姫様と猫と勧進能

尾方佐羽

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姫様の思いつき

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<このお話は新井宿村の義民六人衆の史実に題材をとったフィクションです>


 紀伊藩の上屋敷は麹町の広大な一角にある。近隣には尾張徳川、井伊家の屋敷もあり、後年紀尾井町と呼ばれる由縁である。松が旗本寄合を勤める夫、松平信平と暮らしている屋敷は、この紀伊藩上屋敷の中にある。

 彼女が屋敷に戻ると、夫は旅仕度にいそしんでいた。衣類は自らきちんと整え、寸分違わず重ねられている。几帳面な性格の夫を松は好ましく思っている。小さなことを気にしない私とは全く違うけれど、それをとがめられたことはない。私には過ぎるほど寛容なひと。だからこそともに歩いていけるのだわ。彼女は微笑む。

「京に向かうのはまだ一月ほど先ではございませんでしたか」
「そう言うな。出立が早まることもあるよって、これは性分や」
「まだ、何も言ってはおりませんよ」
「まあ、上様もよくおっしゃるが、おまえとわたしを足して二で割ったらちょうどよいのだがな。さて、日玄様は息災だったか」
「ええ、お変わりないようです。もっとも私は物見遊山ですから」
「この凍えるような日に物見遊山か。童のようやないか。おまえらしい」と信平は笑った。

 信平は近々、京都に赴くことになっている。
 二十年前の明暦三年(一六五七)に起こった大火、いわゆる振袖火事は江戸を焼き尽くし、その記憶はまだ多くの人の脳裏に焼きついている。その後も各地で大きな火事が絶えない。京ではつい最近、仙洞御所や女院御所を失う火事があった。
 幕府はこの春から造営奉行を派遣して再建に着手することとし、信平はその調整役として京に向かうことになっていたのだ。
 仙洞御所は後水尾天皇が譲位した際、その住まいとして幕府が整えたいきさつがある。庭園はかの小堀遠州が作庭した。それ以降は天皇を退いたときの隠居場となっている。それが焼け落ちてしまい、幕府には所司代を通じて連日遠まわしに催促が来る。
 信平はそれをよく知っている。だからいつでも出立できるようにしているのだ。

 信平はこのようなときに大いに重宝する立場であった。かれは元の関白鷹司信房の子である。兄、その子、孫と三代続けて関白、大納言の要職に就いていた。公家の中でも五摂家と呼ばれる特に格上の家柄である。信平は長子でなかったこともあり、姉の孝子が徳川家光に嫁いだあと、それを頼って江戸にやって来たのである。
 かれは想定外に将軍家光の歓迎を受け、引き続き将軍となった家綱にも同様の扱いを受けた。そして公家出身の者としては異例ながら松平の姓を受け、旗本寄合に名を連ねることとなった。もちろん、ただ可愛がられていた訳ではなく、幕府と朝廷を臨機応変に行き来できる人材として重用されたのである。
 松が彼の妻となったのも、松平の姓を与えるために将軍家綱がはからったものだった。その意味では政治的な意味合いの濃い婚姻である。しかし、そのきっかけは天からの贈り物だったようである。二人は他から羨まれるほど相思相愛の夫婦になったからである。信平の姉の孝子と前将軍家光が夫婦として早くから破綻していたのに比べれば、それは奇跡的な巡り合わせだった。


「旦那様、松はお願いがあるのです」
 信平は松の声が急に真剣味を帯びたことに気が付いた。松を振り返り、居住まいを正した。
「どうした」
 松は本門寺の日玄から話を聞いたこと、それから善慶寺の住持日応と村人の藤八郎に会ってきたことを話した。信平はその間黙って話を聞いていた。

「……まことに痛ましい話や。それで、お松はどうしたいのか」
 信平は静かに問うた。彼女は弱い者が虐げられるような話が大嫌いなのだ。きっと強く憤ったに違いない。尋ねる間も頭はくるくると働いている。老中かあるいは上様に密かに告げて沙汰してもらおうと言うだろうか。それは難しい。私ごときの立場で他領の件に口を出せるものではないし。
 夫は鷹揚に見えるが実は熟考していることを松は知っている。

「六名の方の、あと焼け死んだ妻子の命は今更どうしようとも取り返せませぬ」
 信平はうなずいた。
「それにしても、真っ当な手段で願い出たものをまともに取り上げもせず、止む無く直訴に出んとしたからと命を無惨に奪い、墓も建てることまかりならぬとは。神も仏もあったものではござりませぬ」
「それはよくわかる。しかし、他領に口出せぬことはおまえにもよう分かっておろう。いかようにするのや」

 いかようにするのや、その言葉を待ち構えていたかのように、松は信平をまっすぐに見据えると、頭を深々と下げて言上した。
「旦那様にはまことに申し訳なきことなれど、私の里の神に力を貸していただこうかと。新井宿村の熊野権現社にて勧進能を行いたく、お願い申し上げます」
 松姫の最上級にかしこまった願いに、信平はきょとんとした。
「勧進能とな?」
「はい」と松は澱みなく答える。
「領主の直訴潰しへの意趣返しと勧進能にどのような関わりがある。どちらか言うたら、先方には喜ばしいことやないか」
 信平にはさっぱり見当がつかない。
「意趣返しではございませぬ。勧進能でございます。ただ旦那様におかれましては、御所修築の大事がございますれば、兄に勧進主をお願いしようと思うております。旦那様を差し置く失礼を、何卒お許し願いたいのです」

