月誓歌

有須

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修道女、悪夢に酔い現実に焦燥する

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 見られている……と感じたのは、自意識過剰ではない。
 最初は美しいテトラに視線が集中していて、その余波かと思っていた。
 違うと分かったのは、メイラを見ていたその当の本人と、真正面から視線が合ってしまったからだ。
 ギラトスに寄港して半日。港は思いのほか陽気な人々で溢れていて、治安もそれほど悪くないように見えた。
 何しろ各国の色々な階級の要人たちがこの島に休暇に来ていて、護衛たちがそれぞれに目を光らせているのだ。更にはそんな彼らを見張るように、この島独自の治安兵が各所に立っていた。聞くところによると、争いごとを起こせばこの島からは永久追放され、二度と足を踏み入れる事が許されなくなるらしい。
 一歩島から出ると海賊の横行する危険海域だが、この島に関しては意外と治安に重きを置いた場所のようだった。
 その夜メイラは、久々に陸に降り立ち、ホテルの中にあるレストランに食事に来ていた。
 ダンが事前に十分な下調べをして、下船しても大丈夫そうだと判断してからのことだ。
 くたくたに煮た野菜をふわりと卵でとじ、もっちりとした食感の太めの麺と、透き通った鶏ベースのスープが非常に美味だった。
 食事を終え、婦女子のマナーである化粧室からの戻り道。扉を開けて、背中を向けて待っているテトラに声を掛けようとしたその瞬間だった。
 おおよその視線はすらりと背が高く見栄えの良いテトラに集中していたが、その肩越しに、一人の男がこちらを見ている事に気づいた。
 遠くにいてもわかるほど背の高い、異民族の男だった。
 メイラの祖父と名乗る猊下の肌は、こんがりと美味しく焼き上がったパンのような色合いだが、その男の肌の色はもっと深く暗い、言うなれば木炭の色に近い。
 バチリと視線が合って、思わず怯んだメイラに気づき、相手が白い歯を見せて笑ったのがわかった。
 その際立って迫力のある容姿を含め、まるで肉食獣のような笑みだった。
 目を引くのは真っ赤な民族衣装だ。多種多様な人種民族が集うこの場所には、目がチカチカするほど色とりどりの身なりの者たちがいるが、上から下まで同色の、しかも赤を身にまとっている者など彼以外にはいない。
 黒い肌と、後頭部の高い位置でひとつに括った黒髪と、鮮やかに赤い装束とが、他を有象無象に見せるほどに周囲と一線を画していた。
 ライオンに睨まれた小動物のように、呼吸すら止めて凍り付いたメイラの目の前に、いつのまにかまっすぐに伸びたテトラの背中があった。
 危うくぶつかりそうになり、つんのめった身体を支えようと手を壁に着けた丁度そのタイミングで、吹き抜け廊下の一階層上に立っているその男性が片手をあげた。
 テトラの背中が強張った。メイラも、心臓が喉から飛び出しそうになった。
 何故なら、絶対に近づきたくないオーラを漂わせた黒と赤のその人の傍らに、非常に見覚えのある、目がつぶれそうに美しい淑女が身を寄せたからだ。
 男はその場の空気を支配する王者がごとき存在感を放っていたが、寄り添うそのパートナーは、それとはまた別の意味でレストラン中の空気を攫っていた。
 抜けるように白い肌。肩から滝のように零れ落ちる眩いばかりの銀糸の髪。
 男が上げた片手に、そっと手を乗せるその姿は、まるで天から降臨した精霊か女神のごとき神々しさだった。
「……て、てとら」
 二階の手すりの向こう側に立つ、あらゆる意味で目がつぶれそうな男女の取り合わせに、思いっきり腰が引け声が震えた。
「ちょっと眩暈が」
「……偶然ね、私もよ」
 縋り付くようにテトラの服の背中を掴み、後ろ手に庇われながら数歩逃げの体勢で後ずさった。
 ちなみに、このレストランの一階は平民向け、二階から上が貴族向けである。一階とて裕福な商人階級の者たちも利用するので貧相なわけではないが、上の階の貴族たちと平民とが接することがないよう考慮された構造になっている。出入り口も別だし、吹き抜けを行き来する階段などもない。
