサービスで新しいコンタクトをもらえるんです。先輩の顔もちゃんと見えます。教会は薄暗くて良くわからなかったけど、先輩は本当にハンサムなんですね。羨ましいです。髪も、さらさらだし。今日はわざわざかかりつけの所に送って頂いて──ありがとうございました。あの」

 手渡されたのは11桁の番号。それと名前。少し丸みを帯びた優しげな字だった。

「電話です。レッスン楽しみにしてます」

 そう言い朱鷺は深めに頭を下げた。

「じゃあ、また」

 そう言い俺はその場を後にした。見送るのは好きではない。ふと、他人に対して使ったことがない言葉を使った事を思い出す。そんなに忘れられるのは誰でも嫌か。

「また、か」

『深谷朱鷺』他人に対して興味をもったのは鷹以来かもしれない。
 俺は朱鷺がくれた紙を大事に手帳のポケットにいれた。建物のガラスに映る自分は上機嫌に見えた。
 こんな日に、あの家に帰りたくなかった。月1の家族の会食。

「帰りたくないな」

 ぼんやりそう呟き、目についたコンビニエンスストアの喫煙所で、俺は煙草に火を点けた。
   
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