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修道女、抱きしめようとして気づく
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夜会が執り行われるタロス城は、山側に向かって騎馬で一時間、馬車だと二時間程度の近場にある。
隣接していると言ってもいい二つの大都市の間は、都会というには自然が多いが、田舎というにはしっかりと整備された街道でつながっている。
メイラの故郷の街リゼルは、その街道の中ほどから西側へ分岐した先にあった。
波が穏やかな入り江という好立地のザガンとは違い、小高い丘からも見える海は岩場の多い断崖で、熟練の船乗りでも座礁しかねないほどの難所だ。
故に海が傍にあるにもかかわらず、第一次産業としては漁業ではなく農業や牧畜で成り立っている。独特な地形と植栽がもたらす情景の見事さと、都会から比較的近いという立地条件から、貴族たちの別荘が多く立ち並ぶ景観地でもあった。
そんな懐かしい故郷の風景が、今や見るも無残なものと化してしまっている。
「……ああ、なんてこと」
分厚いマントで身を包んだメイラが、震える声をフードの内側に落とした。
食用の草を集めるため幾度となく歩き回った丘の上に立ち、遠目にも黒く煤けた街並みを見下ろして涙をこらえる。
ひどい火事だったのだろう。週末の災禍であればもう数日は経っているはずなのに、いまだに燻ぶった臭いがこの距離まで漂い、襲撃の爪痕がまざまざと見てとれる。
ここでの暮らしは辛い事のほうが多かった気がするが、紛れもなくメイラの故郷であり、多くの孤児を受け入れてくれる善良な人々の多い街でもあった。
いつも寄付をしてくれたご婦人方は無事だろうか。
孤児院にパンを持ってきてくれる老夫婦は、孤児院から卒業して、街で食堂を開いた若い夫婦はどうなったのだろう。
雲一つない普段通りの晴天が、ひどく非現実的で残酷に見えた。
「急ぎましょう」
メイラを鞍の前に乗せたマローが、耳元で言った。
「誤魔化せるのは二時間が限度です」
父は用意があるからと、一足先にザガンの街を出た。
メイラたちは猊下と同道するということで、白装束の騎士団に守られ街道をすすんでいる。
教皇猊下の御巡幸を一目見ようと、街道の両脇は人々で溢れていた。
行く手を塞ぐような不届き者はいくとも、猊下が笑顔を振りまき信徒たちを寿いで行くので、一行の歩みは遅い。
人々に顔を見せ、手を振るのもご公務の一環だそうで、ひときわ歓声を浴びにぎやかなのは行列の中ほど。
狙われているという事情もあって、メイラたちはそのずっと後方。周囲は神殿騎士たちで囲まれているが、内側を守るのは後宮近衛の女性騎士たちで、メイラの馬車は厳重な警護の中にあるといってもいい。
ただし、窓もカーテンもしっかりと閉ざされた馬車の中に、彼女はいない。
警護をしてくれている騎士たちには申し訳ないが、ザガンを出た時にはもう馬車は空だったのだ。
ユリたちメイドはカモフラージュの為に普段通りに勤務している。
メイラの影武者を務めるのは、コートの下に似合わないドレスを着こんだ二等女官のマロニアだ。
小柄で華奢なメイラの代役ができるのは彼女ぐらいだからという選択だが、命を狙われているというのに申し訳ない。
両手を握って、すぐに戻ると約束してきたが、大丈夫だろうか。恐ろしい思いはしていないだろうか。
「……街には入りません。修道院は」
「この灌木の丘を挟んで、海側にあるわ」
目線の高さほどの低木が枯れた大地に張り付いたこの丘は、普段は海からの風を防ぎ塩害を軽減してくれる天然の防壁だ。
しかしおそらく、敵が近くに来ていることに気付けなかった原因でもあるだろう。
ここには父がたまに執務に使う離宮があるが、父が不在のときにはごっそりと兵士たちも引き上げるので、堅牢な見た目に反して防備は薄かったのだと思う。
そしていったん街を取り囲む塀の内側に入ってしまえば、今の季節外からくる者などほとんどいないので、襲撃のことが外部に伝わらなかったのだろう。
三日、街は海賊に支配されていたのだと聞く。
子供たちはもちろんだが、知己の人々がどんなに恐ろしい思いをしたのか想像するだけで、ぶるぶると全身が震える。
マローが葦毛の馬の手綱を引き、向きを変えても、メイラの視線は燻ぶり続ける街から離れることはなかった。
お忍びのメイラに同行しているのは、全部で十名。
馬は五頭で、その全員が二人乗りで同じ服装をしている。
