月誓歌

有須

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修道女、獣に齧られそうになる

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 何が起こっているのか理解できなかった。
 もとより、マローの背中に括りつけられたままなので視界が利かず、特に彼女が向いている方角がまったく見えない。
 ただ、練度の高い海賊たちが気を逸らせた瞬間、地面にうつぶせに倒れていたダンの姿が消えたのには気づいた。
 同時に、背後で「あっ、お前!」と声がして、振り返ったときにはその男の姿はなくなっていた。
 梯子が掛かっていた井戸のほうから、遠ざかる悲鳴のようなものが聞こえた。
 テトラと視線が合ったと同時に、遠くでボシャンと水音がする。
 軽く手を叩く彼のワンピースの胸元に、わずかながら赤い血の染みが広がっていた。立ち襟の喉元が切れていて、そこから伝ったもののようだった。
 太い血管を切ったような出血量ではないことにほっとしながらも、そうなっていた可能性もなくはなかったのだとゾッとした。
 無事を確かめたかったが、そう声を掛ける前にマローが動き出していた。
 墨色の男が再び切り付けてきたのだ。
 しかしその一刀は、素人のメイラの目にもわかるほどに、先ほどより随分と威力の低いものだった。
 的であるマローが避けたので、鋭く舌打ちされる。
「エゼルバード海軍がどうしてこの海域にいる?!」
「特におかしなことではないでしょう?」
 応えたのは、場違いに軽やかで嫋やかな、美しい女性のものだった。
「……きさま」
 冬とはいえ緯度が低いこの島では、吹き付ける風も柔らかい。明け方の少し冷えた風が海から上がってきて、周囲の枯れ枝を騒めかせる。
 さらりと風にさらわれる銀糸の髪を、もつれないよう抑える手は優美で。
 座り込んだまま小首を傾げる仕草は、作り物めいて美しかった。
「観光に来た貴族の護衛ではないでしょうか」
 そこで素直に『そうなのか』とは思えなかった。メイラも、海賊王子と呼ばれるこの男もおそらく。
「ああ、黒煙が上がっておりますねぇ」
 いや、ルシエラ。ここは楽しそうに笑うところじゃないから!
 そういえばこういう奴だった……と、改めてぎゅっと胃が締め付けられるような気がした。胃薬はどこ。
「……ルシエラ」
 いつの間にか抜身の長剣を構えたダンが、メイラを守る位置に立っていた。ざっとみたところ出血などはしていないようだが、殴られたのか顔が腫れている。
「もういいだろう。早く立て」
「まあ! 淑女に対してそのような乱暴な口を」
 口元を手で隠し、ヨヨと泣き伏せる仕草は、見るからにわざとらしく芝居がかったものだった。
「移動するぞ」
 メイラなど、そうとわかっていても気を惹かれてしまうのに、ダンは彼女に目を向けもしなかった。
 敵に十分な注意を払いながら、井戸縁に落ちていた抜身の剣の柄を蹴る。
 足の甲で蹴り上げたその剣は、くるりと回って丁度ルシエラの手が届く場所に落ちた。
 メイラは覚えている。彼女がもっと長い剣を振り回し、巨大な竜めがけて躊躇なく突進していった様を。襲撃者を排除するために振るった、卓越した剣技を。
 しかし、武骨な剣を目前にしてコテリと首を傾けたその顔は、どこからどう見ても深窓の姫君だった。本性を知るメイラでも、彼女がカトラリー以上に重いものを持ったことはないと信じそうになる。
 少なくとも、メイラ以外の者に油断はなかったと断言できる。
 誰もこの状況を楽観視していなかったし、むしろ警戒を強めていた。
 それでも、墨色の男の行動を止めることはできなかった。
 声に出しての指示などはなかった。
 しかし、どういう手段を用いてか、浮足立っていた海賊たちが再び統率を取り戻し、彼らが真っ先にしたのはダンたちとマローとの分断だった。
 遠い海上で何が起こっていようとも、この場にいる人数は圧倒的に海賊たちの方が多く、量で押されればお荷物を抱えたダンたちの苦戦は必須だった。
 切り付けられたダンが、その相手に向き合っている隙に、墨色の男がしなやかな長身をマローとの間にねじ込んできた。
 井戸の側ではテトラが複数相手に苦戦しており、マローはどちらに行くべきか判断に迷ったのだと思う。
 たった一秒に満たないその逡巡が、流れを変えた。
 メイラの目に、斜め後方からの鋼の太刀筋が見えたのは一瞬。
「マロー!!」
 黙っていれば、マローの反射神経がきちんと仕事をしたはずだった。
 しかしメイラがつい上げた悲鳴が、彼女の足を鈍らせた。
 なぎ払う切っ先がメイラに触れる寸前、ぐっと身体が後方に引っ張られた。マローが身体の向きを変えたのだ。
「……っ!」
 そしてどうなったかと言うと、その剣をかわすために、彼女は足場の悪いその場所で身をよじって後方に飛んだ。
 着地できる場所はなかった。
 落ちる!!
 足元が消失する感覚に身が竦んだ。
 マローは迷わず剣を手放した。落下を食い止めるために、どこかにつかまろうとする。
 メイラは目を閉じることなく、すべてを見ていた。
 彼女の手が、岩肌につかまろうとしてその爪が剥がれる様を。指があらぬ方向に歪み、苦痛の声が零れる様を。
 やがて頼りない木一本にぶら下がるようにして、落下は止まった。
 しかし、そこは三階建ての庁舎の屋上よりもなお高い、切り立った崖の只中で。
 下を見れば、ゴツゴツした岩場の浜。上を見ても、張り出した岩越しに明け方の空が見えるだけだ。つかまって登れそうな感じには到底見えない。
「マ、マロー」
 こんなふうに震える声で呼ぶべきではないと分かっている。
 しかし怖いのだ。この高さが、今にも折れそうな木が、マローの剥がれた爪と、骨折したとわかる指が。
「……すぐに、ダンたちが助けてくれます。それまでご辛抱ください」
「指が」
「等級の低いポーションで何とかなる程度の怪我ですよ」
 今はそうかもしれない。しかし、メイラの体重を含めた重さを支えきれなくなれば、二人ともが落下しておそらくは死ぬ。
 メイラは必死になってどうすればいいのか考えた。
 メイラ一人がここから落ちれば、マローは生き延びられるだろうか。ふと過るそんな考えは、自身がどうしてもなさねばならぬ使命の前であっさりと却下される。
 死ぬわけにはいかない。
 ここまで来て、なにも出来ずに終わるわけにはいかない。
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