姫様と猫と勧進能

尾方佐羽

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姫様、善慶寺の猫を抱く

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(挿絵 「ぽぽるぽん」さん)
<このお話は新井宿村の義民六人衆の史実に題材をとったフィクションです>

 平間街道を新井宿から半里ほど先に進むと池上本門寺がある。鎌倉時代、日蓮聖人が帰郷の途上で倒れた場所に建つこの広大な寺は甲斐の身延山久遠寺、京都の妙満寺と並ぶ日蓮宗の大本山であり、江戸に住む信者の心の拠り所である。

 その中でも紀州徳川家の女性に特に篤く信仰されていることはよく知られている。その端緒は藩祖徳川頼宣の生母お万(養珠院)が熱心な信者だったことである。お万は徳川家康の愛妾である。そして、頼宣の妻八十姫(やそひめ、瑶林院)も両親が熱心な日蓮宗徒であったのをそのまま受け継いでいた。八十姫の父は戦国の猛将加藤清正である。

 かれらはまさに敬虔な庇護者であった。特にお万は家康が宗論対決の末、身延山久遠寺の法主日遠を磔刑に処すると決めたとき、日遠と自身の「死に衣」を縫い上げて家康に示した。文字通り命をかけて寛大な措置を求めたのである。家康は不承不承にもこの訴えを聞き入れざるを得なかったといわれる。
 一方の加藤清正は実母の三回忌を本門寺で盛大に執り行い、参道の石段此経難持坂(しきょうなんじざか)を寄進した。以後長く、参詣する人は石段を踏みしめて、戦国きっての猛将の忠孝と信仰心を感じることができるのである。すでに江戸幕府が開かれて七十四年の月日が経っていたから、戦国の世を生きたかれらも一昔前の人になっていた。


 さて、しばらく村の様子を見ていた駕籠の姫であるが、彼女はこの本門寺に向かう途上に新井宿村を通ったのである。

 姫の名は松という。紀伊藩初代藩主徳川頼宣の娘、すなわち家康の孫である。現在は彼女の兄光貞が二代目紀伊藩主であり中納言を被官している。
 そのような環境に生まれたものの、彼女は長子だの長女ではなかったため、比較的自由に育てられた。成長して江戸に移ったのち、寛永の頃に旗本寄合松平信平の妻となり、紀伊藩江戸上屋敷の中に居を与えられ暮らしていた。

 彼女は日蓮宗を篤く信仰していた母と祖母の墓参のためこの寺をしばしば訪れていた。住まいから本門寺はおおよそ四~五里ほどであったから、それほど遠い場所ではない。

 彼女の来訪を待ちかねたように山主の日玄がにこやかに出迎える。
「ようこそお越しくださいました。松姫様が日頃より足繁く当寺に参詣されておりますこと、忠孝の何たるかを私どもも教わっております」

「何を申されますか。親を生前と変わらず思うのは子の務め。自然なことにございます。それに、私はここが好きなのです。まことに心が安らぎます」
 松姫は本心からそう言った。鎌倉の昔から守られてきた緑豊かなこの一帯は、江戸市中の喧噪から離れて落ち着くことのできる場所であった。墓参に連れ立って歩きながら、日玄は話を続ける。
「姫様は新しいお家に嫁がれましたから、まだよいですぞ。うるさ方がおられませんから」
「ええ、まったく。好きにさせていただいて」と松は笑ってから急に真顔になって続けた。
「さて、道中気になることがございました」
「はい、何でございますか」
「道中、新井宿を通りましたおり、ひっそりとして人っ子ひとり歩いていないのでございます。しかも読経の声ばかりが密かに響いて。何かご存知ですか」

 日玄は目を細めて庭を見やった。
「姫様はよくよく聡(さと)いお方にございますな。私も新井宿のある住持より耳にしておりましたが……つい最近、直訴の動きがつぶされたそうにございます」
「何と。年貢の枷(かせ)が重過ぎたのでありましょう。いずこも凶作続きでご公儀もお救い米を上方に寄せておりますし」
「それだけではございません。姫様、あの地はご存じの通り、勾配のきつい小山の向こうはすぐ湿地、干潟、海でございます。大半の土地は将軍家のお鷹場ですから、米作をしようにも十分な土地はございませぬ。そこにもし過重な年貢を求められたら、どのようなことになると思われますか。検地では畦まで含まれていたそうです。悪いことに、昨年は六郷川が氾濫し辺り一帯に流される家屋、人、牛馬おびただしく、一層米どころではなかったでしょうな」
「年貢を見合ったものに減らしてほしいというのは道理でございましょうに。あの地は木原様の御領地でしたね」
「さようです」
 そこまで話したならと山主も詳細を語る気になったようである。
 地縁のある新井宿善慶寺の住持からそれとなく聞いた話であると前置きして、村人が数年前に領主に訴状を提出したが一顧だにされなかったこと、貧窮に耐えかねた重立百姓の六人が直訴をしようと決意したが果たせず斬首されたことを静かに語った。
「すんでのところで捕まってしまったのですね」
「六人は麹町の旗本屋敷にて斬首されたよしにございます」
「まぁ……なんということ」と松姫は眉をひそめて目を閉じた。
 そこは紀伊屋敷のある地でもある。そんな惨いことが目と鼻の先で起こっていたとは。それがあの読経の意味だったのか。何ともやりきれない苦さが心の中、澱のように溜まっていく。それでも松は気を取り直し日玄に頭を下げた。
「日玄様、お話を伺えて幸いでした。何と申し上げたらよいのでしょう。失った命は取り戻せませんが、何か私にできることがあればよいのですが」
 日玄は相変わらず目を細めてうん、うんと話を聞いていた。
「新井宿の善慶寺の奥には熊野神社がございますな。熊野といえば紀州、姫様にも縁ある社ですから一度訪れてみてもよろしいかと存じます。六人はそこで決起して直訴に向かったと聞きました」
 この助言は松の心を奮い立たせる役目をしたらしい。さっそく帰りに寄ってみると告げた後、松は丁重に頭を下げて本門寺を後にした。