女性ばかりだからできることで、もちろんどの馬にメイラが乗っているか分からなくする細工だ。
ちなみに、女性用のコートを頭からかぶせられたハリソンは道案内役のため先頭だ
彼は十三歳だが、まだ成長期が来ておらず、声変わりもしていない。しかし、どこからどう見ても少年なので、女装させられた姿には違和感しかない。
時折懇願するような目でこちらを見てくるが……ごめんなさい。この件に関しては、メイラに決定権はないのだ。
リゼルの街まで行きたいという我儘に、ルシエラが出した条件は大きく二つ。
何が起ころうとも、二時間以内に戻る事。
知人に出会っても、一切口を開かない事。
帰省の為に戻ってきていたハリソンと再会した時、思わず抱きしめようとしたメイラを、ドレスの襟首をつかむという暴挙で止めたのはルシエラだ。
相手が子供であっても、過度な接触は許されないらしい。
先頭を行くハリソンが、同乗しているキンバリーに前方を指さして何か言っている。
そうだ。灌木の切れたその場所から、修道院の屋根が良く見えるのだ。
数秒後、メイラの目にも海際の絶壁に建つ懐かしい修道院が飛び込んできた。
―――帰ってきた。
はっきりと、自身の心がそういうのを聞いた。
しかし、見慣れているはずの修道院の壁は、黒く煤けている。
窓は割れ、唯一の自慢だったステンドグラスも見る影もない。
もともと修繕が必要で、雨漏りや壁のひびなどはあちこちにあったが、古びた建物がまるで廃屋のようになってしまっている。まともに人が住める状態なのだろうか。いや、今も子供たちはここにいると聞いてきたのだが……
少し遠巻きにする位置で、下馬した。
一見酷い有様に見えたが、よく見ると物干しのロープが張られていて、洗濯物がたなびいている。
その、生成りの粗末な子供服の連なりに、例えようもないほどの安堵と喜びが沸き起こってくる。
無事なのだ。子供たちは、本当に生き延びてくれたのだ!
がくりと膝から力が抜けそうになった。
マローが支えてくれなければ、その場でみっともなく尻餅をついていたかもしれない。
「……よかった」
「お、俺みんなのところに行ってくる」
ハリソンが、平民らしい不躾な口調で、いくらかの非難の目を向けられながら言った。
「ねぇちゃんが来てること、言ったらダメなんだろう?」
一度ルシエラに何か言われたらしく、人間を三人ほど挟んだこの距離でも緊張した様子だ。
「でも、あとから教えてやりたいから、何かくれよ。ハンカチとか、ねぇちゃんの刺繍だってわかるやつ」
養子に行くために、綺麗な公用語も学んでいたはずのハリソンが、昔からの気安い口調で話しかけてくれるのがうれしくて……
「ごめんなさい。今は何も持っていなくて……皆の役に立てればと思って、金目の物を少し持ってきたの。綺麗な宝石が埋め込まれていて、」
「メルベル!」
ルシエラとの約束を破ったのは、故意にではない。
しかし、鋭く仮の名を呼ばれた瞬間、何かものすごくまずい事が起こったのだと気づいた。
メイラ本人だと判別しにくいように、皆同じ服装をしていたのだ。
同じ理由で、ハリソンとも会話しないようにと言い含められていたのだ。
メイラは、信じられない思いで目を見開いた。
目前に迫っているのは、ハリソンの小さな拳。いや、その手の甲に装着された旅人用の防具。
一部がきらりと光りを弾いて、何か刃物か針のようなものが仕込まれていると分かったが、あまりにも至近距離だったので、どんくさいメイラに対処など出来るはずもなかった。
しかし、久々に間近で見たハリソンの目が、濡れたように光っているのに気づいた。
顔から血の気が引いて、唇が震えている。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
彼の、声にならない言葉が聞こえてくるようだった。
素人の目には捕えきれない動きで、すべてが推移した。
メイラを守る近衛騎士たちは、たかが子供に出し抜かれるような間抜けではない。
「ルシエラ駄目よ!!」
抜身の剣を振りかぶっていたルシエラの背中が、ぴくりと反応した。
すでにもう一太刀浴びて吹き飛んだハリソンが、斜面をずるりと滑り落ちていく。
しかし素人目にも、器用に受け身を取って体勢を立て直したのが見てとれた。
「……暗殺者ギルドか」
そんなわけがない。
あの子は気立てが良くて、面倒見が良くて、頭の出来もいい子だった。
メイラのあとをずっとついてくる可愛い弟だった。
