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「またイグナシオは婚約が駄目になったのか」
「父上、もう兄上に好き放題させるのは、止めた方がいいですよ」
溜め息をつく公爵に諫言するのはレアンドロだ。
「いくら公爵家と言っても、悪評が立ちすぎです。二人もの侯爵令嬢と婚約を解消して、次が見つかると思いますか?」
「ファティマ嬢の件は、お前が原因だろう?」
「それだって兄上が、エルネスタに手を出したせいですよ」
あああ、と公爵は頭を抱える。
最近は胃も痛いのか、常備している薬に手を伸ばした。
それを見たレアンドロは、ここぞと提案する。
「いっそのこと兄上じゃなく、僕を後継者にしませんか? 兄上にまともな婚約者が見つかるまでの、期間限定で構いませんから」
「そうだな……しばらくイグナシオは大人しくさせるか」
こうしてレアンドロは、イグナシオから次期公爵の座を奪った。
そしてイグナシオは父親の監視下に置かれ、外出すらも禁じられたのだった。
「ファティマ、これで安心していい。兄上はもう牙を抜かれた獣だ」
「でも……新たな婚約者が見つかれば、復帰するのでしょう?」
「僕がさせない。すべて握りつぶすよ」
奇妙な縁から生まれたファティマとレアンドロの関係だが、このところ上手くいっている。
それどころか、全身全霊でファティマを護ろうとするレアンドロに、ファティマは淡い恋慕すら抱き始めていた。
(だけど、レアンドロさまの中には、今もエルネスタさまがいる。私の入り込む隙間なんて、どこにもないって分かっているわ)
それでもいいから、とファティマはレアンドロを想った。
しかしレアンドロもまた、不可解な自分の感情に戸惑っていた。
(僕が好きなのはエルネスタだ。だが、最近はファティマのことばかり考えている。これではエルネスタにとても顔向けができない)
悩める二人の距離は、なかなか近づかなかった。
◇◆◇◆
そんな中、転機が訪れる。
「……そろそろ孫の顔が見たいと言われた」
久しぶりに公爵家本邸に呼び出されたレアンドロが帰ってくるなり、そう呟いた。
実は二人の間には、最初の一回しか関係がない。
レアンドロはファティマを傷つけた行為を猛省し、それからは一切手出しをしなかったからだ。
「考えてみれば、兄上から次期公爵の座を奪った時点で、次の後継者を残すのは僕だと、気がつかなくてはならなかった。僕の失態だ」
イグナシオから乱暴を働かれそうになったファティマを護るために、レアンドロがイグナシオの失脚を画策した。
おかげで、あれからファティマは安全に暮らせている。
「……跡継ぎについては、僕に考えがある。ファティマは心配しないで」
一体どうするのか。
嫌な予感がしたファティマは、口を濁らせるレアンドロを問い詰めた。
それに対しての回答は――。
「ファティマは知らないかもしれないけど、そういうのを仕事にしている女性がいるんだ。なるべくファティマに似た容姿の人を選んで、愛人契約をしたら、子を授かるまで囲おうと思っている」
ファティマは反対した。
「そんなことをしなくても、私が生みます」
「それはできない。もう僕は、ファティマに手を出さないと誓ったんだ」
「でも、レアンドロさまの妻は私です」
「ファティマの妻の地位は揺るがないよ。あくまでも、子を生んでもらうためだけの愛人だ」
話はしばらく平行線を辿った。
レアンドロを密かに想うファティマにとって、レアンドロが他の女性を抱くなんて想像もしたくない。
たとえそれが、後継者を残すと言う使命のためであったとしても。
(ああ、カッとなって魔が差すというのは、こういうことなのね……)
ついに愛人を見つけようと動き出したレアンドロに、ファティマはこっそり媚薬を盛った。
前後不覚になったレアンドロを、ファティマは寝台へ押し倒す。
そして二人は、二回目の関係を持ったのだった。
◇◆◇◆
「申し訳なかった。僕はもっと、理性的でいなくてはならなかったのに」
翌朝ファティマは、レアンドロから謝られた。
「またファティマを、怖い目に合わせてしまったのではないか?」
「レアンドロさま、私の話を聞いてください」
埒が明かないと判断したファティマは、己の隠し通すつもりだった気持ちを打ち明ける。
「レアンドロさまへの嫌悪感は、ずっと前に無くなっています。むしろ、私の中でレアンドロさまは……」
「僕は……?」
