月誓歌

有須

文字の大きさ
上 下
135 / 207
修道女、星に祈る

7

しおりを挟む
「……ああ、これは」
 メイラを一目見るなり、猊下の顔色が曇った。
 あの後、何事もなかったかのように呼吸を取り戻したメイラは、いったい何が起こったのかわからず首を傾げながらも、有能なメイドたちによって身支度を整えられた。
 部屋着にショールという猊下をお迎えするにはあまりにも簡単なものだが、臥せっていたのだからそれでも十分と、至極リラックスした服装の陛下が仰るのだ。ベッドの上から。
 もう一度言う。陛下が寛いでいるのは先ほどまでメイラが休んでいたベッドだ。
 世界最大の宗教組織であり、国境を越え影響力を持つ中央神殿の教皇猊下がいらっしゃるのだ。陛下にとっても、丁重におもてなしするべき相手だと思うのだが。
「はっきり残ってしまったね」
「……?」
 来客には無関心と態度で示す夫に代わり、まずは挨拶と淑女としての礼を取る。続いて口上を述べようとしたところで、メイラは猊下の表情に気づいた。
 どうしてそんな、痛まし気な顔をしているのだろう。
「手首を見てごらん」
 言われて見下ろした腕に、特に変わったところはない。
「右手首だよ」
 言われて初めて気づく程度の『徴し』だった。
 血色のあまり良く無い手首にぐるりと一周、蔦模様のような白い筋がある。
「御神に触れられてしまった証しだ」
「御神?!」
 ひっと息を飲んだメイラに、猊下は小さく頷いた。
 そしてやおら、立ち襟の前のホックを外し、インナーのハイネックをも少し下げる。
「……見えるかい?」
「く、首に」
「主神ラーンによって付けられた『徴し』だ」
 首にぐるりと一周、メイラのものよりずっと濃く、白というよりも銀色の紋様が刻まれていた。
 それを見て衝撃を受けたメイラの背後で、衣擦れの音と共にベッドが軋んだ。
「まるで首輪だな」
「……陛下!」
「そうだね、エゼルバード陛下。わたしもそう思う」
 まるで悲しい事を言われたかのように、猊下は少し眦を下げて苦笑した。
「君の状態にもう少し早く気づけば、触れられる前に何とかできたのに。ごめんね」
「……あ」
 不意に、とてつもない恐怖が沸き上がってきた。
 あの直視すらかなわない深い闇色をしていた御神には、深い畏敬の念を抱いているが、その事ではない。
 御神に触れてしまった事で、陛下の妻であると名乗れなくなる可能性があると気づいたからだ。
「大丈夫だよ、愛しい子」
 そんなメイラの頬に手を伸ばし、猊下は穏やかな口調で言った。
「君が望むようにするがいい。御徴がある者すべてが神職なわけではない」
 果たしてそれが事実か分からない。メイラが知る限り、神の寵愛をうけたとされる御徴を身体のどこかに刻まれた者は、そのほとんどが中央神殿の高位神職だからだ。
「だがしかし、あまり他所に知られないほうがいいね。幸いにも目立たない場所だし、目立たない色だ」
「……妻に触れるな」
「血を分けた孫を愛でるぐらいかまわないだろう?」
 表ざたにはするべきではないことをさらりと暴露してくれた猊下にぎょっとしたが、それ以上に、陛下がまったく動じなかったことに驚いた。
「触れるな」
「やれやれ、身内にまで悋気? それとも、御徴をつけられたことを怒ってる?」
 父に聞いたのだろうか?
 真偽がどうも怪しいので、できれば知られたくなかったのだが。
「図星か。噂と違い随分と狭量だねぇ」
 むき出しの太い腕が腹に回されて、ぐっと後ろに引き寄せられた。
 かなり強引に引き離され、メイラは反応に困り、猊下は軽く肩をすくめ苦笑する。
「気を付けるがいい、エゼルバード陛下。あなたの掌中の珠を奪われないように」
 ますます腕の力が強まり、同時に、固い胸板に抱き込まれる形になった。
 ふわりといい匂いがして、頭上に口づけを落とされたのがわかった。
 猊下の前なのに!
 真っ赤になったメイラに、猊下の表情が優しく綻ぶ。
 すいませんすいません! と叫び出したいのを、唇を引き結んでなんとか我慢した。
「メルシェイラ、愛しい子。何が起こったか知りたいかい?」
「知る必要はない」
「鳥かごの鳥じゃないんだから、彼女には知る権利があるよ」
「二度と外には出さん」
「羽をもぎ、鳥かごの奥深くに仕舞い込むつもり?」
「陛下! ……猊下も」
 口論になりそうだったので、慌てて止めに入った。
 背後の陛下の表情はわからないが、猊下の整った顔には満面の笑み。
 ……少しわかってきたのだが、この方の笑顔は要警戒だ。
「やめておこう、可愛いメルシェイラが泣き出しそうじゃないか」
 そう言って、やさし気な微笑でメイラの懐疑心をうやむやにする。
「きちんとは話しておこうね。そうそう、先に言っておかなければいけないことがあった。ミッシェル君は保護できたよ。今はリンゼイ枢機卿と一緒にいるから安心して」
「ほ、本当でございますか?!」
「落ち着いたら会ってあげるといい。おそらくあの子は、リンゼイ枢機卿預かりで中央神殿に行くことになるだろうから」
「……えっ」
「特殊なギフトのある子だね? だから誘拐されたのだと思うよ」
 メイラの中での彼は、泣き虫で身体の弱い幼児だ。夜泣きも多く、三歳にしてまだ言葉も覚束ないような子だった。ギフト……つまりは生まれ持っての能力など、片鱗すら感じたことはない。
「それは……他者に利用される可能性のある能力だということでしょうか」
「いいや、むしろ本人の気質に左右されるものだと言った方がいいね。……きちんと教育を受け、制御を学べば、多くの人に恵みをもたらす人間になるだろう。あまり心配しないで」
「あの、あの子には血のつながりはないのですが、兄弟のように育った兄がいまして」
「ああ、君に生卵を投げつけ、挙句に賊を手引きした子だね」
 にっこり。
 猊下はものすごい笑顔だったが、真正面からそれを見てしまったメイラの肝はひんやりと冷えた。
「ち、違うのです。いえ、違いはしないのですが、その」
「わかっているよ」
 生卵の件は、投げられたのではなくて警告してくれたのだとフォローしようとして、あれ、もしかしてメイラたちをあの場所に連れて行くためにわざとそうしたのではないか、と気づく。
 無意識のうちに眉が下がり、情けない表情になってしまったが、そんなメイラの頭を撫でたのは大きな陛下の手だった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

