月誓歌

有須

文字の大きさ
上 下
109 / 207
修道女、自称おじいさまから壮大すぎるお話を聞く

4

しおりを挟む
「おはようございます、猊下」
 メイラは深々とカテーシーをして、入室してきた教皇猊下を迎えた。
「昨夜は申し訳ございませんでした。早々に眠ってしまって」
「長旅に疲れていたのだろう、気にすることはないよ」
 微笑む表情はとても柔らかい。
 この人のどこに用心すればよいのかわからず、詳しい話をしてくれなかった父に心の中で苦情を言いながら微笑み返す。
「父は所用で早朝から出ております。昼過ぎには戻るそうですので、それまでわたくしがお相手を務めさせていただきます」
「そうか! 君と一日一緒にいれると思うとうれしいよ」
 なんだか誤解を招きそうな台詞だだが、スルーする。
 メイラがにっこりと微笑むと、猊下からも満面の笑顔が返ってきた。
「まずは朝食をどうぞ。搾りたてのオレンジの果汁と、焼きあがったばかりのパンが美味ですよ」
 父の代役としてのホステス役をなんとかこなし、美しくカトラリーがセットされたテーブルに猊下とリンゼイ師を招く。
 実のところ、昨夜からあまり眠っていなかった。メイラについているという影者が手洗いにまでついてくるのを防止するべく、説得に時間がかかったのだ。
 しかし成し遂げた成果にテンションが上がっており、疲れは感じない。
 ものすごく条件をつけられたが、なんとか個人の尊厳を死守することが出来た。排せつ中ウンウン言っているところをずっと見られているなどぞっとする。それだけは本当に勘弁して欲しい。
 爽やかな朝。いい匂いのする朝食を前に考えることではないが、トイレの個室の確保に夢見心地になってふわりと微笑む。
「君の笑顔は本当に美しいね。後宮であまたの花の中にあってもきっと際立っているに違いない」
「まあ、お世辞でもありがとうございます」
 これでドレスの裾を捲っても恥ずかしくない。いくら警護のためとはいえ、むき出しの尻を見られるなど……子供でもあるまいし。
「エゼルバード帝にはとても大切にされていると聞くよ、愛しい子」
「はい。ありがたいことです」
「何かあればいつでも言うがいい」
 重要なプライバシーを確保できました!……と朝食を前にして宣言するわけにもいかず、メイラはあたりさわりない笑みを唇に浮かべ、給仕が引く椅子に腰を下ろした。
 和やかな食事をしながらも、頭の片隅ににはずっと父の言葉があった。
 その意味を理解しようにも、ヒントがなにもないのだ。この方の言葉に嘘があるのか? 例えばどこに?
 大切に思ってくれているのは事実だろう。例の御神の骨についても、嘘だとは思わない。
「祭事は明後日の早朝からだ。明日の夕刻から潔斎にはいるので、それまで君の時間をくれないか」
「おや、まるで恋人に乞うているようなお言葉ですな」
「ははは、そうかもしれない」
「リンゼイ師! 猊下も」
「ははは、怒られてしまったではないか」
 猊下はずっと上機嫌だった。気のせいだろうか、常にメイラから視線が離れず、目が合うたびに機嫌のメモリが上昇しているように見える。
「今夜はタロス城で猊下を歓迎する夜会を行うそうです」
 移動に時間がかかるし、特にメイラの方にはドレスの着付けなどの準備がある。
「さぼってはいけないかな」