「とにかく、私をもっと妻として扱って欲しいのです。レアンドロさまがエルネスタさまを、今もお慕いしているのは分かっています。だから気持ちがこもらなくてもいいので――」
レアンドロは息を飲んだ。
顔を赤らめて話すファティマの姿は、愛を告白しているも同然だった。
ファティマへの想いを拗らせていたのは、レアンドロだってそうだ。
レアンドロに無理やり乱暴され、そのせいでイグナシオに捨てられた憐れな犠牲者のファティマ。
それにも関わらず、エルネスタを失ったレアンドロの哀しみに共感し、あまつさえ理不尽な行為を許してくれた。
その強さと優しさに、凛とした姿に、レアンドロは心をときめかせていたのだから。
「ファティマ、僕の妻は君だけだよ。始まりは最低だったけど、僕はこの関係を大事にしたいと思っている」
「レアンドロさま……」
「僕の中で、ファティマが一番大切だ。護り切れなかったエルネスタには、いつか謝りに行くよ」
それまでは夫婦でいよう、と締めくくられた。
ファティマとレアンドロは、それから本当の夫婦として生活を始める。
お互いを慈しみ、愛し合った。
その結果、思ったよりも多くの子宝に恵まれ、公爵家は繁栄する。
レアンドロがついにイグナシオへ爵位を譲ることはなかった。
◇◆◇◆
そして――レアンドロの旅立ちの日がやってくる。
「ファティマ、先に逝く。あの世でエルネスタに、君との出会いからこれまでのすべてを話すよ」
「レアンドロさま……」
「そして謝るよ。手紙で『私のことは忘れて』って言われたのに、できなかったって。そのせいで、無関係のファティマを傷つけてしまったって。エルネスタに叱られてくる」
ファティマは皺だらけのレアンドロの手を握る。
もう会話をするだけで、息が途切れ途切れになっているレアンドロ。
お別れはすぐそこまで来ていた。
「できたら君とのことを、エルネスタに許してもらいたい」
レアンドロはそう言い残し、この世を去った。
25歳でファティマと結ばれ、70歳で倒れるまでの45年間を、立派な夫として過ごして。
レアンドロがエルネスタと恋人同士だった5年間よりも、長い期間をファティマは妻として暮らした。
「だから、私は満足しているわ。レアンドロさまに、たくさん愛してもらえたから。どうかあの世では、エルネスタさまを幸せにしてあげて」
少しでも長く、レアンドロとエルネスタが二人きりで過ごせるように、ファティマは長生きをした。
そしてレアンドロよりも12年ほど遅れて、ファティマは病に倒れ床に臥す。
幸せなことに、たくさんの子どもと孫とひ孫に囲まれ、惜しまれながら静かにこの世を去ろうとした――その時。
『迎えに来たよ、ファティマ』
出会ったときの若い姿で、レアンドロがファティマに手を伸ばす。
白く透き通ったレアンドロの隣には、見知らぬ少女がいた。
少女はファティマに頭を下げる。
『お礼を言いたくて、ついてきました。ありがとうございました。おかげで私の心の傷は、すっかり癒えました』
その言葉を聞いて、これはエルネスタだと分かる。
『本当ならば自死をした私は、もう生まれ変わることが出来ません。でも……立ち直った私に、特別にお許しが出たのです』
きらきらと光を放ちながら、輪郭がなくなっていくエルネスタ。
それを慈しみの目で見送るレアンドロ。
『さようなら、エルネスタ』
『お二人の来世に、幸多からんことを』
完全に消えてしまったエルネスタから、レアンドロの視線がファティマに戻る。
『行こう、ファティマ』
『良かったの? エルネスタさんに、ついて行かなくて?』
気づけばファティマもまた、透き通った姿になっていた。
おそらくこれは魂の姿なのだろう。
『レアンドロも一緒に行けば、同じ時期に生まれ変われるのではないの?』
もしかしたら、二人はやり直せるかもしれないのに。
『僕はファティマを待っていたんだ。これから生まれ変わるまでの静かな時間を、君と過ごしたいと思って』
『私と?』
『まだ伝わっていない? 僕はね、ファティマを愛しているんだよ』
ファティマは、レアンドロのいない死後の世界を、ひとりで過ごすと思っていた。
そうじゃないと分かって、嬉し涙がこぼれ落ちる。
レアンドロはすかさずそれを拭った。
『ファティマ、来世も君と夫婦になりたい。今度こそ、あんな出会いじゃなく』
『レアンドロさま、私も、またあなたの妻になりたい』
手を繋いだ二人の魂が天に昇っていく。
穏やかな春の青空へ、それは瞬きする間に消えていった。
