ドリンクカフェと僕

桃青

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9.

始めよう

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 僕らはしばらくそうしていた。そして抵抗もせず僕に身を預けるあかりを、彼女を傷つける全てのものから守りたいと、自然に思った。そして逆にあかりも、目に見えない力でそっと僕を支えてくれている気がした。彼女が人間かどうかなんて問題は、どうでもいいことじゃないかと僕は思った。それから僕とあかりはゆっくりと体を離してから互いに見つめ合い、彼女の冷たい手をそっと握った僕は静かに言った。
「ドリンクcafeに戻ろう。」
「うん。」
 そして全てを分かり合った老夫婦のような親密さを漂わせながら、元来た道を引き返していったのだった。

 店内に入ると、僕は元いた窓側の席ではなく、誰も座っていないカウンターの席に移動して腰を下ろした。あかりもそんな僕の後に素直についてきて、僕の隣に座った。そうしてしばらくぼうっとしていると、太一が部屋の奥から出てきて僕らの存在に気付き、
「おうっ。」
 と言ったので、僕はすっと片手を上げて挨拶した。
「確か……、ホットジンジャーミルクティーだったよな?」
「うん。」
「待ってな、今すぐ作るから。何かご注文はありますか?」
 太一はあかりにそう声をかけると、あかりが静かに、
「ホットコーヒー。」
 と言ったので、太一は笑みを浮かべて、
「いつものやつですね。すぐお持ちします。」
 と言ってからトレーを片手に、そそくさと客席に消えていった。あかりはその後ろ姿を目で追ってから、僕の方に振り返って訊ねた。
「ね、光。太一さんってどんなひと?」
 僕は少し考え込んでから、彼女の質問に丁寧に答えた。
「そうだな……。初めはとっつきにくいところがあるけれど、〈いい人〉なんだと思う、基本的に。仮に悪人になろうとしても、そのなり方が分からない、そんな奴だよ。でも性善説が当たり前みたいに思っているところがあるから、根も葉もない他人の悪意にぶつかったりすると、どうしたらいいのか分からなくなっているな、あいつの場合は。」
「無視してしまえば、それでよいのではないの?」
「それができないんだよ、……いや、無視はできるかもしれない。でも今度は無視した自分を責めたりしている。」
「優しい人。」
「まあ、そうだね。」
 そう言って僕らが微笑みあっていると、どこからか、
「楽しそうだね。」
 と声がするので、前を向くと、太一がトレーを片手に僕とあかりを楽しげに見守っていた。僕は太一から渡された飲み物を受け取りながら、
「実はお前について話していたんだよ。」
 と言うと、太一は、
「へえ。」
 と言って、あかりにもコーヒーを渡した。僕はお茶に口をつけ、少しためらってから、心を決めて話し出した。
「太一、こちらの女性はあかりさんと言う。」
「あかりさん、ね。初めまして。」
「そして今日から僕は彼女と付き合うことになった。」
 すると太一にしてはめずらしく、あんぐりと口を開け、感情をあらわにして驚いていた。そこにすかさずあかりが口を挟んだ。
「私は、光さんの彼女になれてとてもうれしいです。太一さんとも仲良くできたらいいな、と思っています。」
「いや、その……、こちらこそよろしく。」
 太一は目を丸くしたまんまでそう言うと、ぼりぼりと頭を掻いてから、あかりが差し出した手をそっと握った。
「じゃあ、カップル成立ということで……、俺もなんといったらいいのか、よく分からないんだが……。」
「気にするな、太一。実をいうと僕も、この現状をまだうまく呑み込めていない。」
「そうなのか。あっと……、光、俺、奈々と二人で出かけてきたよ、水族館まで。」
「……うん。どうだった?」
「楽しかった。なんか、自分が落ち込んでいるときに、心を許して話せる女性がいるって、素晴らしいことだと思った。問題に対する答えが出なくても、それだけで癒される。」
 優しい笑顔でそう語る太一を見て、僕は奈々の力の偉大さを知る思いがした。太一が僕に悩みごとを話していたときは、決してこんな柔和な表情を浮かべたりしなかった。太一と奈々がどんどん僕から離れていく、僕の力ではどうにもならない、手の届かない場所へと――。そんな幻想がぽかりと頭の中で浮かび上がってくる。太一はさらに話し続けた。
「でもな。」
「うん?」
「もし俺が……、奈々と付き合うとしたら、俺なんかでいいんだろうか? と考えてしまって。」
「そんなことを心配しているの。」
「ウン。俺はたぶん思春期ぐらいのころからずっと、自分のことを女の子と付き合う資格のない人間だと思っていた。まだ自分は一人前じゃないし、自分がきちんと確立されていない状態で彼女を作るのは、間違いだと思っている。」
「でも完成された人間など、どこにもいません。」
 あかりが非常によく通る声でいきなり発言したので、太一と僕はビクッとした。でも考えてみると彼女の意見は、至極もっともだと僕は思った。
「あかりさん、俺は自分に自信がないんだよ。」
「どうやらそのようですね。」
「俺は――。」
 そう言って先の言葉を飲み込んだ太一は、新しく入ってきた客の注文を取りに、僕らの元を離れていった。僕は生ぬるくなったお茶を見つめてから、ふとあかりを見ると、彼女はモナリザのように含みのある笑みを浮かべていた。そして静かに呟いた。
「面白いわね。」
「何が?」
「あなたと太一さんって、よく似ているわ。」
「そうかもしれないな。だからきっと友達になれたんだよ。」
「そしてとても、とても深いところで通じ合っている。本当に面白いわ。」
 そういうとあかりはいつもドリンクcafeでそうするように、僕の存在を忘れて一人の世界へと落ちていった。

 飲み物を飲み終え、支払いを済ませて太一に別れを告げると、僕とあかりは店を出た。あかりは私に会いたくなったらドリンクcafeに来てねと言い残し、町の雑踏の中へすっと姿を消していったのだった。ちょうど僕も一人になって考えたいと思っていたところだったから、あかりとは正反対の道をふらふらしながら、家を目指しつつしばらく歩くことにした。
(自分が確立していない状態で彼女を作るべきではない。でも完成された人間はどこにもいない。どちらの言葉も正しいと思うけれど、ベクトルの向いている方向がまるで違うんだよな。)
 ふと立ち止まり、僕の隣を走り抜けてゆく電車を眺めた。混み合う電車の中で人々は何を思い、どこへ向かおうとしているのだろう。街灯の明かりが頭上から降り注いで、空想の中で僕はスポットライトの当たった俳優になり、何を演じるべきか戸惑っている気がした。ずっとこの場所にとどまったまま戸惑い続けるのか、それとも――。
僕は独り言を言った。
「何かを始めるべきだな。」
 その時の僕は、始めた確かな答えを手にした実感が、フツフツと沸き起こるのを感じていた。
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