56 / 207
修道女、にっちもさっちもいかなくなる
7
しおりを挟む
屋外はさらに一段と気温が低かった。
反射的に立ち止まりそうになってしまったメイラの背中を、マローが軽く押す。
ふらつきながらも、ダンに続いてなんとか扉をくぐり、人がひしめく大通りへと歩を進めた。
時刻は明け方というにも早い時間帯。周囲はまだ夜の闇に閉ざされ、かろうじて東の空がうすぼんやりと明るく見えるだけだ。
通りを行く人々の大半が旅装で、残りの住民たちも分厚いマントに身を包んで避難する最中だった。
寝ていたところを起こされたのか、マントの下が寝巻の者もちらほらいる。
どうしてこんなに人がひしめき合っているのかというと、領兵が急に物々しい装いで街検めを開始し、若い女性を中心に拘束しはじめたのだ。
真夜中にいきなり眠っていた女性たちを捕らえ、どこかに引き立てていくその情景に、夜明けを待たず街は騒然となった。
若い女性だけ、というのが問題だった。もともとこの街にいた者まで、とにかく闇雲に捕えているのだ。
理由は定かではないが、姉妹が、妻が、恋人が、領兵に連れて行かれる。
それを静観して状況を見守るほど、市井の者たちは楽観的ではなかった。一度拘束されてしまえば戻ってくることはないかもしれないと思う程度には、今のご時世を理解していた。
家の中に隠せるならそこに女性を隠し、あるいは街検めが来る前にこの街を出て避難させようと、一斉に動き始めたのだ。
この街に商売で来ている者や冒険者たちは、もちろん街中に隠れる場所など持たないので、さっさと立ち去るのが良しと長旅の支度をしている。
マントの下がひらひらドレスの娼婦や、隠れる当てもないのだろう労働者階級の者たちは、取り急ぎ身の回りの所持品だけひっつかんでの避難だ。
領兵に家族がいる者がひそかに触れ回ったのがきっかけで一気に情報が広がり、明け方を待たずに通りはパニックに近い混雑と化していた。
メイラは引っ張られるようにして人ごみの中を歩きながら、ぎゅっと唇を噛んだ。
状況はあまりにも良くなかった。
要するに、メイラの替え玉が発覚してしまったのだろう。
街中を総ざらいしてまで見つけたいのだ。メイラの口を塞ぎたいのだ。
そしてそれはつまり、ユリウスの任務失敗を意味している。
彼は無事だろうか。生き延びてくれているだろうか。
人波に紛れ込み目立たないように歩きながら、栗色の髪の男について考える。生き延びて出会えたら、あいつに一発張り手を見舞ってやるのだ。マローの折檻に便乗してでもいい、尻に渾身の一撃を食らわせてやる。
乙女の下着を破き、とんだ辱めを与えてくれたのだ。それぐらい甘受してもらわなければ困る。
混雑がひどくなり、次第に人の動きがノロノロとしたものになる。
遠目に領兵たちの武装姿が見え始め、人々の口から悲鳴がこぼれた。
「……まずいな、扉を閉められる」
メイラの肩を抱いたまま、マローが聞き取りにくい声でダンと言葉を交わしている。
いや、聞き取りにくいのではない。わんわんと耳鳴りがして、その意味が理解できないのだ。
「メル?」
偽名で呼ばれて、我に返る。
心配そうに見下ろしてくる二人に微笑み返そうとしたが、濁った咳がひとつこぼれただけだった。
マローが周囲に散らばった駄犬ども……いやいや、仲間だ、そう仲間。彼らに何か合図をした。
近づいてきた一人に、何か耳打ちをしている。
周囲に不審がられない程度の距離を開けてメイラを取り囲んでいた男たちが、一斉に消えた。
「……えええ」
思わず零れた驚きの声は、半ば濁音交じりの掠れたものだった。
最近の犬は消えるのか。
唖然としてそんなことを考えていると、前方で何やら騒ぎが起こった。
「なんで閉めるんだよ!!」
意を決した風で領兵にくってかかる男の声。
「俺の妹は生まれも育ちもこの街だ。なんも悪い事はしねてぇ!!」
「俺の女房もだ!」
「たのむ、お前にも家族はいるんだろう!? 街から出してくれ!!」
