石炭と水晶

小稲荷一照

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ローゼンヘン工業

ローゼンヘン工業 共和国協定千四百三十八年

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 ローゼンヘン工業の軍需品納入は春に部分的に予算が承認可決され、この秋にも初号納品の実績が積まれれば、全体で小銃百二十万丁銃弾二十五億発総額十八億二千五百万タレルという単一の装備としては共和国軍空前の調達計画が提言されることになる。
 金額の上では、リザが半ば口約束と空手形を叩きつけるように奪い取るようにして持っていった、輸送機関車を中心とした装備調達のほうが金額の方では大きかったが、そちらは兵站会計上の名目実態としては、総軍司令部直轄編制の増援部隊と現地部隊の再編として軍令本部長の統帥権の範疇ということになっていて、予算措置を一時留保した形で先行実現している今後戦時国債の売上に応じて数年次に先送りされる一種の割賦であるため、実務上予算化以前の段階である。
 ともかく、リザが口にした結婚の約束の根拠が成立した。
 ただし籠城戦や数次の会戦の後、運動戦と地域制圧が中心になってからは弾薬の消費が減り始めていて必要数の見直しをおこなうべきではないかとする意見も改めて出てきた。
 現在は十ヶ年計画で提案検討されているが、五ヶ年計画で六十万丁十二億発に縮小する案の軍政本部内提案の準備も始まっていた。
 この縮小案は計画を分割した場合にもローゼンヘン工業の見積もりも鉄や石炭が標準的な値動きをするならという前提で九億七千万タレルといった報告で国債金利を考えれば、それほどに高い金額に跳ね上がるというわけでもないことが追い風になっていた。
 ほとんど全てと言っていい圧倒的大多数の兵站将校は前線幕僚も後方本部の軍官僚も機関小銃の瞬間火力の圧倒的な高さは認めていたものの、同時に兵站将校として消費弾薬量とその補給連絡のための輜重段列の調整編制や前線部隊統制の都合を考えると、戦列銃兵の武器としては単発式の三十シリカ小銃を好んだこともある。訓練不十分な新編部隊では更に傾向がはっきりしていた。
 そもそも現地調達できない銃弾の扱いの困難こそが各地に軍需品倉庫を作らせることになり、半ば専売のような形で硝石を各地の政庁が扱っている理由でもある。
 町を巻き込んだ戦争では小銃弾にして億という単位を睨んだ量。つまり数十から数百グレノルという単位で硝石を必要とするわけだが、仮にどこかに硝石の鉱床があるとして数百リーグの道のりを延々運ぶという困難はなかなかに険しい。
 小銃の性能の向上は小銃弾の部隊定数を膨らませ、従前も建前の上では地図や測量器材は中隊本部の士官が個人割当装備として装具とともに運ぶことになっていた。それらを建前ではなく実際に必要と求めるほどに前線部隊の兵站能力を圧迫していた。
 これまでも司令部要員が馬車で移動中に会議をおこなえる余裕があるのは師団以上の部隊についてだったが、戦闘部隊では行軍に疲労した兵士を行李に押し込むことが贅沢以上に困難になり始めていた。
 流通が安定し始めた被筒付き鋼芯小銃弾薬、通称銃身清掃具は、それまでの三十シリカ小銃弾とは一線を画する性能を示していて、ローゼンヘン工業の武器製造業としての素養の高さを示していたが、銃兵用の武器としてはその威力で十分であると考えた者たちが少なくなかった。
 ローゼンヘン工業の供給する、予算品目上調達と配備がひとまず停止した従来の三十シリカ後装小銃向けの銃弾の代品が細かな実用上の問題――たとえば掩体内で銃口を十分に火点開口部に近づけないで発砲すると発砲時の破片でけがをする。拳銃散弾と同程度五キュビットほどの危険域が銃口方向にあるため銃列配置に配慮が必要となる等――が様々な形で報告されていたものの、一方で潤沢な供給と期待以上の威力で銃兵火力を飛躍させていたことも影響していた。