娼館で元夫と再会しました

無味無臭(不定期更新)
恋愛
公爵家に嫁いですぐ、寡黙な夫と厳格な義父母との関係に悩みホームシックにもなった私は、ついに耐えきれず離縁状を机に置いて嫁ぎ先から逃げ出した。 しかし実家に帰っても、そこに私の居場所はない。 連れ戻されてしまうと危惧した私は、自らの体を売って生計を立てることにした。 「シーク様…」 どうして貴方がここに? 元夫と娼館で再会してしまうなんて、なんという不運なの!

【完結】お世話になりました

こな
恋愛
わたしがいなくなっても、きっとあなたは気付きもしないでしょう。 ✴︎書き上げ済み。 お話が合わない場合は静かに閉じてください。

【本編完結】若き公爵の子を授かった夫人は、愛する夫のために逃げ出した。 一方公爵様は、妻死亡説が流れようとも諦めません!

はづも
恋愛
本編完結済み。番外編がたまに投稿されたりされなかったりします。 伯爵家に生まれたカレン・アーネストは、20歳のとき、幼馴染でもある若き公爵、ジョンズワート・デュライトの妻となった。 しかし、ジョンズワートはカレンを愛しているわけではない。 当時12歳だったカレンの額に傷を負わせた彼は、その責任を取るためにカレンと結婚したのである。 ……本当に好きな人を、諦めてまで。 幼い頃からずっと好きだった彼のために、早く身を引かなければ。 そう思っていたのに、初夜の一度でカレンは懐妊。 このままでは、ジョンズワートが一生自分に縛られてしまう。 夫を想うが故に、カレンは妊娠したことを隠して姿を消した。 愛する人を縛りたくないヒロインと、死亡説が流れても好きな人を諦めることができないヒーローの、両片想い・幼馴染・すれ違い・ハッピーエンドなお話です。

仲の良かったはずの婚約者に一年無視され続け、婚約解消を決意しましたが

ゆらゆらぎ
恋愛
エルヴィラ・ランヴァルドは第二王子アランの幼い頃からの婚約者である。仲睦まじいと評判だったふたりは、今では社交界でも有名な冷えきった仲となっていた。 定例であるはずの茶会もなく、婚約者の義務であるはずのファーストダンスも踊らない そんな日々が一年と続いたエルヴィラは遂に解消を決意するが──

王女、騎士と結婚させられイかされまくる

ぺこ
恋愛
髪の色と出自から差別されてきた騎士さまにベタ惚れされて愛されまくる王女のお話。 性描写激しめですが、甘々の溺愛です。 ※原文(♡乱舞淫語まみれバージョン)はpixivの方で見られます。

夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました

氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。 ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。 小説家になろう様にも掲載中です

セレナの居場所 ~下賜された側妃~

緑谷めい
恋愛
 後宮が廃され、国王エドガルドの側妃だったセレナは、ルーベン・アルファーロ侯爵に下賜された。自らの新たな居場所を作ろうと努力するセレナだったが、夫ルーベンの幼馴染だという伯爵家令嬢クラーラが頻繁に屋敷を訪れることに違和感を覚える。

皇太子の子を妊娠した悪役令嬢は逃げることにした

葉柚
恋愛
皇太子の子を妊娠した悪役令嬢のレイチェルは幸せいっぱいに暮らしていました。 でも、妊娠を切っ掛けに前世の記憶がよみがえり、悪役令嬢だということに気づいたレイチェルは皇太子の前から逃げ出すことにしました。 本編完結済みです。時々番外編を追加します。

処理中です...