「美しく装った使徒メイラを見損ねますよ」
「……ああ、それはもったいない」
 朝食の間中、にこやかな空気は続いた。
 輝くような笑顔と美味な朝食、しかも神職とは言え見目麗しい男性が同じテーブルにいるとなれば、世の女性陣から羨望の眼差しで見られそうな状況だ。
 かなりの至近距離に護衛の近衛騎士と神殿騎士が居ることを気にしなければ、だが。
 状況が状況だけに、ものものしい雰囲気は拭えず、それでも朗らかな猊下たちの胆力に感心する。
「食後腹ごなしに散歩でもどうかな?」
「いいですな」
「あなたを誘ったわけではないよ、リンゼイ枢機卿」
「おお、なんとつれない」
 テンポの良いふたりの掛け合いに、思わずメイラも笑顔を浮かべる。
 しかし当然だが、今のこの状況を忘れてはならない。
「……出歩いて大丈夫でしょうか?」
 狙われていると分かっていて、勝手な行動はできない。
 メイラがそう問うと、二人の神職はそろってこちらを見て、似たような表情で微笑んだ。
「君を守る騎士たちを信頼すると良い。優秀な彼らに任せておけば大丈夫」
「ですが」
「危ないのは護衛の目が少なくなる時。状態に慣れて油断した頃だよ」
 素人にはよくわからないが、長年重職にある猊下のいう事に間違いはないのだろう。
「ということだから、散歩に行こう。ずっと部屋に籠っていては気分が塞ぐ」
「……はい、猊下」
 否を言えるような雰囲気ではなかった。
「使徒メイラも良く知っているでしょうが、このあたりではエリカの木立が有名ですよ」
「ああ、来る途中に見たよ。燃えるように赤い見事な並木だった」
 有名どころの観光地について、ああでもないこうでもないと語り合う二人の姿は、かなり能天気すぎるのではと思わざるを得ない。
 しかし逆を言えば、気を張っている彼女への気遣いなのかもしれなかった。
「少し歩くから、温かい服装をしておいで」
「久々にクリスマスローズの群生地を見に行きたいですな」
 ふたりの温かな表情を見ていると、疑ってかかる己がなんとも卑しい気がして眉が下がる。
 メイラは食事を終え口元をナフキンで軽く押さえながら、気づかれない程度に顔を伏せた。
 猊下たちのどこに気を付ければいいのだろう。何に油断してはいけないのだろう。
 例えばそれが、好意を寄せるなとか、約束事をするなとかいうことであれば、一介の小娘には難しいと言わざるを得ない。
「もう少し食べたほうがいいのではないか? 愛しい子」
 具体的なことは何も言わなかった父を恨みながら、気遣わし気な猊下の問いかけに複雑な笑みを返す。
 基本的に人間の善性などあてにはならないと思っているメイラだが、一度信じると決めた人間のことはなかなか疑えない気質を自覚してもいた。
「これから寒くなる。体力を蓄える為にももっと沢山食べなさい」
 聞き慣れた師の懐かしい台詞に、以前であれば「冬眠する熊じゃないんですから」と答えていたところだ。
 疑える要素のまったくない好々爺然とした顔を見ながら、どこかで緊張していた心が緩み、本心からの笑みが唇に浮かんでいることに気づいた。
 いつの間にか、ふたりの穏やかな空気感に巻き込まれている。
 そしてそれは居心地がよく、不安に揺れるメイラの精神を限りなくフラットに落ち着けてくれる。
 ちらり、と何かがわかったような気がした。
しおりを挟む
感想 94

