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第12章 スペードの女王と道化師
ローマに引き取られた人
しおりを挟む(スペイン人フランシスコ・ボルハがローマに呼ばれる)
この前ローマに来てから実際はそれほど時間が経っていないはずなのだが、とても懐かしい感じがするのはなぜだろう。
ここはバレンシアほど温暖ではないが、今ぐらいならさほど寒くは感じない。あの忌まわしいローマ劫掠(1527年)から30年以上経ち、この町はすっかり平安を取り戻している。とはいっても、私が初めてここに来たのはずっと後のことなので、そもそも惨禍を何も知らないと告白しなければならない。
この数年であらゆることがガラリと変わった。それはヨーロッパ全体もそうだし、また個人的にも激変のときだった。ヨーロッパ全体を見て最も劇的な変化を迎えたのは神聖ローマ帝国で、スペインとネーデルラント、オーストリアと神聖ローマ帝国(現在のドイツにあたる)に分割されることになった。続いてイングランドは短い間に王が4人交代した。現在のエリザベス女王になって王権は安定しつつあるようだ。フランスは新たな戦争に突入しようとしている。
祖国スペインは……カルロス1世の子フェリペが王となり先代以上に強固なカトリック国家を築いている。
もうフェリペ2世に代替わりして3年経つのか。
私はいまだにカルロスが最後の日々を過ごしていた郊外の広大な城館を思い出す。
そこには常に花が咲き誇り、池や噴水の水音が絶えず耳に入ってきた。鳥のさえずりは音楽の伴奏のようでもあった。楽園のような場所だった。カルロスは長い激務で健康を損なっていたので、かの地では静養を主としていた。折々に私に話をしてくれたが司祭としてでなく、友として向き合ってくれたのは幸いなことだった。
そして私はまたイエズス会の管区長の務めに戻った。それはほんの数年前のことだが、大昔のような気さえしている。
さて、私はときの教皇ピウス4世から召喚されて、ローマにやって来た。ただ、まっしぐらに教皇庁に入るわけにはいかない。ティベレ川をはさんでその対岸に位置するイエズス会の本部にまず顔を出す。応対に出たのは旧知のペドロ・デ・リバデネイラ司祭だった。丸ごと剃髪した小柄な人で書くのが滅法得意だ。確か、フランシスコ・ザビエル師の薫陶をじかに受けて日本から来たベルナルドの話を書き起こしたのも彼だった。
「ボルハ司祭、お待ちしておりました。どうぞお入りください。長旅でお疲れでしょうから、ゆっくりお休みになるとよいでしょう」
私は礼を言って中に入った。リバデネイラ司祭は私の背後を見て尋ねる。
「ボルハ同志、連れの方は?」
「いません。一人で来ました」
司祭はそれを聞くと、ただうなずいて部屋に進んでいく。そこは書斎のように思われた。
私は部屋に入るとゆっくりと椅子に腰かける。
目の前には古ぼけた机があって、片隅に紙の束が積んであるのが見える。小窓からは西日が射し込んでいて、紙束に光が当たっていた。私はそこに近づき、一番上の紙を見た。
〈イグナティウス・デ・ロヨラ総長からの聞き書き〉
私は見たいという欲求を覚えて、腰かけたまま1枚、2枚と紙をめくった。イグナティウス・デ・ロヨラ初代総長の話を聞き書きしたものだった。じきに本にするのだろう。
ロヨラ総長が天に召されてもう5年になるが、カマラ司祭は地道に執筆を重ねているのだと感心する。併せて自分の5年間についても振り返って、暗澹たる気分にもなる。
いったん退室したリバデネイラ司祭がまた入ってくる。
「ボルハ管区長、いえ、総長代理、ようこそローマへ。ポルトガルからでは相当な長旅です。かくいう私も先日フィレンツェからローマに入ったのですが、サルメロン師もじきにここに到着するはずです。いずれにせよ、遠いところたいへんだったでしょう」
リバデネイラ司祭は現在トスカーナの管区長、サルメロン師(イエズス会の最初期の会員)はナポリの管区長だ。私を迎えるためにローマに入ったらしい。
「いいえ、こちらこそずいぶんとお久しぶりです。この度はいろいろ配慮していただいて、心からお礼申し上げます」
リバデネイラ司祭は軽く首を横に振って微笑む。
「いいえ、私は何もしていません。教皇ピウス4世からの強力な要請を受けて、会としてあなたをポルトガルからお呼びしたのです。とにかく今日はゆっくり旅の疲れをとっていただいて、明日以降に打ち合わせをした上で教皇庁に出向きましょう。
さて、宿所はありますが簡素な部屋しかありません。ネズミは出ないと思いますが。これからローマに住むことになるのですから、じきにまともな部屋を用意させます」
私は思わず目を見開いてかぶりをふる。
「もう、眠れればどんな場所でも結構です。ありがとう」
リバデネイラ司祭は私の言葉を終始黙って聞いていたが、ふと問いかけてきた。
「同志、眠れぬ夜が多かったのではないですか」
私は苦笑して何度も頷いた。
イエズス会を創設メンバーで初代総長のイグナティウス・デ・ロヨラ師なきあと、少し間が空いて2代目総長にはディエゴ・ライネスが就任した。ライネス総長はイエズス会創設の契機となった『モンマルトルの丘の誓願』に列席した7人のうちの一人である。現在はフランスで開かれた宗論(ポワシーの会談)の会談にヘロニモ・ナダール司祭と参加している。それに続いて、再開が決定したトリエント公会議に出席するので長くローマには戻らない。その間にローマでイエズス会を取り仕切る人が必要ということで、私が教皇ピウス4世の命で召喚されたのだ。
それは表向きの理由だ。
わたしは祖国スペインを追放された体でここにやってきたのだ。