 メイラは床の模様を見ながら深呼吸した。
 心を決めるまで数十秒間、テトラの背中から顔を出して、おずおずと上方に目を向ける。
「……うっ」
 待ってましたとばかりに視線が合って、嫣然と微笑み掛けられ……カエルが潰れたような情けない呻き声が零れた。
 心臓が激しい不整脈を奏で、今すぐこの場所から逃亡したいという欲求に視線が彷徨う。
 いや、悪い事をしたわけではないのだ。怯える必要などないはずだ。
 どうしてルシエラがこんなところにいて、かつものすごく怒っているのかなどと、理由を深く考えたらきっと負ける。
 どういう勝ち負けを争っているのか自身でもわからないままに、メイラは引きつった顔でありえないほどに美しい氷の女王様を見上げた。
 あ、駄目だ。凍らされる。
 たちまち目から発射されたビーム(錯覚)に囚われ、その場に凍りついてしまった。
「メルベル!」
 その氷をものともせず、メイラを正気付かせたのは、現在父と呼んでいるダンの太い声だった。
 ほっとしてその声の方を見ようとすると、何故か更にブリザードのように視線が冷たくなった。
「どうした、顔色が悪い」
 もはや真っ白になって思考ごと吹き飛ばされそうになって居たメイラを、ダンがその巨躯で庇う様に立つ。一通りメイラの無事を確認して頷き、それから初めて二階を見上げた。
「まあ、娘さん具合がお悪いの?」
 頭上から降ってきた声は、背筋がぞっと震えるほどに優し気で、嫋やかなものだった。
「……お気遣いありがとうございます、奥様」
 メイラに対してはあんなにも大根役者だったダンが、ごく自然に礼を取る。平民が貴族に向けてする典型的な挨拶の仕草だ。
「随分痩せていらっしゃるから、体調が優れないのかと心配して見ていたの。こちらにいらっしゃいな、少し休ませてあげた方がいいわ」
「とんでもございません。お気遣いはありがたいのですが、かえって気にしてしまう質ですのでご勘弁ください」
 ダンが矢面に立つと、その身体の幅だけでテトラとメイラは隠れてしまえる。
 氷の女王さまの容赦ない目力ビームから身を守るべく、メイラは身体を小さくしてブルブルと震えた。そのまま気絶してしまいたいぐらいだが、怖すぎてそれもできない。
「エゼルバートのA級冒険者、ダンカン・ヘイズか。噂は聞いている」
 黒いネコ科の肉食獣じみた男が、若干掠れた低い声で言った。天災ルシエラと並んでもまったく遜色なく、強烈な存在感を放っていて直視できない。
「そこにいるのは娘か?」
「高貴な方々の御目に触れさせるような者ではございません。失礼いたします」
 有難いことに、ダンは超特急で災害級のふたりから避難させてくれた。
 具体的には、幼い子供のように縦抱きにされて運ばれたのだが……この際文句は言ってられない。
 ルシエラがあんなところで何をしているのだとか、どうして怒っているのかとか、疑問はやまほどあったが尋ねることはできなかった。
 ダンがあまりにも急いで商船に戻ろうとしていたらからだ。
「……まずいぞ」
 常にもまして厳しい表情の仮初めの父を、近い距離から見下ろした。
「イシャン王子だ」
 聞き慣れない響きの名前だが、王子というぐらいだからどこかの王族なのだろう。
「……セントコルメスの海賊王子?」
「そうだ。あの王子がいるところを見ると、少なくとも数十の海賊船が近辺にいると思っていい。下手をしたら数百規模で移動してきているかもしれない」
 王子と海賊という言葉がうまく結びつかず、しきりに首を傾げていたメイラに構わず、テトラとダンが小さな声で話を続ける。
「目を着けられたかもしれない」
「財宝をかぎつける嗅覚に優れた男だと」
「旅行中の貴人をさらって、法外な身代金を請求する話は有名だ」
 よりにもよって、そんな男とどうしてルシエラは一緒にいたのだろう。
 恐ろしいほどの存在感だった。
 強烈なカリスマ性が周囲の視線を釘付けにして、誰もが思考を停止してその存在に魅入っていた。
 メイラは狭い路地を足早に行くダンに運ばれながら、あの男と視線が重なった瞬間を思い出し、改めて大きく身震いした。
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