「父上、もう兄上に好き放題させるのは、止めた方がいいですよ」
溜め息をつく公爵に諫言するのはレアンドロだ。
「いくら公爵家と言っても、悪評が立ちすぎです。二人もの侯爵令嬢と婚約を解消して、次が見つかると思いますか?」
「ファティマ嬢の件は、お前が原因だろう?」
「それだって兄上が、エルネスタに手を出したせいですよ」
あああ、と公爵は頭を抱える。
最近は胃も痛いのか、常備している薬に手を伸ばした。
それを見たレアンドロは、ここぞと提案する。
「いっそのこと兄上じゃなく、僕を後継者にしませんか? 兄上にまともな婚約者が見つかるまでの、期間限定で構いませんから」
「そうだな……しばらくイグナシオは大人しくさせるか」
こうしてレアンドロは、イグナシオから次期公爵の座を奪った。
そしてイグナシオは父親の監視下に置かれ、外出すらも禁じられたのだった。
「ファティマ、これで安心していい。兄上はもう牙を抜かれた獣だ」
「でも……新たな婚約者が見つかれば、復帰するのでしょう?」
「僕がさせない。すべて握りつぶすよ」
奇妙な縁から生まれたファティマとレアンドロの関係だが、このところ上手くいっている。
それどころか、全身全霊でファティマを護ろうとするレアンドロに、ファティマは淡い恋慕すら抱き始めていた。
(だけど、レアンドロさまの中には、今もエルネスタさまがいる。私の入り込む隙間なんて、どこにもないって分かっているわ)
それでもいいから、とファティマはレアンドロを想った。
しかしレアンドロもまた、不可解な自分の感情に戸惑っていた。
(僕が好きなのはエルネスタだ。だが、最近はファティマのことばかり考えている。これではエルネスタにとても顔向けができない)
悩める二人の距離は、なかなか近づかなかった。
◇◆◇◆
そんな中、転機が訪れる。
「……そろそろ孫の顔が見たいと言われた」
久しぶりに公爵家本邸に呼び出されたレアンドロが帰ってくるなり、そう呟いた。
実は二人の間には、最初の一回しか関係がない。
レアンドロはファティマを傷つけた行為を猛省し、それからは一切手出しをしなかったからだ。
「考えてみれば、兄上から次期公爵の座を奪った時点で、次の後継者を残すのは僕だと、気がつかなくてはならなかった。僕の失態だ」
イグナシオから乱暴を働かれそうになったファティマを護るために、レアンドロがイグナシオの失脚を画策した。
おかげで、あれからファティマは安全に暮らせている。
「……跡継ぎについては、僕に考えがある。ファティマは心配しないで」
一体どうするのか。
嫌な予感がしたファティマは、口を濁らせるレアンドロを問い詰めた。
それに対しての回答は――。
「ファティマは知らないかもしれないけど、そういうのを仕事にしている女性がいるんだ。なるべくファティマに似た容姿の人を選んで、愛人契約をしたら、子を授かるまで囲おうと思っている」
ファティマは反対した。
「そんなことをしなくても、私が生みます」
「それはできない。もう僕は、ファティマに手を出さないと誓ったんだ」
「でも、レアンドロさまの妻は私です」
「ファティマの妻の地位は揺るがないよ。あくまでも、子を生んでもらうためだけの愛人だ」
話はしばらく平行線を辿った。
レアンドロを密かに想うファティマにとって、レアンドロが他の女性を抱くなんて想像もしたくない。
たとえそれが、後継者を残すと言う使命のためであったとしても。
(ああ、カッとなって魔が差すというのは、こういうことなのね……)
ついに愛人を見つけようと動き出したレアンドロに、ファティマはこっそり媚薬を盛った。
前後不覚になったレアンドロを、ファティマは寝台へ押し倒す。
そして二人は、二回目の関係を持ったのだった。
◇◆◇◆
「申し訳なかった。僕はもっと、理性的でいなくてはならなかったのに」
翌朝ファティマは、レアンドロから謝られた。
「またファティマを、怖い目に合わせてしまったのではないか?」
「レアンドロさま、私の話を聞いてください」
埒が明かないと判断したファティマは、己の隠し通すつもりだった気持ちを打ち明ける。
「レアンドロさまへの嫌悪感は、ずっと前に無くなっています。むしろ、私の中でレアンドロさまは……」
「僕は……?」
「とにかく、私をもっと妻として扱って欲しいのです。レアンドロさまがエルネスタさまを、今もお慕いしているのは分かっています。だから気持ちがこもらなくてもいいので――」