 まったく、思い立ったが吉日とはこのこと。今日の今日でそれを決めたか。確かにゆかりの社で勧進能を打つのはさほど難しいことではないが、わが家の立場禄高ではまともな興業は打てぬ。兄の紀伊藩に力を借りるのは自然なことである。ただ信平は少しばかり意地悪な気持ちになった。

「お松、素晴らしい考えなれど、やはり私が蚊帳の外なのは面白くない」
 松ははたと目を見開き、あわてて申し開きする。
「旦那様に余計なご負担をかけたくないのです。あなた様が京でお役目を果たされているときに……」
 信平は笑いながら、わかっているという表情で優しく言う。
「義兄上には文を書くつもりやったから、ついでに頼んでおこうか。いずれにしても義兄上が江戸に来るのは春、それまでに仕度するのだろう」
「ご明察、さすが旦那様です。ぜひお願いいたします」

 今、松の兄すなわち紀伊藩主光貞は国元におり交代時期は春である。義兄は嫁して江戸にいる二人の妹をことのほか可愛がっているから、この願いに乗ってくるかもしれない。そうなると大がかりなものになるが、大丈夫なのだろうか。
「なぁ、お松」
「はい」
「本当に勧進能を開くだけなのか」
 松はふふふと笑う。
「そうですよ、旦那様。大立ち回りなどいたしませんからご安心ください。新井宿に人が集まれば何か変わる気がするのです。村人の方々の気持ちも、ご領主様の気持ちも」
「集めてどうする」
「私もよくは考えておりませぬが、熊野様の舞殿を見たときに心が決まったのです」
 人を集めて猿楽を見せるのが何かの役に立つのか。信平にはまだ見当がつかなかった。
「でもそれは私と旦那様の秘密です」

 秘密も何も、分からないことばかりである。松の言葉に信平はうなずくしかなかった。


 松の姉は茶々と言う。嫁して鳥取藩主池田光仲の正室である。
 姉妹は父徳川頼宣の側室ふたりが同じ年に産んだ姫で月違いの差しかない。それでも姉のほうはごくごく幼少から江戸に上がり、正室である母に厳しく養育された。長じて武家女性のお手本のごとく、質実剛健な姫となった。婚家でも堂々と采配を取り夫も一目置いている。もちろん、徳川の血を引いていることは大きく影響しているが、その出自にふさわしい貫禄を備えていた。

 日比谷にある池田家の鳥取藩邸には松もしばしば通っていた。質実剛健な姉と気さくで人好きのする無邪気な妹、対照的な性格ではある。しかし、それぞれが家庭を持ち不惑を超えている身、性格の違いなど返って会話を盛り上げるほどのものである。松は新井宿村の話には触れず、熊野神社の勧進能について茶々に話をした。演目については紀州ゆかりの『道成寺』などがよいと思っているとも伝えた。
 しかし、その背景が分からない姉にとっては、突拍子もない提案に思えたようである。
「なぜ、私にまっさきに言ってこないの。私の婚礼の折に、祝儀能が催されたのをあなたも見たでしょう。殿も猿楽はたいへん好きですし、当代喜多(きた)七太夫様のお屋敷だって同じ日比谷にあるのですよ。池田の屋敷でも喜んで貸すことができるのに、何を好き好んで聞いたこともない土地のお社でやるの。それに兄上がいくら猿楽を好まれていても、江戸にいらっしゃるのはまだしばらく先でしょう」

 松はしまったと思った。物事は表向きの段取りだけではなく、裏も気を配らなければいけないのだと思い知った。
 姉は自分が差し置かれていると感じたのだ。夫のように簡単にはいかない。松が言葉をはさむ間もなく、茶々は一気に話し続ける。
「それに私、『道成寺』は大嫌い。祝儀能のときには我慢しましたけれど。大体、純な娘をだましたのがそもそものきっかけでしょう。それが嫉妬のあまり蛇になるなんて……」

 そうだった、と松は思った。寛永十九年(一六四二)の池田光仲と茶々の婚礼の祝儀能は、喜多流、金春(こんぱる)流の役者が舞ったほか、柳生但馬守が『善知鳥(うとう)』を、光仲が『田村』を舞うなど華やかなものだった。あの時も『道成寺』は見たけれど……。

「姉様……猿楽の蛇体もだめなのですの?」

 恐る恐る聞く松を見て、茶々は肩をすくめた。彼女は幼い頃から蛇が大嫌いなのだ。
 しかし、松に少し強く言い過ぎたと少し反省したらしい。声の調子を少し下げて言った。
「お松、多分兄上は引き受けて下さるわ。他でもないお松の頼みですもの。でも私が紀伊の勧進能にのこのこ出て行くわけにもいかないわ。喜多様なら『道成寺』はお得意でしょうからお声掛けしておくし、相応の寄進をさせていただきますから安心してちょうだい」

 少しふくれる姉の表情には照れも隠れているようである。昔からそうだったわ、可愛いお姉様。松はふっと懐かしい気持ちになった。
「ありがとう、お姉様」と松は深々と頭を下げた。
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