 新井宿在の間宮藤八郎はこのところ足繁く熊野神社を訪れていた。

 行かない方がいい、また再び村人の動きが起こらないかとご領主は目を光らせているのだ。分かっているのに足がどうしても向いてしまうのである。そして、社殿の前で突っ伏す。悔いても悔いきれない思いがあふれてくる。春まだ遠く、昼でも凍てつくほどの寒さで辺りには誰もいない。手を合わせて目を閉じると、師走の暮れのあのことが思い出されてならなかった。

 あれは大晦日も間近の、まだ朝も目覚めぬ刻に六人がこの寺の奥にある熊野神社に集まり、決起の誓いを立てて市中に向かったのだった。それとは全く知らず、たまたま見回りで通りかかった藤八郎はそれを見てしまった。そして、六人のただならぬ気配に思わず飛び出した。
「ちょっと待ってくれんか」
「おう、八か。これからちと行ってくる」

 散歩にでも行くような軽い間宮新五郎のもの言いだった。しかし表情は硬く、声はかすかに震えていた。これからなすことは領主ももちろんのこと、身内にも知られてはならないことである。何も語れないのが道理で、他の五人は口を堅く結んだままである。しかし、聞かなくとも六人がこれから何をしようとしているかは容易に見当がついた。村が困窮していることをかれらが案じているのは皆が知っている。藤八郎は目を見開いて首を振った。
「新、後生だからやめてくれんか。皆もだ。何かことがなっても生きて帰ってはこれねぇ。まだまだ村をまとめてもらわねえといかん。ここで命を無駄にしちゃなんねえ」

 新五郎は藤八郎の前に立ち、その右手を藤八郎の左肩に置いた。そしてじっと相手の目を見つめた。新五郎の目は悲しく澄み切っていた。まなざしを返す藤八郎の目からは涙があふれた。
 あぁ、新も皆も止めるつもりなぞかけらもない。わしらのために死ぬ覚悟だ。そう思うともう何も言葉は出てこなかった。新五郎はふっと優しい顔になる。別れのときがきたのだ。
「ここで見たことは決してよそに言うてくれるな」
 藤八郎は強くうなずいた。
「皆息災でな」
 六人はそれぞれ小さく礼をして去っていった。藤八郎は為すすべもなく一行の背中を見送るしかなかった。


 そしてかれらが生きて帰ることはなかった。葬式も出せず、墓も建てられず、屍ばかりを竹やぶの下に残して。ああ、せめて、きちんと冥途につかせてやりてぇ。斬首なんぞあんまりじゃねえか。藤八郎は心のままに泣き続けた。
「済まなんだ、済まなんだ」
 あの時、何と言われようと止めればよかったのだ。そうすれば、六人があのような最期を迎えることもなかったのに。藤八郎は凍える頬を熱く濡らしたまま、唇を噛んだ。

 熊野神社の狭い石段を降りていくと人の気配がした。見ると、そこには女性が立っていて、足下では猫がにゃあにゃあと鳴いている。熊野神社の下、善慶寺で飼われている猫なのは藤八郎にもすぐ分かった。
「お騒がせしてしまったかしら、申し訳ございません。人懐こい猫が寄ってきて」
 上品な武家女性のいでたちだが、ずいぶん気さくな雰囲気だ。藤八郎は慌てて綿入れの袖で涙をぬぐって言った。
「この辺りには猫が何匹か棲み着いております。なかなか村の者以外には寄っていくことはございません。お召し物を汚しませんでしたか」

 女性はひょいと猫を抱き上げて、その背中をなでながらほほえんだ。
「何にも汚れてはおりませんよ。この時分にお参りですか」
「ええ……失礼ですが、武家の奥方様とお見受けいたします。あまり、あっしのような者とお話なさるのは」
 ほほほ、と彼女は明るく笑い飛ばした。
「私が話しかけたのですわ。気になさることはありません」
 さらりと語る姿が清々しい。
「今日は墓参ですか」
「あ、私熊野様に詣でようと参りましたの。私の里は紀州でございますから。あの奥が参道なのでしょうか」
 藤八郎はあわてて申し出る。
「これは失礼いたしました。あっしがご案内いたしましょう。宮司を呼んで参りましょうか」
「いいえ、どのみち石段を登るのですから。ここで会ったのも何かの縁、よろしければご一緒下さいな」と女性はにこやかに言った。

