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皇帝、諸々を薙ぎ払う
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眠るメルシェイラの顔色は悪い。
無理もないと思う。今の状況は彼女には酷だ。投げ出された左手に対し、しっかりと身体で抱え込んでいる右手。無意識に隠そうとしているその様子に、ジリリと腹の底が焼けた。
後宮の虫どもをあぶりだし、彼女を皇妃として迎え入れる場を整えるつもりだった。どんな危険からも守れるように。どんな敵も入り込めないように。
しかし、思うようにいかない作業を突貫で進めている最中、メルシェイラに身に付けさせていた魔道具が発動したのだ。
丁度、執務室で魔法師団長と水オーブについての見解を述べあっている時だった。
パリン、と乾いた音を立てて、腕輪に加工していた対の宝玉が割れた。
何も言わずとも状況を理解してくれた魔法師団長が、遠見で事態の把握に努めてくれなければ、落ち着いて行動に移すことはできなかったと思う。
現地に派遣している影からは、数時間で報告が上がってきた。魔道具によるそれらの伝達は、ほとんどタイムロスもなく届くので助かる。
そして、周囲の誰もが止めるのを聞かず、転移門の使用を決めたのだ。
転移門は、現在ではほぼ使われていない技術だ。
作用はわかっているのだが、どうしてそうなるのかというシステム的なものが失伝してしまっている。研究は進められているが結果は微々たるもので、残っている技術で新たなものが作られるまでは、風化しているそれらの遺物は保全の方向に管理され、滅多なことで起動させることはない。
ハーデス公爵領領都ジルタスには、現存する最大級の転移門がある。
それは翼竜ですら通れるサイズのもので、古の時代には各都市、もしかすると他大陸をも結ぶ重要な経路となっていたのだと思う。
比較的状態が良く、かなり昔から稼働可能と聞いていた。
問題は、双方の門が巨大なぶん、起動するのに膨大な魔力が必要だということだ。かつては少人数でも可能だったようだが、魔力持ちが減ってきている現在、起動させるだけの力をため込むのには大勢の魔法士が必要だった。
それを半日でかき集めてくれた魔法師団長には礼を言わねばならない。
転移させるものの質量に応じて必要な魔力も多く、ハロルドと近衛の数人を転移させるだけで精一杯だったが、それで十分だ。復路はハーデス公爵領で翼竜を借りれば事足りる。
そして、もろもろを振り切って強引に転移門をくぐったわけであるが……
メルシェイラが今滞在している街までの距離がかなりあったのは誤算だった。
転移門は帝都と領都とを結ぶもので、そこから先は自力で移動しなければならない。
可能な限り最短距離を突っ切ってきたと思う。
もう少し早ければ、あの巨大竜が城を大破させる前に到着することができただろうが、駆け付けた時に翼竜部隊という迎撃の手段があったのだからまあ許容範囲内だろう。
そっと、隠された腕を取り小さな手を握る。
ぎゅっと拳に握られた指は細く、爪はピンク色の貝殻のようだ。
ハロルドは、その指を一本一本、丁寧にほぐした。
見れば、掌に爪の後が付くほどに強く、握られていたのだとわかる。
手首にぐるりと一周、明るい場所で見なければわからない程度だが、確かに刻印が刻まれているのを確認して、また苦いものが胸に込み上げてきた。
危険から遠ざけようとしたのだ。ハーデス公爵領であれば、少なくとも後宮よりは安全だと思っていた。
しかし、どこにいても狙われるというのなら話は別だ。せめて身近で守りたい。この手で彼女の敵を薙ぎ払いたい。
もう決して目が届かない場所にはやらないと改めて思いながら、そっと、その徴に指を這わす。
神とはいえ、他の何者かの痕跡がこの身体に刻まれるなど許しがたい。
ハロルドとて、彼女の奥深くに自身を刻んではいないのに。
苦い思いで、あの若作りの教皇の顔を思い出す。メルシェイラの祖父だと吹聴しているが、真偽は定かではない。彼女の後ろ盾はハーデス公の実子だということで十分なのだから、これ以上しゃしゃり出て欲しくないものだ。