 機関小銃の弾丸に比べ一発あたりの銃弾の重量が倍あまりということで一般的な戦列銃兵の交戦射程外、千キュビットを狙える射撃の名手と呼ばれる人々――各師団に二十名くらいはいる特技銃兵章をもった下士官――が長距離の弾道が安定することで好んだという事実もあった。
 釘のような細長い弾丸は強風時や陽炎を抜けるときには舞ったり流れたり或いは横玉になることもあったが、丸薬のような或いはどんぐりのような弾丸であっても基本的には横風の影響は避けられないもので、長距離射撃狙撃の名手にとってはそこは織り込み済みだった。
 むしろ遠目から弾道や弾体の姿勢が折れたり曲がったりということで限界がはっきり見える長い弾丸が、彼ら特技兵の試射に都合が良かった。
 そういう風に前線の職人玄人と称される人々が立場や意味が違う形で機関小銃と単発式の後装小銃とをそれぞれ残すべきだと主張したことも機関小銃導入の縮小案には大きく影響している。
 銃弾と装薬量の関係を考えると機関小銃弾と機関銃弾の中間に位置する銃弾であったから、現場の射手の意見はそれなりに当然のものでもあった。
 さらに前線の戦場と関係ない人々からは戦失を考慮してもすでに十八万丁余が流通している小銃に、銃弾が供給され始めた今になって何の不満があるのか、という問もあった。
 三十シリカ後装小銃は一丁四千タレル前後で共和国全土各地の複数の鉄砲工房が共和国全土で年間合計一万数千丁を生産するようになっていたから、デカート或いは軍都経由の輜重管理の負担も小さくなる。
 年間千丁の小銃を作る工房は約百人の職人とそれに倍する徒弟と更に倍する取引先を抱えていたから、機械化の進んでいない地域産業の興廃の問題でもあった。
 計画予算の手頃さという意味では機関小銃の導入は五年で停止して、その後は旧来の単発銃で十分だろうという意見もあった。
 戦争を顧みれば現状の兵員体制が帝国軍の戦力に比してやや小さいということで、兵員増勢軍備増強の必然はあるとして後備を含めても百万は要らないだろうという見積もりもあった。
 軍令本部は当然に戦争研究を睨んだ装備再整備計画を立てていて、戦後計画の一環として人員拡張と機関小銃の配備と偵察用と人員物資輸送用の機関車整備を前提にする計画案の編制を参謀本部に求めていたが、大議会の質問に応じた軍政部からは機関小銃を使わない将来編制についての研究を求められていた。
 また兵站本部は人員馬匹の定数を増やさないままの装備再編をおこなった場合の輸送予算案について研究を求められてもいた。
 基本的に研究施設としての機能を求められる参謀本部は作戦課ごとに幾つかの要素研究を求められる事もあったが、機関小銃に関しては様々な事由で様々な人々が同時に様々な形で希望を求めたことで精神分裂的な研究が乱立していた。
 機関小銃の登場は明確な転換点と意識されていたが、その圧倒的な威力の前に穏当な将来像を描くことが難しくなっていた。


 将来の話題とは全く別に共和国軍の予算確立に対応する納入の実績として初夏の段階で通算十万丁目の機関小銃が一億発目の銃弾とともに納入された。これはマジンの計画の上値にかなり近い数字で、原料と人員の確保がほぼ最大限満たされたことと、軍の納品受領拠点がデカートであることが大きく作用していた。
 軍の内部には軍都受領検品を強力に主張要求する一派も小さくはなかったが、仮にたとえデカート受領でひとつき前方展開が遅れたとしても軍都受領にこだわり受領数が半数になるよりは遥かにマシだ。とする勢力が圧した。