前国王カルロス1世が崩御した直後、私の運命は一気に暗転した。あまり事細かに思い出したくもない。古参のイエズス会員からと思われる糾弾と新国王への密告によって私は異端の疑いがあるとみなされ、書いた本も焚書命令が出された。それどころか、イエズス会員はスペインを出てはならぬという禁止令まで出た。そうなった理由はいくつもあるのだろうが……かつて私の生徒だった現国王までもが、他の意見を取り入れて攻撃する側になるとは……私が最も打撃を受けたのはそこだった。
しかし嘆いて抗弁する暇はなかった。自身の身に危険が迫っていたので、私は密かにポルトガルに逃れた。
ポルトガル王セバスチャン1世はまだごくごく幼年だったため、摂政をしていたから王の祖母カタリナが私の保護を請け負い、セバスティアンの相談役として滞在することを望んだ。ポルトガルは以前からスペインと密な婚姻関係を結んでいたので、この幼年王を立派な君主にしなければ、血縁を理由にスペインに併合されかねなかった。インド航路の貿易を基盤に、イエズス会の宣教師の支援者としても長く君臨していたこの国はスペインと同等以上に熱心なカトリック国だったので、幼年王にもそれを学ばせようと祖母は考えただろう。生まれた時に父王ジョアン3世がすでに天に召されていて、肉親として孫が不憫だと思う気持ちもあったかもしれない。
いずれにしても私は落ち着く先ができて安心していた。何ならこのままインド航路の船に乗って、東方宣教に出たいとさえ思っていた。
もともと私はフランシスコ・ザビエル師やピエール・ファーブル師のように宣教の旅をしたいと心から望んでいたのだ。このポルトガル滞在はそれを叶える最後の機会だったかもしれない。
私はしばしばリスボンの港の沖に巨大な帆船が出入りするのを、無心で眺めていた。ここは亡き妻の祖国だったし、寄る辺ない身ながらいろいろと静かに考えることができた。
しかしそれも長い期間ではなかった。
私がローマに召喚されたと使者が伝えに来た。
イエズス会のローマ本部のカマラ司祭だ。
急な話だった。
すでに心を開いて接してくれた幼年王とその祖母はたいへん残念がったが、カマラ司祭がその役を引き継ぐこと、彼がロヨラ前総長に付いていた人だと知ると喜んで承知してくれた。イエズス会員の責務(教皇の命じるところならどこへでも赴く)とはいえ、急遽ポルトガルへ出発するのは難儀だったはずだとカマラ司祭に申し訳なく感じていた。
「カマラ司祭はロヨラ師の自叙伝を書き起こされていましたが、どうされるのですか」と私は尋ねた。
「もうほぼ仕上げてあります。あとは総長や教皇庁の方に改めていただくということで、預けてきました」
それが、私が机の上に見つけた紙の束だ。
ゆっくり休んだ翌日、リバデネイラ司祭と諸般打ち合わせをした。その際にトスカーナ(フィレンツェ)の話も出た。彼はコジモ・ディ・メディチ(フィレンツェの僭主)ともつながりがある。イタリア戦争が終結した結果、コジモはシエナを手に入れた。さらに勢力範囲を広げようと考え海軍の創設準備をしているという。
「彼は中年の域ですが、まだ若い。世代交代の筆頭のような存在です。現在至るところで世代交代がなされていますから。コジモはかつてのチェーザレ・ボルジアのような勢いを持っている。
そういえば、チェーザレはあなたにとっては大伯父にあたるのですね」
その言葉を聞いて、私はふっとチェーザレのことを思い出した。遠い遠い自分につながっている英雄……。
「彼には会ったこともないですし、どうも実感がありません。私がスペインで厭われたのは曾祖父のアレクサンデル6世とチェーザレ・ボルジアの血筋もあるようにさえ思うほどで」と私は苦笑する。
リバデネイラ司祭はふむ、とうなずき続ける。
「なるほど、あなたの血筋は確かにスペインの名門です。相応に妬む人もいるでしょう。
ただ、先ほどもコジモの名前を出しましたが、あなたの苦境にはもう一人のメディチ、フランス王の母后の影響もあると思うのです。幼い王のもとフランスの宗教政策がどっちつかずになっているために、今や内乱状態になろうとしている。カルヴァンが止めに入りでもしない限り、おそらくもっと激しくなるでしょう。
フェリペ王はスペインがそうなるのを極端に恐れています。今度再開するトリエント公会議でも、カトリックとプロテスタントの宥和はたいへんな困難な課題でしょう。フィリペ2世はそれらの要素を一切、徹底的に排除し、かつ独自の方向を明確にする必要があります。筋は違うのだと思いますが、あなたは政策の手始めに、贖罪の山羊にされてしまったように私には思えます」
「贖罪の山羊か……」と私はつぶやく。
リバデネイラ司祭は少し思案してから言う。
「ローマはあなたを曲解していませんよ。ですからお呼びしたのです。私たちもさらに本腰をいれてかからなければいけません。
東方宣教はイエズス会の最前線でもありますが失礼ながら若くて体力のある人でないと務まらないでしょう。ローマでそれを見守って後押するのも大切なことだと思います。
今日からここが、あなたの生きる場所です」
ここが私の生きる場所。
かつて、チェーザレ・ボルジアはアレクサンデル6世が逝去したのちローマを追放され、ナポリに預けられた。そこからスペインに移され城塔で孤独な幽閉生活を送った。
私はスペインを追われてポルトガルに逃げ落ち、こうしてローマに引き取られた。
ローマに引き取られた。
ただし、私はローマの虜囚ではない。
ローマで務めを果すのだ。
私の心の傷はまだ癒えなかったが、背筋がまっすぐ伸びるような心持ちになっていた。
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