あの上っ面の良い顔で、メルシェイラの望むようにすればいいとは言っていたが、言い換えれば、万が一にも彼女自身が中央神殿に行くと決めたなら、遠慮なくハロルドの腕から攫って行ってしまうということだ。
そっと、短い黒髪を撫でつけて、また少しやせたように見える頬に口づけを落とす。
ふわりと香る、彼女自身の匂いに目を細め、中央神殿の横やりが入る前に、名実ともに早く皇妃にしなければと強く思った。
コンコンコン、とノックの音がする。
顔を上げて、近衛と視線を合わせると、赤毛の近衛は帯剣に手をやりながら扉の外に向かって誰何した。
扉の外にいるのは、連れてきたもう一人の近衛騎士だ。
ハロルドの位置からは聞き取りにくかったが、扉越しに何か言葉が交わされ、赤毛の騎士の赤茶色の目がこちらを向いた。
「陛下。黒竜の撤去が済んだようです。ギルド員が解体作業に入っていますが、それについてのご報告にロバート・ハーデス将軍閣下がお見えになっておられます」
少し迷って、ハロルドはベッドの天蓋布を下ろすようにと指示した。
メルシェイラのメイドがひとり、丁寧に礼をしてから半分あげられていた布を下ろしていく。
動きに無駄のないこのメイドは、よくわきまえていて決して音は立てないし、声も出さない。おそらくは護衛としての側面も持つのだろう。メイドにしては体格が良い。
ハロルドはテーブルセットのソファーに移動し、その場所からメルシェイラの寝顔が見える所だけ天蓋布を開けさせた。
彼以外には、隙間が空いているのはわかっても、彼女を見ることはできない位置だ。
「陛下」
ややあって、入室を許可されたハーデス将軍がその屈強な身体を縮めるようにして近づいてきた。
普段の彼らしくない、ずいぶんと遠慮したその様子は、妹とはいえ女性の眠る寝室だからだろう。
その目がちらりとベッドの方を向き、慌てて逸らされる。
やはり別室で会うべきだった。
異母兄とはいえ男が、メルシェイラの諸々を想像する様を見るのは非常に不愉快だ。
「申し訳ございません。それほど急ぎという訳ではないのですが」
では来るな、と思いはしたが言葉にはしなかった。
無理もないと思う。今の状況は彼女には酷だ。投げ出された左手に対し、しっかりと身体で抱え込んでいる右手。無意識に隠そうとしているその様子に、ジリリと腹の底が焼けた。
後宮の虫どもをあぶりだし、彼女を皇妃として迎え入れる場を整えるつもりだった。どんな危険からも守れるように。どんな敵も入り込めないように。
しかし、思うようにいかない作業を突貫で進めている最中、メルシェイラに身に付けさせていた魔道具が発動したのだ。
丁度、執務室で魔法師団長と水オーブについての見解を述べあっている時だった。
パリン、と乾いた音を立てて、腕輪に加工していた対の宝玉が割れた。
何も言わずとも状況を理解してくれた魔法師団長が、遠見で事態の把握に努めてくれなければ、落ち着いて行動に移すことはできなかったと思う。
現地に派遣している影からは、数時間で報告が上がってきた。魔道具によるそれらの伝達は、ほとんどタイムロスもなく届くので助かる。
そして、周囲の誰もが止めるのを聞かず、転移門の使用を決めたのだ。
転移門は、現在ではほぼ使われていない技術だ。
作用はわかっているのだが、どうしてそうなるのかというシステム的なものが失伝してしまっている。研究は進められているが結果は微々たるもので、残っている技術で新たなものが作られるまでは、風化しているそれらの遺物は保全の方向に管理され、滅多なことで起動させることはない。
ハーデス公爵領領都ジルタスには、現存する最大級の転移門がある。
それは翼竜ですら通れるサイズのもので、古の時代には各都市、もしかすると他大陸をも結ぶ重要な経路となっていたのだと思う。
比較的状態が良く、かなり昔から稼働可能と聞いていた。
問題は、双方の門が巨大なぶん、起動するのに膨大な魔力が必要だということだ。かつては少人数でも可能だったようだが、魔力持ちが減ってきている現在、起動させるだけの力をため込むのには大勢の魔法士が必要だった。