 藤八郎は浮世離れした女性の言動に戸惑いを感じていたが、紀州の出身というところには思いを致さなかった。彼女の出自を聞いたら腰を抜かしただろうが、少々ぽかんとして、「それでは、お供させていただきます」と口にしただけだった。

 二人は鳥居をくぐると険しい石段を上っていった。狭い石段である。鳥居もそれに合わせて小さめである。石段の中程、右手に旧来からある稲荷社への分岐がある。大した高さではない、丘と言ってもよいほどの小山であるが、傾斜は急である。裸の木々が寄せる道は暗く霧さえ出ている。一気に気温が下がったようにも思え、霜を踏む足も冷たくなる。しかし、女性は藤八郎の心配をよそに、辺りを見回している。

「このしんとした空気は海の近くとも思われません。坂の急なこと、熊野にいくらか似ておりますね」

 石段を登ると、わずかの台地に社殿が建っていた。女性は前に進み、一礼をし手を打つ。それからふと左手背後を振り返って驚いた。
「まあ、舞殿があるのですね」
 そこには立派な舞殿があった。しかしよく見ると、古色蒼然でところどころ黴が見える。
「前の将軍様が鷹狩の折に舞を演じるために造られたものでございます。今の将軍様は鷹狩をなさいませんから、村神楽など奉納していたこともありましたが、ここのところはさっぱりです。汐気もございますし、やはり使われていないと傷みが出てしまいます。お恥ずかしい話ですが」
「なにも恥ずかしいことはないですわ。このご時世ですもの」
 そう言いながら、女性は何かしきりに思案しているようだった。参拝を済ませると、女性は藤八郎に問いかけた。
「お名前は」
「間宮藤八郎と申します」
 少し間があった。女性は不意に聞いた。
「失礼ながら藤八郎様はなぜ泣いていたのですか」
 藤八郎は答えに窮した。見ず知らずの人間に、ましてや武家の女性になどありていに言えるはずがなかった。
「……村の百姓仲間をなくしたのでございます」
 女性は深くうなずいた。そして、言葉を続けた。
「六名の方ですか」
 藤八郎は雷に打たれたように女性の顔を見上げた。この女性は知っている。しかし、どうして、どこまで知っているのか。突然の指摘にまごついたのは当然のことであろう。

 そのとき背後から不意に声がした。
「ようこそおいでくださいました」
 二人が声のした方を見ると、そこには寺の住持、日応が立っていた。

「本門寺の日玄様より使いが来ましてございます。すぐに訪ねる人ありと。まことにすぐでございます。あなた様は健脚ですな。早馬で来られましたか」

 そう言いながら、日応は彼女を見た。紀伊藩主の妹君にして、旗本松平信平殿の室。将軍家に次ぐ御三家の出だけあり、確かに気品のある女性である。しかし人が進んで寄っていくような闊達さ、明るさがあるように思えた。彼女は身一つで現れ、もう村人と打ち解けているのだから。

 そしてまた、猫が鈴の音を鳴らして女性の足元に寄ってきた。

「この猫に新、いや、亡くなった新五郎はよく餌をやっておりました」
 藤八郎は低くうめくようにつぶやいた。その猫がにゃあにゃあと甘えた声で鳴いて寄っていき、再び女性が抱き上げるのを見たとき、藤八郎は目をこすった。その姿にぱっと黄金の光が射したように見えたのである。
「どこぞの奥方様かは存じませんが、ここにお越しくださってありがとうごぜえます」
 藤八郎は心の奥底から感謝し、頭を低く垂れていた。

「お礼いただくことはございません。それより、私はまたここに必ずまいります。その折りにはまたお話相手をしてくださいますか」

「もちろんです」
 かたわらの日応は藤八郎ほど単純ではなかったので、まだ彼女の真意をはかりかねて思案していた。
「ご住持様、これは神仏のお導きでしょう。またお参りに来てもよろしゅうございますか」
 日応は気さくに返した。
「もちろんです。お待ちしておりますよ」

 去っていく女性の背中を見送りながら、藤八郎は感心して言った。
「武家のお方というと、もっともったいぶった感じかと思ってやした。それでもあっしなんぞは気後れしていけねぇ。ご住持様はさすが堂々としてらっしゃる」
「私も気後れしましたよ。ただ、日玄様からわざわざ知らせが来るほどですからな。今ひとつお考えははかりかねますが」

 藤八郎は日応の言葉に少しむきになって言った。
「猫があんなに懐くんです。悪い人のはずはねぇです」

「その見立ては確かに間違いない」と日応は藤八郎に微笑んだ。
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