 納入輸送体制の見直しをおこなうべし、という改善勧告が公式に軍からローゼンヘン工業に送られ、改善見積もりの返答が求められた。三年次内という回答について関係者の受け取り方は様々だったが、そこについてとやかく言うほどに直接内容に触れた回答書というわけではなかった。
 正味のところ軍都周辺での馬匹の供給が回復するのは来年春以降と見られていて、家畜市場は破綻の一歩手前の混乱という盛況に湧いていたから、常識的な組織拡張の手法でそれよりも短い期間を求めることは軍兵站と衝突することを意味してもいた。
 軍都納入への拘りまたはデカート受領を忌避する理由の多くは新しく拡張がおこなわれ始めたばかりのデカート州駐在共和国軍連絡室の管理能力に対する疑いにも起因していた。
 デカートの軍連絡室のいささか不名誉な実態は昨年春の諮問会で問題になり、昨年秋そして今年の春と段階的に整備が推められた経緯は兵站関係者の多くの記憶に新しく残っていた。
 他にもそれ以前に用地利用がおこなわれていた土地に兵站部デカート駐屯地が設定されたことでローゼンヘン工業から苦情が寄せられていた。愛国者の善意を無制限に考えがちな軍人たちは裏切り行為と罵り、ローゼンヘン工業に疑いの目を向けたが、軍が使っている用地は街道と鉄道の分かれ道として駅を準備する予定の土地だったから、完全に故ない苦情というわけでもなかった。
 デカート市の土地利用は水の便の良い所ではそれなりの密度に達していて、マジンが提供していた土地は半リーグという単位で自由に開発ができる市の土地の北側の一角としては街道に面した好立地だった。
 しかし軍としてもこの一年で簡単に手放せない土地になっていた。
 デカート駐屯地は既に実績として二千程度の大小野戦行李を一万ほどの馬匹とともに送り出し、九千五百丁の機関小銃と一千万発の小銃弾、千二百万発の三十シリカ小銃向けの銃身清掃具、三百丁の機関銃と百五十万発の機関銃弾といったローゼンヘン工業の製品の他に大砲糧秣被服軍装や熱圧縮機関で需要が明らかになってきた燃料といったものをその荷としていた。
 まっとうな意味では軍令による予算編成を待たなかった軍需品であるが、もちろんその物品の持つ意味と価値について共和国軍の中で理解が及ばない者はいなかった。
 数次に渡りマジンが軍都に呼び出され或いは出向いての交渉の結果、兵站本部としては機関小銃調達について十年計画案の推進を強く希望する、という方針が出されたが、兵站本部には同時に各所から様々な政治圧力がかかっていて予断は許さない状態になっていた。
 春に発覚した小銃調達関連の疑獄事件と相まって、編制案を含んだ共和国軍の軍備計画は単純な動きになるとは思えなかった。
 共和国軍総軍司令部は帝国との戦争に向けた兵站の整備に向けて確固たる努力を始めた。
 巨大組織につきものの政治的に複雑な思惑が交錯するとはいえ、ローゼンヘン工業が果たした軍兵站への大きな機能と貢献は全く無視できるものでもなかった。
 ローゼンヘン工業の機関小銃の工房稼働日の日産量約五百丁は大きいと称される大方の小銃工房のひとつきの生産量よりも多い。平均量にして月三百丁としてもよほどの大きな工房と言えた。月に一万を欠けているというのはマジンにとっては全く残念なことだったが、それ以上の生産余力も今のところはなかった。
 行程の整理と自動化が進んだ部品製造の工作機械はもう少しで手入れと点検以外に人の手が不要なところまで進んでいた。一方で共和国世界の多くの冶金設備の動力は水力風力かせいぜいが畜獣によるもので、大方の作業は人力を主にしていた。
 ようやくこの半年ほどでデカート市内の幾つかの工房では機械力といえるものを示せる動力機関が稼働を始めたが、手探りの中では問題も多く来年年明けまでにはなんとか使えるように、というところだった。