そうだ、そうだと人々が騒ぎ始めた。
前方で領兵がなにやら言っているが、やがて怒声が飛び交って聞こえなくなる。
ひょいっとマローに小脇に抱えられた。女性の細腕だと思うなかれ、彼女はメイラを抱えても小動もしなかった。
足が地面から浮き、ひゅっと息を飲む。
「走りますよ。舌を噛まないようにしてください」
マローの予告通りに、群衆たちは一気に街門めがけて動き始めた。
メイラは慌てて奥歯をかみしめて、上下するその動きに耐えた。
走るというよりも、人ごみを縫うような感じで、ダンを従え門へと進む。
今にも閉ざされようとしていた街の門が、群衆に押されてジリジリと開いていく。
「おい! みんな落ち着け!!」
現場の指揮官が懸命に声を張り上げているが、一度動き出した波は抑えようがなかった。
「街から出るほうが危険だ!!!」
遠くで叫ぶその言葉が気になった。もしかしたら、逃げ出した先に回り込まれているのかもしれない。
マローにそう伝えたかったが、激しく上下しているので言葉にならない。
手を伸ばせば届くほどの距離に、ダンのマントがあった。メイラを守るようにぴったりくっついている彼が、ふと気づかわし気にこちらを見る。
どういえばいいのか逡巡しているうちに、ふたたび前の方から群衆が動かなくなった。
小さく舌打ちしながら、マローもまた目立たないように足を止める。
「……なんだ、どういうことだ」
人々が不安そうに騒めくのも無理はない。
街から出る下り坂の道の先、スラム街の掘っ立て小屋が立ち並ぶ更にその向こう側に、一般市民であれば見た事もないような軍馬の一団が、整然と立ち並んでいたのだ。
それは、領兵などとはまるでちがう、本物の軍隊だった。
「……宰相旗」
宰相? この国の宰相閣下は、陛下の叔父だと記憶している。陛下の叔父だということは、まさかこの街の差配をしているのは宰相の息子なのか?
いや待て、確か宰相の娘は陛下の第三皇妃だったと記憶している。それでは、後宮のメイドや女官、メイラまでもを誘拐し、始末しようとしたのは……
「顔を下げて」
マローに言われるまでもなく、メイラはさっとフードに顔をうずめた。
これだけの人間がひしめき合っているのに、冷たい冬風の音しか聞こえなくなった。
反射的に立ち止まりそうになってしまったメイラの背中を、マローが軽く押す。
ふらつきながらも、ダンに続いてなんとか扉をくぐり、人がひしめく大通りへと歩を進めた。
時刻は明け方というにも早い時間帯。周囲はまだ夜の闇に閉ざされ、かろうじて東の空がうすぼんやりと明るく見えるだけだ。
通りを行く人々の大半が旅装で、残りの住民たちも分厚いマントに身を包んで避難する最中だった。
寝ていたところを起こされたのか、マントの下が寝巻の者もちらほらいる。
どうしてこんなに人がひしめき合っているのかというと、領兵が急に物々しい装いで街検めを開始し、若い女性を中心に拘束しはじめたのだ。
真夜中にいきなり眠っていた女性たちを捕らえ、どこかに引き立てていくその情景に、夜明けを待たず街は騒然となった。
若い女性だけ、というのが問題だった。もともとこの街にいた者まで、とにかく闇雲に捕えているのだ。
理由は定かではないが、姉妹が、妻が、恋人が、領兵に連れて行かれる。
それを静観して状況を見守るほど、市井の者たちは楽観的ではなかった。一度拘束されてしまえば戻ってくることはないかもしれないと思う程度には、今のご時世を理解していた。
家の中に隠せるならそこに女性を隠し、あるいは街検めが来る前にこの街を出て避難させようと、一斉に動き始めたのだ。
この街に商売で来ている者や冒険者たちは、もちろん街中に隠れる場所など持たないので、さっさと立ち去るのが良しと長旅の支度をしている。
マントの下がひらひらドレスの娼婦や、隠れる当てもないのだろう労働者階級の者たちは、取り急ぎ身の回りの所持品だけひっつかんでの避難だ。
領兵に家族がいる者がひそかに触れ回ったのがきっかけで一気に情報が広がり、明け方を待たずに通りはパニックに近い混雑と化していた。