それを半日でかき集めてくれた魔法師団長には礼を言わねばならない。
転移させるものの質量に応じて必要な魔力も多く、ハロルドと近衛の数人を転移させるだけで精一杯だったが、それで十分だ。復路はハーデス公爵領で翼竜を借りれば事足りる。
そして、もろもろを振り切って強引に転移門をくぐったわけであるが……
メルシェイラが今滞在している街までの距離がかなりあったのは誤算だった。
転移門は帝都と領都とを結ぶもので、そこから先は自力で移動しなければならない。
可能な限り最短距離を突っ切ってきたと思う。
もう少し早ければ、あの巨大竜が城を大破させる前に到着することができただろうが、駆け付けた時に翼竜部隊という迎撃の手段があったのだからまあ許容範囲内だろう。
そっと、隠された腕を取り小さな手を握る。
ぎゅっと拳に握られた指は細く、爪はピンク色の貝殻のようだ。
ハロルドは、その指を一本一本、丁寧にほぐした。
見れば、掌に爪の後が付くほどに強く、握られていたのだとわかる。
手首にぐるりと一周、明るい場所で見なければわからない程度だが、確かに刻印が刻まれているのを確認して、また苦いものが胸に込み上げてきた。
危険から遠ざけようとしたのだ。ハーデス公爵領であれば、少なくとも後宮よりは安全だと思っていた。
しかし、どこにいても狙われるというのなら話は別だ。せめて身近で守りたい。この手で彼女の敵を薙ぎ払いたい。
もう決して目が届かない場所にはやらないと改めて思いながら、そっと、その徴に指を這わす。
神とはいえ、他の何者かの痕跡がこの身体に刻まれるなど許しがたい。
ハロルドとて、彼女の奥深くに自身を刻んではいないのに。
苦い思いで、あの若作りの教皇の顔を思い出す。メルシェイラの祖父だと吹聴しているが、真偽は定かではない。彼女の後ろ盾はハーデス公の実子だということで十分なのだから、これ以上しゃしゃり出て欲しくないものだ。
あの上っ面の良い顔で、メルシェイラの望むようにすればいいとは言っていたが、言い換えれば、万が一にも彼女自身が中央神殿に行くと決めたなら、遠慮なくハロルドの腕から攫って行ってしまうということだ。
そっと、短い黒髪を撫でつけて、また少しやせたように見える頬に口づけを落とす。
ふわりと香る、彼女自身の匂いに目を細め、中央神殿の横やりが入る前に、名実ともに早く皇妃にしなければと強く思った。
コンコンコン、とノックの音がする。
顔を上げて、近衛と視線を合わせると、赤毛の近衛は帯剣に手をやりながら扉の外に向かって誰何した。
扉の外にいるのは、連れてきたもう一人の近衛騎士だ。
ハロルドの位置からは聞き取りにくかったが、扉越しに何か言葉が交わされ、赤毛の騎士の赤茶色の目がこちらを向いた。
「陛下。黒竜の撤去が済んだようです。ギルド員が解体作業に入っていますが、それについてのご報告にロバート・ハーデス将軍閣下がお見えになっておられます」
少し迷って、ハロルドはベッドの天蓋布を下ろすようにと指示した。
メルシェイラのメイドがひとり、丁寧に礼をしてから半分あげられていた布を下ろしていく。
動きに無駄のないこのメイドは、よくわきまえていて決して音は立てないし、声も出さない。おそらくは護衛としての側面も持つのだろう。メイドにしては体格が良い。
ハロルドはテーブルセットのソファーに移動し、その場所からメルシェイラの寝顔が見える所だけ天蓋布を開けさせた。
彼以外には、隙間が空いているのはわかっても、彼女を見ることはできない位置だ。
「陛下」
ややあって、入室を許可されたハーデス将軍がその屈強な身体を縮めるようにして近づいてきた。
普段の彼らしくない、ずいぶんと遠慮したその様子は、妹とはいえ女性の眠る寝室だからだろう。
その目がちらりとベッドの方を向き、慌てて逸らされる。
やはり別室で会うべきだった。
異母兄とはいえ男が、メルシェイラの諸々を想像する様を見るのは非常に不愉快だ。
「申し訳ございません。それほど急ぎという訳ではないのですが」
では来るな、と思いはしたが言葉にはしなかった。
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