 ローゼンヘン館は遠隔地というよりも全くの辺境僻地にあったが、連結的な事業展開を展望できることから余裕のある、悪く言えば大雑把な人員登用計画とその場に合わせた人材運用が可能になっていた。結果として人材の募集というデメリットは小さく土地利用の自由度が大きなメリットになっていた。
 三千人ほどの人口と二千人弱の工員を鉄道沿線上で配置運用することで人員機材物資についてはほぼ一日で手配配置、電話線の仮設で状況の報告確認だけならば即時対応ができることが大きな力になっていた。
 機関小銃の製造組み立ては工員が目隠しをして組み立てられない部品は不良、というレベルまで部品の整理と精度が上がっていた。
 一人前の工員ともなれば、一人で日に千丁の小銃を組み立てられても当たり前、という言い方もできるほどであったが、無論それは一種の宴会芸の類であって、しかしつまりそうしなければならないような異常事態非常事態がこれまでに幾度か起こったということでもある。
 工場が休みの間も無人のまま稼働してしまっていたり、納品計画の漏れや修正が突然起こったり急に人員が欠勤したりというような、事故というかミスが重なって起こった場合ということだが、業績が右肩上がりで物が小さい小銃部門では問題にはなっていない。


 オゥロゥがときに船底をかするほどに稼働を始めると、小銃の量産が軌道に乗り、線路用の資材の生産にやや余裕ができてきたところで、機関車の注文数に対応するために統合的な生産工房の建設を行い始めた。
 小銃の部品の生産がそのまま大規模化され、更に統合された機関車工房は全てを点検して巡るとマジンでさえ一日では回りきれない規模になったが、二百人ほどが配置につくと一日三十台あまりの車輌を望みの仕様で望みの色に塗装して乗り出せるような形に仕上げられるようなものになっているはずだった。
 その工房が全力で動き始めると毎日百グレノル以上の石炭や鉄鉱石やその他の資材を消費するはずで、つまるところオゥロゥが本格運行され始めたいまでさえ、ちょっと待って考えればわかる余計なほどに大きすぎる計画だったが、早ければ来春、遅くても夏のうちには繋がるはずのフラムとの直接のやりとりを念頭に置いた計画だった。
 桃の実が実り色づく頃、あらかたの工事を地元の大工に仕上げを譲る形で鉄道工事に戻ってきた一群がヴィンゼの町中をかすめ私有地を避けるようにして屠殺場まで堰堤を伸ばし線路を作り始めた。
 作れば作ったで、ヴィンゼの人間を雇えだのああでもないこうでもないと、村長のセゼンヌは文句を言ったが、文句をいうのが仕事の人間の言葉を額面通りに受け止めるのがバカバカしくなっていた。
 夏のうちに単線が屠殺場の一リーグ手前まで伸び、新しい屠殺場の用地に土木機械が運び込まれると一月もたたないうちに用地が整地され線路が伸び、仮の駅舎が完成するとほとんど同時に屋舎が出来上がり、秋も寒くなる前には稼働する目処が建っていた。
 ヴィンゼで二軒目の冷凍冷蔵設備付きの建物だった。
 町中に流れている支流脇の施設で獣医師のカーンズペガスピーが廃棄される家畜の病気を見極めて、肉にしたり石灰で焼いて処分したりしている。
 肉の卸は水飲みも同然のヴィンゼの農民が獣医をどうにか食わせるためのせめてもの収入だった。
 腸詰めや塩漬け或いは手間をかけて燻製など保存のきく形の肉製品も作ってはいたが、臨時の手伝いばかりでは人手が足りず肉をダメにすることも多かった。
 狼虎庵が立ち上がった頃から氷を買ってくれていたお得意様をどうにかテコ入れするべく、事業に組み込む提案をしてみたところ、ペガスピー獣医があっさりと乗ってくれた。