吐き捨てるルシエラの言葉に、必死で首を左右に振る。
しかしどんなに否定しようとも、メイラに向けられたハリソンの視線がすべてを物語っていた。
隣接していると言ってもいい二つの大都市の間は、都会というには自然が多いが、田舎というにはしっかりと整備された街道でつながっている。
メイラの故郷の街リゼルは、その街道の中ほどから西側へ分岐した先にあった。
波が穏やかな入り江という好立地のザガンとは違い、小高い丘からも見える海は岩場の多い断崖で、熟練の船乗りでも座礁しかねないほどの難所だ。
故に海が傍にあるにもかかわらず、第一次産業としては漁業ではなく農業や牧畜で成り立っている。独特な地形と植栽がもたらす情景の見事さと、都会から比較的近いという立地条件から、貴族たちの別荘が多く立ち並ぶ景観地でもあった。
そんな懐かしい故郷の風景が、今や見るも無残なものと化してしまっている。
「……ああ、なんてこと」
分厚いマントで身を包んだメイラが、震える声をフードの内側に落とした。
食用の草を集めるため幾度となく歩き回った丘の上に立ち、遠目にも黒く煤けた街並みを見下ろして涙をこらえる。
ひどい火事だったのだろう。週末の災禍であればもう数日は経っているはずなのに、いまだに燻ぶった臭いがこの距離まで漂い、襲撃の爪痕がまざまざと見てとれる。
ここでの暮らしは辛い事のほうが多かった気がするが、紛れもなくメイラの故郷であり、多くの孤児を受け入れてくれる善良な人々の多い街でもあった。
いつも寄付をしてくれたご婦人方は無事だろうか。
孤児院にパンを持ってきてくれる老夫婦は、孤児院から卒業して、街で食堂を開いた若い夫婦はどうなったのだろう。
雲一つない普段通りの晴天が、ひどく非現実的で残酷に見えた。
「急ぎましょう」
メイラを鞍の前に乗せたマローが、耳元で言った。
「誤魔化せるのは二時間が限度です」
父は用意があるからと、一足先にザガンの街を出た。
メイラたちは猊下と同道するということで、白装束の騎士団に守られ街道をすすんでいる。
教皇猊下の御巡幸を一目見ようと、街道の両脇は人々で溢れていた。
行く手を塞ぐような不届き者はいくとも、猊下が笑顔を振りまき信徒たちを寿いで行くので、一行の歩みは遅い。
人々に顔を見せ、手を振るのもご公務の一環だそうで、ひときわ歓声を浴びにぎやかなのは行列の中ほど。
狙われているという事情もあって、メイラたちはそのずっと後方。周囲は神殿騎士たちで囲まれているが、内側を守るのは後宮近衛の女性騎士たちで、メイラの馬車は厳重な警護の中にあるといってもいい。
ただし、窓もカーテンもしっかりと閉ざされた馬車の中に、彼女はいない。
警護をしてくれている騎士たちには申し訳ないが、ザガンを出た時にはもう馬車は空だったのだ。
ユリたちメイドはカモフラージュの為に普段通りに勤務している。
メイラの影武者を務めるのは、コートの下に似合わないドレスを着こんだ二等女官のマロニアだ。
小柄で華奢なメイラの代役ができるのは彼女ぐらいだからという選択だが、命を狙われているというのに申し訳ない。
両手を握って、すぐに戻ると約束してきたが、大丈夫だろうか。恐ろしい思いはしていないだろうか。
「……街には入りません。修道院は」
「この灌木の丘を挟んで、海側にあるわ」
目線の高さほどの低木が枯れた大地に張り付いたこの丘は、普段は海からの風を防ぎ塩害を軽減してくれる天然の防壁だ。
しかしおそらく、敵が近くに来ていることに気付けなかった原因でもあるだろう。
ここには父がたまに執務に使う離宮があるが、父が不在のときにはごっそりと兵士たちも引き上げるので、堅牢な見た目に反して防備は薄かったのだと思う。
そしていったん街を取り囲む塀の内側に入ってしまえば、今の季節外からくる者などほとんどいないので、襲撃のことが外部に伝わらなかったのだろう。
三日、街は海賊に支配されていたのだと聞く。
子供たちはもちろんだが、知己の人々がどんなに恐ろしい思いをしたのか想像するだけで、ぶるぶると全身が震える。
マローが葦毛の馬の手綱を引き、向きを変えても、メイラの視線は燻ぶり続ける街から離れることはなかった。
お忍びのメイラに同行しているのは、全部で十名。
馬は五頭で、その全員が二人乗りで同じ服装をしている。
女性ばかりだからできることで、もちろんどの馬にメイラが乗っているか分からなくする細工だ。
ちなみに、女性用のコートを頭からかぶせられたハリソンは道案内役のため先頭だ