あなたにおすすめの小説

王子殿下の慕う人

夕香里
恋愛
エレーナ・ルイスは小さい頃から兄のように慕っていた王子殿下が好きだった。 しかし、ある噂と事実を聞いたことで恋心を捨てることにしたエレーナは、断ってきていた他の人との縁談を受けることにするのだが──? 「どうして!? 殿下には好きな人がいるはずなのに!!」 好きな人がいるはずの殿下が距離を縮めてくることに戸惑う彼女と、我慢をやめた王子のお話。 ※小説家になろうでも投稿してます

それぞれのその後

京佳
恋愛
婚約者の裏切りから始まるそれぞれのその後のお話し。 ざまぁ ゆるゆる設定

あなたには、この程度のこと、だったのかもしれませんが。

ふまさ
恋愛
 楽しみにしていた、パーティー。けれどその場は、信じられないほどに凍り付いていた。  でも。  愉快そうに声を上げて笑う者が、一人、いた。

【完結】皇太子の愛人が懐妊した事を、お妃様は結婚式の一週間後に知りました。皇太子様はお妃様を愛するつもりは無いようです。

五月ふう
恋愛
 リックストン国皇太子ポール・リックストンの部屋。 「マティア。僕は一生、君を愛するつもりはない。」  今日は結婚式前夜。婚約者のポールの声が部屋に響き渡る。 「そう……。」  マティアは小さく笑みを浮かべ、ゆっくりとソファーに身を預けた。    明日、ポールの花嫁になるはずの彼女の名前はマティア・ドントール。ドントール国第一王女。21歳。  リッカルド国とドントール国の和平のために、マティアはこの国に嫁いできた。ポールとの結婚は政略的なもの。彼らの意志は一切介入していない。 「どんなことがあっても、僕は君を王妃とは認めない。」  ポールはマティアを憎しみを込めた目でマティアを見つめる。美しい黒髪に青い瞳。ドントール国の宝石と評されるマティア。 「私が……ずっと貴方を好きだったと知っても、妻として認めてくれないの……?」 「ちっ……」  ポールは顔をしかめて舌打ちをした。   「……だからどうした。幼いころのくだらない感情に……今更意味はない。」  ポールは険しい顔でマティアを睨みつける。銀色の髪に赤い瞳のポール。マティアにとってポールは大切な初恋の相手。 だが、ポールにはマティアを愛することはできない理由があった。 二人の結婚式が行われた一週間後、マティアは衝撃の事実を知ることになる。 「サラが懐妊したですって‥‥‥!?」

忘却令嬢〜そう言われましても記憶にございません〜【完】

雪乃
恋愛
ほんの一瞬、躊躇ってしまった手。 誰よりも愛していた彼女なのに傷付けてしまった。 ずっと傷付けていると理解っていたのに、振り払ってしまった。 彼女は深い碧色に絶望を映しながら微笑んだ。 ※読んでくださりありがとうございます。 ゆるふわ設定です。タグをころころ変えてます。何でも許せる方向け。

愛することをやめたら、怒る必要もなくなりました。今さら私を愛する振りなんて、していただかなくても大丈夫です。

石河 翠
恋愛
貴族令嬢でありながら、家族に虐げられて育ったアイビー。彼女は社交界でも人気者の恋多き侯爵エリックに望まれて、彼の妻となった。 ひとなみに愛される生活を夢見たものの、彼が欲していたのは、夫に従順で、家の中を取り仕切る女主人のみ。先妻の子どもと仲良くできない彼女をエリックは疎み、なじる。 それでもエリックを愛し、結婚生活にしがみついていたアイビーだが、彼の子どもに言われたたった一言で心が折れてしまう。ところが、愛することを止めてしまえばその生活は以前よりも穏やかで心地いいものになっていて……。 愛することをやめた途端に愛を囁くようになったヒーローと、その愛をやんわりと拒むヒロインのお話。 この作品は他サイトにも投稿しております。 扉絵は、写真ACよりチョコラテさまの作品(写真ID 179331)をお借りしております。

王妃の仕事なんて知りません、今から逃げます!

gacchi
恋愛
側妃を迎えるって、え?聞いてないよ? 王妃の仕事が大変でも頑張ってたのは、レオルドが好きだから。 国への責任感?そんなの無いよ。もういい。私、逃げるから! 12/16加筆修正したものをカクヨムに投稿しました。

〈完結〉八年間、音沙汰のなかった貴方はどちら様ですか?

詩海猫
恋愛
私の家は子爵家だった。 高位貴族ではなかったけれど、ちゃんと裕福な貴族としての暮らしは約束されていた。 泣き虫だった私に「リーアを守りたいんだ」と婚約してくれた侯爵家の彼は、私に黙って戦争に言ってしまい、いなくなった。 私も泣き虫の子爵令嬢をやめた。 八年後帰国した彼は、もういない私を探してるらしい。 *文字数的に「短編か?」という量になりましたが10万文字以下なので短編です。この後各自のアフターストーリーとか書けたら書きます。そしたら10万文字超えちゃうかもしれないけど短編です。こんなにかかると思わず、「転生王子〜」が大幅に滞ってしまいましたが、次はあちらに集中予定(あくまで予定)です、あちらもよろしくお願いします*

処理中です...