 新しくできた冷凍庫は上等新鮮な肉を濃い塩水で一気に凍らせて、その外側を一段薄い生理食塩水を使って外側を固めると五年や十年凍らせておいてもおいしく食べられる。そう云う食肉保管庫だった。
 無論そのためには冷凍庫の動作が止まらないことが前提で二部屋三系統の冷凍設備が精肉用として準備されていた。
 毎日解体し肉を取れるほどの家畜はヴィンゼにはおらず、ソイルの畜産家からも仕入れてきた家畜を川から鉄道を使って解体精肉し卸すことで、鉄道とつながった大きさに見合った働きを始めていた。
 これまでの河原に通じた平らなところで家畜の首をはねる屠殺場とは違って、製材所と療院を合わせたような奇妙に掃除しやすい部屋の連なりで、部屋を渡るごとに作業が変わり、家畜が次第に肉に変わってゆく。
 そう云う施設で一気に日産業績を三十倍に拡大することになった。
 屠殺所というよりは精肉所というべきその施設はペガスピー獣医の片手間ではおこなえなくなり、十人ばかりのヴィンゼの町民と十人ばかりの学志館の新卒と二十人ばかりのゲリエ村の人間を使って回転を始め、更に同じくらいの人数で缶詰工場を開業させた。
 缶詰工場の製品の納入先はもちろんローゼンヘン工業で雇われている人員への給食を大きく意識している。氷を運べる貨物車は以前からあるが、工事の現場で生肉を調理することは手間が掛かり過ぎる。
 缶詰肉は塩漬け肉よりはよほど肉らしく風味もあるままに列車の中の作業員の飯盒に届いた。
 そして缶詰工場の脇には発電所と電話局ができた。
 市場に電話が敷かれると連日電話を鳴り止まなくさせる頻度で肉の注文が入った。
 偶々の家畜の事故や誰かのおすそ分けという形でなく、ときに一パウンに満たない僅かな量の新鮮な食肉が手に入るという状況は農家を営む家の多いヴィンゼにおいても驚くべきことだった。
 都市化工業化の全く進んでいないヴィンゼでは一般家庭の人数は概ね十人前後だったが、たとえば牛一頭を解体して腐らせないうちに食べきるということは五日ばかり牛肉ばかりが食卓に並ぶということで少々無理がある。
 肉の良い所を腐らせないうちに保存のきく形に加工するのも一人ではなかなかに大仕事で結局家族総出の作業になる。
 そういうわけでヴィンゼの肉の旬は農閑期ということになるが、ここしばらくは氷が出まわるようになり、わずかに事情が変わり、更に屠殺場が精肉事業を本格化させたことでいつでも肉が食べられるようになった。
 腕の良い料理人と人間も診れない訳ではない動物の医者とを兼ねた人物であるペガスピー氏は、金属容器を使った長期保存食と冷凍保存という発想になにか思うところがあったらしく「腸詰め肉の化学」という食品保存と衛生に関する論文を学志館で発表するに至った。
 電話局は基本的にヴィンゼ周辺の駅と缶詰工場を意識しているが、局間交換の中継の意味も当然にあり、電話局周辺十リーグ程をカバーしていた。


 電話は既に町役場には引かれていたが、更に保安官事務所と銀行と各商店と他に公務関係の個人宅にも引かれることになった。
 予算は初期費用五百タレルと月に五タレル。
 ヴィンゼの農民にとって安い金額というわけではなかったが、町まで足を運ばなくてもちょっとした話が出来る、という機械の話は電灯と同じくらいの衝撃を持った話題でヴィンゼでは電話は贅沢品とはみなされなかった。
 隣家まで道のり一リーグでつければ近いという過疎というにも余りある散らばり方をしていたヴィンゼにおいて隣人隣家との連絡は命綱とも意識されていて、マトモな馬二頭よりは安いならと、よほどの零細農家でも電話の敷設を望んだ。
 結局、家の数が百に満たないヴィンゼで八十七件の個人宅から町の取りまとめで電話敷設の注文が入ったことは驚きでもあった。
 予想外に多くの敷設希望にセゼンヌは心配そうだったが、保守の窓口を徹底してくれればとマジンが請け負ったことに安心した様子だった。