彼は十三歳だが、まだ成長期が来ておらず、声変わりもしていない。しかし、どこからどう見ても少年なので、女装させられた姿には違和感しかない。
時折懇願するような目でこちらを見てくるが……ごめんなさい。この件に関しては、メイラに決定権はないのだ。
リゼルの街まで行きたいという我儘に、ルシエラが出した条件は大きく二つ。
何が起ころうとも、二時間以内に戻る事。
知人に出会っても、一切口を開かない事。
帰省の為に戻ってきていたハリソンと再会した時、思わず抱きしめようとしたメイラを、ドレスの襟首をつかむという暴挙で止めたのはルシエラだ。
相手が子供であっても、過度な接触は許されないらしい。
先頭を行くハリソンが、同乗しているキンバリーに前方を指さして何か言っている。
そうだ。灌木の切れたその場所から、修道院の屋根が良く見えるのだ。
数秒後、メイラの目にも海際の絶壁に建つ懐かしい修道院が飛び込んできた。
―――帰ってきた。
はっきりと、自身の心がそういうのを聞いた。
しかし、見慣れているはずの修道院の壁は、黒く煤けている。
窓は割れ、唯一の自慢だったステンドグラスも見る影もない。
もともと修繕が必要で、雨漏りや壁のひびなどはあちこちにあったが、古びた建物がまるで廃屋のようになってしまっている。まともに人が住める状態なのだろうか。いや、今も子供たちはここにいると聞いてきたのだが……
少し遠巻きにする位置で、下馬した。
一見酷い有様に見えたが、よく見ると物干しのロープが張られていて、洗濯物がたなびいている。
その、生成りの粗末な子供服の連なりに、例えようもないほどの安堵と喜びが沸き起こってくる。
無事なのだ。子供たちは、本当に生き延びてくれたのだ!
がくりと膝から力が抜けそうになった。
マローが支えてくれなければ、その場でみっともなく尻餅をついていたかもしれない。
「……よかった」
「お、俺みんなのところに行ってくる」
ハリソンが、平民らしい不躾な口調で、いくらかの非難の目を向けられながら言った。
「ねぇちゃんが来てること、言ったらダメなんだろう?」
一度ルシエラに何か言われたらしく、人間を三人ほど挟んだこの距離でも緊張した様子だ。
「でも、あとから教えてやりたいから、何かくれよ。ハンカチとか、ねぇちゃんの刺繍だってわかるやつ」
養子に行くために、綺麗な公用語も学んでいたはずのハリソンが、昔からの気安い口調で話しかけてくれるのがうれしくて……
「ごめんなさい。今は何も持っていなくて……皆の役に立てればと思って、金目の物を少し持ってきたの。綺麗な宝石が埋め込まれていて、」
「メルベル!」
ルシエラとの約束を破ったのは、故意にではない。
しかし、鋭く仮の名を呼ばれた瞬間、何かものすごくまずい事が起こったのだと気づいた。
メイラ本人だと判別しにくいように、皆同じ服装をしていたのだ。
同じ理由で、ハリソンとも会話しないようにと言い含められていたのだ。
メイラは、信じられない思いで目を見開いた。
目前に迫っているのは、ハリソンの小さな拳。いや、その手の甲に装着された旅人用の防具。
一部がきらりと光りを弾いて、何か刃物か針のようなものが仕込まれていると分かったが、あまりにも至近距離だったので、どんくさいメイラに対処など出来るはずもなかった。
しかし、久々に間近で見たハリソンの目が、濡れたように光っているのに気づいた。
顔から血の気が引いて、唇が震えている。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
彼の、声にならない言葉が聞こえてくるようだった。
素人の目には捕えきれない動きで、すべてが推移した。
メイラを守る近衛騎士たちは、たかが子供に出し抜かれるような間抜けではない。
「ルシエラ駄目よ!!」
抜身の剣を振りかぶっていたルシエラの背中が、ぴくりと反応した。
すでにもう一太刀浴びて吹き飛んだハリソンが、斜面をずるりと滑り落ちていく。
しかし素人目にも、器用に受け身を取って体勢を立て直したのが見てとれた。
「……暗殺者ギルドか」
そんなわけがない。
あの子は気立てが良くて、面倒見が良くて、頭の出来もいい子だった。
メイラのあとをずっとついてくる可愛い弟だった。
吐き捨てるルシエラの言葉に、必死で首を左右に振る。
しかしどんなに否定しようとも、メイラに向けられたハリソンの視線がすべてを物語っていた。
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