月誓歌

有須

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修道女、悪夢に酔い現実に焦燥する

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 彼らの危惧はともかくとして、メイラですら漠然と感じ始めた危機感は、残念ながら当たってしまった。しかもすぐに。
 グレイスの商船が見える場所まで戻ったところで、見渡せる湾内に大音声で鐘の音が響いたのだ。
長閑にゆっくりと鳴らされる時報の類ではない。カンカンカンカン!! と、明らかに急を告げるものだ。
 ダンは舌打ちをして、そのまま進行方向を変えた。
 早足からもはや疾走といってもいい速度にかわっていたが、たちまち喧噪にまかれた街中では、むしろそちらの方が目立たない。
 走りながら、ダンの羽織っていたマントをかぶせられた。くるまるように巻かれ、あまりの速度に振り落とされそうになる寸前で背中ごと抱きかかえられる
 縦抱きで、もう片方の手は背中から肩。……完全なる幼児抱きだと突っ込みを入れる間もなかった。舌を噛まないように奥歯を噛み締め、ぎゅっと目を閉じる。
 こうやって運ばれるのは何回目だろうか。もはや、己の足で走れると我儘を言う気にもならなかった。ただ荷物のように運ばれているだけなのに、上下に激しく揺すられて、すぐに気分が悪くなってくる。
 大勢の人々が右往左往する街並みを、ダンたちは人目を避けるようにして走り抜けた。
 やたらと細い道を躊躇なく突き抜け、明確に目的地があるとわかる足取りでどこかへ向かっている。
 尾行を警戒しているのだろう。商家の中を突っ切り、よそ様の裏庭を無断で横断し……やがてたどり着いたのは、急斜面の路地を上った先にある、石造りの小さな生薬屋だった。
 港からかなり離れた高台の、商店ではなく小さな民家が立ち並ぶ一角。薬草園を併設した、昔ながらの古びた店だ。
 やっと揺らされるのも終いかと、改めて巡らせた視線の先にあったのは、息を飲むような眺望だった。
 きらきらと眩しく輝いているのは、今にも太陽を飲み込もうとしている大海原。その鮮やかな夕日を反射して、眼下に広がる美しい街並みが真っ赤に染まって見える。
 瞼に差し込むその色が、まるで血のように思えて。
 ぐらり、と世界がひっくり返るような眩暈に見舞われ、さきほど腹に納めた御馳走をそのまま吐き戻しそうになった。
 ダンにがっつりと抱きかかえられていなければ、その場で失神していたかもしれない。
 バタンと重そうな木戸が閉じられ、念入りに鍵をかける音が聞こえ、テトラとあと一人、おそらく生薬屋の主人らしき老人が手早く窓にカーテンを閉めていった。
「やれやれ、久しぶりにいらしたかと思えば何事ですか」
 老人がひび割れた声でそう言うのと同時に、地響きのような音が窓ガラスを揺らした。
 大砲の音だ。
「……っ」
 続けざまの轟音に悲鳴を飲み込んだメイラの背中を、ダンが宥めるように二度ほど叩いた。
「海賊の襲撃ですな。年に何度かはあることです。この島の者は迎撃に慣れておりますから、じき収まりましょう」
 薬屋の主人には焦りなどまったくなく、震えるメイラを気づかわし気に見ながら微笑んだ。
 笑うと悪相が和らぎ、いかにも好々爺といった雰囲気になるのだが、残念ながらダンの首にしがみついた彼女がそれを見ることはなかった。
「今回は違うかもしれない」
 ダンは興味深げな老人の視線から隠すように、マントを深くかぶせ直した。
「この島にイシャン王子がいるのを見た」
「海賊王子ですか? あの方とこの島とは盟約を交わしておりますから、今更襲撃などという不義理はなさらないと思いますが」
「盟約?」
「ご存じない? この島はイシャン王子の艦隊と同盟を交わしたのです。補給に力を貸すかわりに、海賊どもの襲撃から島を守るという盟約です」
「それは……」
 リッチェラン諸島はひとつの国家ではない。小さな島それぞれが自治権を持っていて、独自で防衛や交易を行っている。そのため弱いところは自衛する術を持てず、繰り返し襲撃を受けるという惨事に見舞われるのだ。
 弱いなら、強いところに守ってもらおうとするのは自然な成り行きだ。護衛艦を持つ商人たちを抱え込む島もあれば、金銭で傭兵を雇う島もあるという。海賊に対処するために海賊を雇うというのは、普通に考えてみるとひどくおかしな構図だとは思うが。
 それを癒着というのか交渉というのか微妙なところだが、もし本当にそういう盟約が交わされているのであれば、イシャン王子の私兵がこの島を襲撃する可能性は少ないのかもしれない。
 だとすると、大砲を湾内に向けて連射しているのはどこの誰だというのか。
「ダン、メルベルが」
 店中のカーテンを閉め終え、その隙間から外の様子をうかがっていたテトラが、ようやくメイラの様子に気づいて近づいてきた。
「気分が悪いの?」
 彼がメイラをメルベルと呼ぶのは、老人がこちらの事情を知らないからだろう。
「少し横になった方がいいわ」
 小さく浅い息を継ぐ背中に、そっと手を置かれる。
「……いや」
 いたわるようなテトラの口調に対し、ダンの表情はますます険しくなる一方だった。
「休むにしても、地下に潜ってからだ」
「手は入れておりますから、食べるものや水などの心配はございません。ですが、夜の洞窟はひどく冷えますよ。若い娘さんには酷では?」
「せめて明日の朝まで休んだ方がいいと思うわ」
 二人の言い分に少し迷うそぶりを見せたが、ダンはきっぱりと首を横に振った。
「……襲撃のタイミングが良すぎる」
 その言葉を聞いて、背筋にぞっと悪寒が這い上がってきた。
 まさかあの黒衣の神職が追ってきたのだろうか。メイラを捕えるために、こんなところまで?
「私はむしろルシエラの仕業のような気がするのだけど」
「……」
「海賊王子をうまく使って追いついてきたのでしょう。先に合流するべきじゃない?」
「……今から港に戻るのは危険すぎる」
 震えるメイラをしっかりと抱え、微動だにせずダンは言った。
「ルシエラがこの島にたどり着いたのだから、あの男にも不可能ではないだろう。危険は冒せない」
「……そうね」
「この抜け道に気づかれている可能性もなくはない。確か古井戸の底につながっているのだったな?」
「さようにございます」
「地下に潜って身を隠し、ルシエラが追いつくのを待とう。ただし明日の朝までだ。島の防衛が成功すれば、グレイスを島の裏側に呼ぶ。失敗するようなら、別の手段を考えなくてならなん」
 大砲の音は、いまだ絶え間なく続いている。
 人々の悲鳴や、物が壊れるような音も、街中からは離れたこんな場所まで聞こえて来る。
 恐ろしい大砲の音がビリビリとガラスを揺らすたびに、喉の奥に大きな塊がつかえて息がしずらくなった。
 遠くに聞こえる悲鳴に耳を塞ぎたい。
 大砲の音が聞こえないよう幾重にも掛布を被り、あるいは洗濯物の山の中にでも潜り込んでしまいたい。
 ダンの腕の中で小さく縮こまりながら、そんな自身の情けなさに歯噛みした。
 彼らをこんな場所に連れてきたのは、他ならぬメイラなのに。
 変わり映えせず矮小で役に立たない己が情けなく、もどかしかった。
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