 すでにゲリエ村では千台の電話の交換接続が自動機械で行われている実績があり、理論的には地域局で一万台。拡張が想定されている二段上位局を介しておこなえば最大一兆台の電話機の相互接続が可能なはずだった。
 現状の実装の限界を考えても一つの交換局で約三千台。約二百数十億の接続は問題がないはずで、地上の必要なところに適度に基地を配置すれば世界の人々に行き渡って余りあるくらいの設計上の能力がある。
 鉄道工事の飯場と村の間では夜になると殆ど引っ切り無しに電話による会話がおこなわれており、隔地での家族の会話というものが作業員の士気には大きく貢献していたが、一方で交換接続の電力の消費というものは意外とバカにならない様子でもあった。
 初期においては直結式の糸電話と変わらない形式だったので当然だったのだが、途中で局間線を周波数変調式に変えると電話局から遠いだの近いだのという声の大きさの問題とともに送信電力の問題は大きく減った。
 残ったのは交換接続機器の消費電力の問題だったが、こればかりは電磁リレー式のスイッチングパネルの限界を何かで超えないと難しそうだった。
 製氷庫と大して変わらない液冷装置で交換器は冷却されていたが、それでも交換器室はじわじわと汗をかく温度をこもらせていた。
 自動交換器本体は基本的に二十四桁の演算が可能な階差機関と構造的に大差ない。
 基地局間通信はある番号からある番号に発信されると特定周波数に変調されて別の通話とは絶対に重ならないような形で送信されていた。
 基地局間の通信は電灯線と大して変わらない電圧の交流二相の電線でおこなわれていたから、通信傍受の様々な悪意ある試みに晒されたが長年難攻不落を誇っていた。交換器本体のオートマトンのアルゴリズムは後に公開されたがマトリクス自体は公開されなかったために回線上での傍受は極めて難しかった。
 なんのためにこれほどの技術を注ぎ込んだかと問われれば、単純に面白半分、というしかないが、百年使うつもりであれば可能な限り大きく思いつき全てを吟味し取りこぼしなく盛り込むということは絶対必須だったし、それが出来るだけの実力もあった。


 鉄道駅と電話局と食品工場と精肉場という電力消費のおこぼれの形でヴィンゼの町に電灯が次第に敷かれ始め夜の風景を変え始めた。
 月に三タレルという電気料金が安いか高いかは微妙なところだったが、月に幾度かは酒場で起こっていたボヤ騒ぎ、そしてあちこちの農家で起こっていた火災はだいぶ減っていた。
 役場や保安官事務所には夜も明かりが灯るようになり、不夜城と云うにはちょっとばかり控えめだが、夜道を照らす街灯も駅の周りや商店の看板などを十分に読めるように照らす、というのはランタンの明かりにとってはひどく贅沢なものだった。
 夜の灯りといえば月と星とせいぜいが雪というヴィンゼに点った電灯の灯りは本当に明るいものだった。
 夜間の電話線補修のために街灯が電柱に用意されるようになると年に何回かは必ず起こっていた夜道を外れての事故が激減したし、灯りを頼っての夜の往来が随分と増え宿屋酒場を中心とした商店は大いに潤った。
 とはいえ、たかだか三千をようやく超えたばかりのヴィンゼでどれほどのことがあるかという事はあったが、ヴィンゼの町に近いところに住んでいた家々が次々とヴィンゼの町民であることを希望申請してきたことは、電灯電話が町役場経由で普及したことの大きな副作用だった。
 程なく精肉事業は安定して二両の一グレノル半冷凍冷蔵車と三両の家畜搬送車と自家用車を購入運用できるくらいの利益をペガスピー社長にもたらした。
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