レアンドロは息を飲んだ。
顔を赤らめて話すファティマの姿は、愛を告白しているも同然だった。
ファティマへの想いを拗らせていたのは、レアンドロだってそうだ。
レアンドロに無理やり乱暴され、そのせいでイグナシオに捨てられた憐れな犠牲者のファティマ。
それにも関わらず、エルネスタを失ったレアンドロの哀しみに共感し、あまつさえ理不尽な行為を許してくれた。
その強さと優しさに、凛とした姿に、レアンドロは心をときめかせていたのだから。
「ファティマ、僕の妻は君だけだよ。始まりは最低だったけど、僕はこの関係を大事にしたいと思っている」
「レアンドロさま……」
「僕の中で、ファティマが一番大切だ。護り切れなかったエルネスタには、いつか謝りに行くよ」
それまでは夫婦でいよう、と締めくくられた。
ファティマとレアンドロは、それから本当の夫婦として生活を始める。
お互いを慈しみ、愛し合った。
その結果、思ったよりも多くの子宝に恵まれ、公爵家は繁栄する。
レアンドロがついにイグナシオへ爵位を譲ることはなかった。
◇◆◇◆
そして――レアンドロの旅立ちの日がやってくる。
「ファティマ、先に逝く。あの世でエルネスタに、君との出会いからこれまでのすべてを話すよ」
「レアンドロさま……」
「そして謝るよ。手紙で『私のことは忘れて』って言われたのに、できなかったって。そのせいで、無関係のファティマを傷つけてしまったって。エルネスタに叱られてくる」
ファティマは皺だらけのレアンドロの手を握る。
もう会話をするだけで、息が途切れ途切れになっているレアンドロ。
お別れはすぐそこまで来ていた。
「できたら君とのことを、エルネスタに許してもらいたい」
レアンドロはそう言い残し、この世を去った。
25歳でファティマと結ばれ、70歳で倒れるまでの45年間を、立派な夫として過ごして。
レアンドロがエルネスタと恋人同士だった5年間よりも、長い期間をファティマは妻として暮らした。
「だから、私は満足しているわ。レアンドロさまに、たくさん愛してもらえたから。どうかあの世では、エルネスタさまを幸せにしてあげて」
少しでも長く、レアンドロとエルネスタが二人きりで過ごせるように、ファティマは長生きをした。
そしてレアンドロよりも12年ほど遅れて、ファティマは病に倒れ床に臥す。
幸せなことに、たくさんの子どもと孫とひ孫に囲まれ、惜しまれながら静かにこの世を去ろうとした――その時。
『迎えに来たよ、ファティマ』
出会ったときの若い姿で、レアンドロがファティマに手を伸ばす。
白く透き通ったレアンドロの隣には、見知らぬ少女がいた。
少女はファティマに頭を下げる。
『お礼を言いたくて、ついてきました。ありがとうございました。おかげで私の心の傷は、すっかり癒えました』
その言葉を聞いて、これはエルネスタだと分かる。
『本当ならば自死をした私は、もう生まれ変わることが出来ません。でも……立ち直った私に、特別にお許しが出たのです』
きらきらと光を放ちながら、輪郭がなくなっていくエルネスタ。
それを慈しみの目で見送るレアンドロ。
『さようなら、エルネスタ』
『お二人の来世に、幸多からんことを』
完全に消えてしまったエルネスタから、レアンドロの視線がファティマに戻る。
『行こう、ファティマ』
『良かったの? エルネスタさんに、ついて行かなくて?』
気づけばファティマもまた、透き通った姿になっていた。
おそらくこれは魂の姿なのだろう。
『レアンドロも一緒に行けば、同じ時期に生まれ変われるのではないの?』
もしかしたら、二人はやり直せるかもしれないのに。
『僕はファティマを待っていたんだ。これから生まれ変わるまでの静かな時間を、君と過ごしたいと思って』
『私と?』
『まだ伝わっていない? 僕はね、ファティマを愛しているんだよ』
ファティマは、レアンドロのいない死後の世界を、ひとりで過ごすと思っていた。
そうじゃないと分かって、嬉し涙がこぼれ落ちる。
レアンドロはすかさずそれを拭った。
『ファティマ、来世も君と夫婦になりたい。今度こそ、あんな出会いじゃなく』
『レアンドロさま、私も、またあなたの妻になりたい』
手を繋いだ二人の魂が天に昇っていく。
穏やかな春の青空へ、それは瞬きする間に消えていった。
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