メイラは引っ張られるようにして人ごみの中を歩きながら、ぎゅっと唇を噛んだ。
状況はあまりにも良くなかった。
要するに、メイラの替え玉が発覚してしまったのだろう。
街中を総ざらいしてまで見つけたいのだ。メイラの口を塞ぎたいのだ。
そしてそれはつまり、ユリウスの任務失敗を意味している。
彼は無事だろうか。生き延びてくれているだろうか。
人波に紛れ込み目立たないように歩きながら、栗色の髪の男について考える。生き延びて出会えたら、あいつに一発張り手を見舞ってやるのだ。マローの折檻に便乗してでもいい、尻に渾身の一撃を食らわせてやる。
乙女の下着を破き、とんだ辱めを与えてくれたのだ。それぐらい甘受してもらわなければ困る。
混雑がひどくなり、次第に人の動きがノロノロとしたものになる。
遠目に領兵たちの武装姿が見え始め、人々の口から悲鳴がこぼれた。
「……まずいな、扉を閉められる」
メイラの肩を抱いたまま、マローが聞き取りにくい声でダンと言葉を交わしている。
いや、聞き取りにくいのではない。わんわんと耳鳴りがして、その意味が理解できないのだ。
「メル?」
偽名で呼ばれて、我に返る。
心配そうに見下ろしてくる二人に微笑み返そうとしたが、濁った咳がひとつこぼれただけだった。
マローが周囲に散らばった駄犬ども……いやいや、仲間だ、そう仲間。彼らに何か合図をした。
近づいてきた一人に、何か耳打ちをしている。
周囲に不審がられない程度の距離を開けてメイラを取り囲んでいた男たちが、一斉に消えた。
「……えええ」
思わず零れた驚きの声は、半ば濁音交じりの掠れたものだった。
最近の犬は消えるのか。
唖然としてそんなことを考えていると、前方で何やら騒ぎが起こった。
「なんで閉めるんだよ!!」
意を決した風で領兵にくってかかる男の声。
「俺の妹は生まれも育ちもこの街だ。なんも悪い事はしねてぇ!!」
「俺の女房もだ!」
「たのむ、お前にも家族はいるんだろう!? 街から出してくれ!!」
そうだ、そうだと人々が騒ぎ始めた。
前方で領兵がなにやら言っているが、やがて怒声が飛び交って聞こえなくなる。
ひょいっとマローに小脇に抱えられた。女性の細腕だと思うなかれ、彼女はメイラを抱えても小動もしなかった。
足が地面から浮き、ひゅっと息を飲む。
「走りますよ。舌を噛まないようにしてください」
マローの予告通りに、群衆たちは一気に街門めがけて動き始めた。
メイラは慌てて奥歯をかみしめて、上下するその動きに耐えた。
走るというよりも、人ごみを縫うような感じで、ダンを従え門へと進む。
今にも閉ざされようとしていた街の門が、群衆に押されてジリジリと開いていく。
「おい! みんな落ち着け!!」
現場の指揮官が懸命に声を張り上げているが、一度動き出した波は抑えようがなかった。
「街から出るほうが危険だ!!!」
遠くで叫ぶその言葉が気になった。もしかしたら、逃げ出した先に回り込まれているのかもしれない。
マローにそう伝えたかったが、激しく上下しているので言葉にならない。
手を伸ばせば届くほどの距離に、ダンのマントがあった。メイラを守るようにぴったりくっついている彼が、ふと気づかわし気にこちらを見る。
どういえばいいのか逡巡しているうちに、ふたたび前の方から群衆が動かなくなった。
小さく舌打ちしながら、マローもまた目立たないように足を止める。
「……なんだ、どういうことだ」
人々が不安そうに騒めくのも無理はない。
街から出る下り坂の道の先、スラム街の掘っ立て小屋が立ち並ぶ更にその向こう側に、一般市民であれば見た事もないような軍馬の一団が、整然と立ち並んでいたのだ。
それは、領兵などとはまるでちがう、本物の軍隊だった。
「……宰相旗」
宰相? この国の宰相閣下は、陛下の叔父だと記憶している。陛下の叔父だということは、まさかこの街の差配をしているのは宰相の息子なのか?
