月誓歌

有須

文字の大きさ
上 下
197 / 207
修道女、獣に齧られそうになる

6

しおりを挟む
 ぎゅっと目を閉じ、深呼吸する。
 ただの小娘にすぎないメイラだが、今にも死ぬというその境界線に立てば腹もくくろうというものだ。
 傷ついた両手でぶら下がっているマローを揺らさないように、背負い紐の内側に納めていた腕を抜いた。
「っ、御方さま。動かないでください」
 マローの声が苦し気だ。痛むのだろう。重くて辛いのだろう。
「……御方さま!!」
「大丈夫よ、あそこにも木が」
 斜め下方、なんとか触れれそうな距離に、もう一本木が生えている。
 そしてよく見れば、その木の根元にほんのわずかだが岩の出っ張りがあって、人ひとりぶんであれば立てそうなのだ。
 マローがつかまっている木もそうだが、ほんの少しの岩と岩の隙間に根を張っており、つまり木が生えている部分は足場になり得る。
 抱っこ紐の結び目に手を伸ばすと、身をよじられた。
「手を離さないで!」と声を上げると、片手を木から離そうとしていたマローの顔が苦痛に歪む。
「……お願いです、どうかこのまま」
「二人分の体重でこの枝はいつまでもつの?」
 正直怖い。恐ろしくてたまらない。高いところは苦手だし、木登りなども男の子のように上手にできた試しはない。
「マローも一人なら、足場になりそうな場所まで身体を引き上げることが出来るでしょう?」
 抱っこ紐が、大きめの布であったことが幸いした。結び目がそれほどきつくはなく、手探りで解くことが出来たからだ。
「御方さまっ」
「……っ」
 布が溶けた瞬間、重力に従って落下しそうになった。慌ててマローの首にしがみつき、ぶらぶらと揺れる足をその腰に絡ませる。
「動かないでください。すぐに助けが来ます。ルシエラがいるのです、ダンも。ほんの少しの間で構いませんので、どうかご辛抱を……!」
「マロー」
 必死で落とすまいと身をよじるマローに、メイラはぎゅっとしがみ付き、頬を寄せた。
 いつも面倒ばかりかけている……過分なほどに。
 それが彼女の職責なのは間違いないが、ただの仕事という以上の想いをかけてもらっているのは自覚していた。
 常に守られて、助けられて……その献身には頭が下がる。
 だからこそ、苦しんでいるときには助けになりたい。彼女ばかりにリスクを背負わせるわけにはいかない。
「絶対にあなたを死なせないわ」
「……御方さまっ」
 うまくいく自信はなくとも、迷っている時間はなかった。
 意を決して手を離す。ただ手足を伸ばすだけでは届きそうになかったからだ。
 たちまち落下しながら、必死に崖の岩肌を蹴ろうとした。正確には、不格好に伸ばした足は空を切っただけだったが、細かい枝状の茂みが落下のスピードと軌道を変え、おおむね思惑通りの場所に落ちた。
 しかし落下の勢いを見誤っていて、枝に激しく脇腹をぶつけて息が詰まる。
 痛みに目がくらんだが、なんとかつるりとした木の枝にしがみつけた。マローがつかまっているものより頼りない細さで、メイラの全体重を受けるとミシリと軋んだ。
「御方さま、御方さまっ!!」
 呼ばれている。意識を遠くしている場合ではない。
 いや、この状況で気絶してしまえば、すぐにも遠い岩浜めがけて落ちてしまうだろう。
 かろうじて受け止めてくれている枝を両手で抱きしめながら、激痛をやり過ごした。この痛みは経験がある。ろっ骨が折れてしまったかもしれない。
 小さく短い呼吸を繰り返した。
 吹き上げてくる風がスカートを巻き上げる。裾を暴かれることよりも、その抵抗で身体を持っていかれそうになるほうが怖かった。
 風が弱まるのを待って、木の根元のほうに這い進む。細い幹の上ではバランスを取るのが非常に難しい。
 昔から、木登りも高いところも苦手だった。
 男の子の遊びに付いていけた試しはなく、自他ともに認めるドンくさい子共だった。
 だが、巻きあがるスカートを太腿で挟み、両手両足を使って尺取り虫のように這い進むテクニックは覚えていた。
「……下を見ちゃダメ、見ちゃダメ、見ちゃダメ」
 ぶつぶつと呟きながら、ただバランスを崩さないことだけを念頭に亀の歩みで前に進む。
 木が根を張るささやかな岩棚に上半身を乗せるまで、体感的にはものすごく時間がかかった。尺取り虫になっていた距離は掌二つ分に過ぎないが、恐怖が勝ってミリ単位でしか移動できなかったのだ。
 痛みを感じて指先に目を落とすと、数日前にテトラが磨いてくれた爪が割れていた。木の皮か土が入り込み、爪先が黒くなっている。
 修道女だった頃には爪を磨く習慣などなかった。子供に怪我をさせないよう爪先は常に短くカットしていたし、栄養が足りていないせいで爪が割れる事などしょっちゅうだったが、それを気にする余裕もなかった。
 爪が欠け、切り傷ができた指をぎゅと握りしめる。そこにはあかぎれも肌荒れも湿疹もない。
 いつのまに、こんなに柔らかな掌になっていたのだろう。毎日子供たちの服を洗っていたころは、もっと皮膚は硬く傷だらけだったのに。
 顔をあげ、心配そうにこちらを見ているマローに笑顔を向けた。
 たとえ傷つき、爪の欠けた手であっても、それがやけに誇らしかった。
「やったわ!」
「……肝が冷えました」
「マローも上にあがれそう?」
「いえ、この木の根元に足場になりそうな場所はありません」
 マローがつかまっている木は、崖が急角度に反っている部分に根を張っていた。メイラが壁を蹴りこそねたのは彼女の足の短さ故ではなく、抉れたような岩の形状が原因だ。
「茂みがあって、そちらの様子がよくわかりません。私が行っても大丈夫そうですか?」
 メイラは自身が情けない恰好でしがみ付いている岩棚に目を向けた。思っていたよりも随分狭く、子供ひとりが横たわるのがやっとの幅しかない。
「……無理じゃないかしら」
 そう言おうとして、マローの服の袖に血が伝っているのに気づいた。剥がれた爪から滴ったのだろう。
「背負い紐にしていた布を垂らせる? せめて下まで落下してしまわないよう、括りつけましょう」
 メイラが解いた背負い紐は、クロスする形で胸の前と腹部に巻き付けられていた。解いた瞬間外れたのは胸部だけで、長さ調整のために巻かれた布はまだ腰に巻き付いたままだ。
 マローの腕をこれ以上酷使することなく、どうやって布の端を掴めばいいのか頭を悩ませているうちに、ふと、陽光が遮られるのを感じた。
 日差しが陰ったのかと思った。メイラの生まれ故郷と違って、この島の空は雲が多い。
 違うと気づいたのは、いまだ下半身が乗ったままの木の枝が、ほんのわずかに下方に沈んだからだ。
「……えっ」
 首だけ巡らせて、自身が目にしたものが果たして現実なのかと訝しんだ。
 メイラ一人乗せただけでギシギシと軋み、折れそうにたわんだ幹が、ほとんど沈むことなくそこにある。
 ただし、細い枝先に男がひとり。
 まるで重さなどないかのように、行儀よく両足をそろえて膝を折り、こちらを見つめている。
 眩いばかりの来光が逆光となって、男のシルエットをくっきり黒く際立たせていた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

愛すべきマリア

志波 連
恋愛
幼い頃に婚約し、定期的な交流は続けていたものの、互いにこの結婚の意味をよく理解していたため、つかず離れずの穏やかな関係を築いていた。 学園を卒業し、第一王子妃教育も終えたマリアが留学から戻った兄と一緒に参加した夜会で、令嬢たちに囲まれた。 家柄も美貌も優秀さも全て揃っているマリアに嫉妬したレイラに指示された女たちは、彼女に嫌味の礫を投げつける。 早めに帰ろうという兄が呼んでいると知らせを受けたマリアが発見されたのは、王族の居住区に近い階段の下だった。 頭から血を流し、意識を失っている状態のマリアはすぐさま医務室に運ばれるが、意識が戻ることは無かった。 その日から十日、やっと目を覚ましたマリアは精神年齢が大幅に退行し、言葉遣いも仕草も全て三歳児と同レベルになっていたのだ。 体は16歳で心は3歳となってしまったマリアのためにと、兄が婚約の辞退を申し出た。 しかし、初めから結婚に重きを置いていなかった皇太子が「面倒だからこのまま結婚する」と言いだし、予定通りマリアは婚姻式に臨むことになった。 他サイトでも掲載しています。 表紙は写真ACより転載しました。

断る――――前にもそう言ったはずだ

鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」  結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。  周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。  けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。  他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。 (わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)  そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。  ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。  そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?

側妃、で御座いますか?承知いたしました、ただし条件があります。

とうや
恋愛
「私はシャーロットを妻にしようと思う。君は側妃になってくれ」 成婚の儀を迎える半年前。王太子セオドアは、15年も婚約者だったエマにそう言った。微笑んだままのエマ・シーグローブ公爵令嬢と、驚きの余り硬直する近衛騎士ケイレブ・シェパード。幼馴染だった3人の関係は、シャーロットという少女によって崩れた。 「側妃、で御座いますか?承知いたしました、ただし条件があります」 ********************************************        ATTENTION ******************************************** *世界軸は『側近候補を外されて覚醒したら〜』あたりの、なんちゃってヨーロッパ風。魔法はあるけれど魔王もいないし神様も遠い存在。そんなご都合主義で設定うすうすの世界です。 *いつものような残酷な表現はありませんが、倫理観に難ありで軽い胸糞です。タグを良くご覧ください。 *R-15は保険です。

挙式後すぐに離婚届を手渡された私は、この結婚は予め捨てられることが確定していた事実を知らされました

結城芙由奈 
恋愛
【結婚した日に、「君にこれを預けておく」と離婚届を手渡されました】 今日、私は子供の頃からずっと大好きだった人と結婚した。しかし、式の後に絶望的な事を彼に言われた。 「ごめん、本当は君とは結婚したくなかったんだ。これを預けておくから、その気になったら提出してくれ」 そう言って手渡されたのは何と離婚届けだった。 そしてどこまでも冷たい態度の夫の行動に傷つけられていく私。 けれどその裏には私の知らない、ある深い事情が隠されていた。 その真意を知った時、私は―。 ※暫く鬱展開が続きます ※他サイトでも投稿中

夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました

氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。 ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。 小説家になろう様にも掲載中です

私はただ一度の暴言が許せない

ちくわぶ(まるどらむぎ)
恋愛
厳かな結婚式だった。 花婿が花嫁のベールを上げるまでは。 ベールを上げ、その日初めて花嫁の顔を見た花婿マティアスは暴言を吐いた。 「私の花嫁は花のようなスカーレットだ!お前ではない!」と。 そして花嫁の父に向かって怒鳴った。 「騙したな!スカーレットではなく別人をよこすとは! この婚姻はなしだ!訴えてやるから覚悟しろ!」と。 そこから始まる物語。 作者独自の世界観です。 短編予定。 のちのち、ちょこちょこ続編を書くかもしれません。 話が進むにつれ、ヒロイン・スカーレットの印象が変わっていくと思いますが。 楽しんでいただけると嬉しいです。 ※9/10 13話公開後、ミスに気づいて何度か文を訂正、追加しました。申し訳ありません。 ※9/20 最終回予定でしたが、訂正終わりませんでした!すみません!明日最終です! ※9/21 本編完結いたしました。ヒロインの夢がどうなったか、のところまでです。 ヒロインが誰を選んだのか?は読者の皆様に想像していただく終わり方となっております。 今後、番外編として別視点から見た物語など数話ののち、 ヒロインが誰と、どうしているかまでを書いたエピローグを公開する予定です。 よろしくお願いします。 ※9/27 番外編を公開させていただきました。 ※10/3 お話の一部(暴言部分1話、4話、6話)を訂正させていただきました。 ※10/23 お話の一部(14話、番外編11ー1話)を訂正させていただきました。 ※10/25 完結しました。 ここまでお読みくださった皆様。導いてくださった皆様にお礼申し上げます。 たくさんの方から感想をいただきました。 ありがとうございます。 様々なご意見、真摯に受け止めさせていただきたいと思います。 ただ、皆様に楽しんでいただける場であって欲しいと思いますので、 今後はいただいた感想をを非承認とさせていただく場合がございます。 申し訳ありませんが、どうかご了承くださいませ。 もちろん、私は全て読ませていただきます。

【完】あの、……どなたでしょうか?

桐生桜月姫
恋愛
「キャサリン・ルーラー  爵位を傘に取る卑しい女め、今この時を以て貴様との婚約を破棄する。」 見た目だけは、麗しの王太子殿下から出た言葉に、婚約破棄を突きつけられた美しい女性は……… 「あの、……どなたのことでしょうか?」 まさかの意味不明発言!! 今ここに幕開ける、波瀾万丈の間違い婚約破棄ラブコメ!! 結末やいかに!! ******************* 執筆終了済みです。

王子殿下の慕う人

夕香里
恋愛
エレーナ・ルイスは小さい頃から兄のように慕っていた王子殿下が好きだった。 しかし、ある噂と事実を聞いたことで恋心を捨てることにしたエレーナは、断ってきていた他の人との縁談を受けることにするのだが──? 「どうして!? 殿下には好きな人がいるはずなのに!!」 好きな人がいるはずの殿下が距離を縮めてくることに戸惑う彼女と、我慢をやめた王子のお話。 ※小説家になろうでも投稿してます

処理中です...