いや待て、確か宰相の娘は陛下の第三皇妃だったと記憶している。それでは、後宮のメイドや女官、メイラまでもを誘拐し、始末しようとしたのは……
「顔を下げて」
マローに言われるまでもなく、メイラはさっとフードに顔をうずめた。
これだけの人間がひしめき合っているのに、冷たい冬風の音しか聞こえなくなった。
20
あなたにおすすめの小説
【完結】ずっと、ずっとあなたを愛していました 〜後悔も、懺悔も今更いりません〜
高瀬船
恋愛
リスティアナ・メイブルムには二歳年上の婚約者が居る。
婚約者は、国の王太子で穏やかで優しく、婚約は王命ではあったが仲睦まじく関係を築けていた。
それなのに、突然ある日婚約者である王太子からは土下座をされ、婚約を解消して欲しいと願われる。
何故、そんな事に。
優しく微笑むその笑顔を向ける先は確かに自分に向けられていたのに。
婚約者として確かに大切にされていたのに何故こうなってしまったのか。
リスティアナの思いとは裏腹に、ある時期からリスティアナに悪い噂が立ち始める。
悪い噂が立つ事など何もしていないのにも関わらず、リスティアナは次第に学園で、夜会で、孤立していく。
裏切りの先にあるもの
マツユキ
恋愛
侯爵令嬢のセシルには幼い頃に王家が決めた婚約者がいた。
結婚式の日取りも決まり数か月後の挙式を楽しみにしていたセシル。ある日姉の部屋を訪ねると婚約者であるはずの人が姉と口づけをかわしている所に遭遇する。傷つくセシルだったが新たな出会いがセシルを幸せへと導いていく。
【完結】20年後の真実
ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
公爵令息のマリウスがが婚約者タチアナに婚約破棄を言い渡した。
マリウスは子爵令嬢のゾフィーとの恋に溺れ、婚約者を蔑ろにしていた。
それから20年。
マリウスはゾフィーと結婚し、タチアナは伯爵夫人となっていた。
そして、娘の恋愛を機にマリウスは婚約破棄騒動の真実を知る。
おじさんが昔を思い出しながらもだもだするだけのお話です。
全4話書き上げ済み。
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
【完結】王妃を廃した、その後は……
かずきりり
恋愛
私にはもう何もない。何もかもなくなってしまった。
地位や名誉……権力でさえ。
否、最初からそんなものを欲していたわけではないのに……。
望んだものは、ただ一つ。
――あの人からの愛。
ただ、それだけだったというのに……。
「ラウラ! お前を廃妃とする!」
国王陛下であるホセに、いきなり告げられた言葉。
隣には妹のパウラ。
お腹には子どもが居ると言う。
何一つ持たず王城から追い出された私は……
静かな海へと身を沈める。
唯一愛したパウラを王妃の座に座らせたホセは……
そしてパウラは……
最期に笑うのは……?
それとも……救いは誰の手にもないのか
***************************
こちらの作品はカクヨムにも掲載しています。
断る――――前にもそう言ったはずだ
鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」
結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。
周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。
けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。
他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。
(わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)
そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。
ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。
そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?
もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?
冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。
オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。
だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。
その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・
「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」
「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる