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第12章 スペードの女王と道化師
ミシェルと彗星
しおりを挟むサロン・ド・プロヴァンスにあるミシェル・ノストラダムスの邸宅は地域の名士らしく間取りは相当広いが、その入口部分はごくごく狭く、外目から全体はうかがえない。付け加えるなら立地も地味で、教会にほど近い細い通りの一角にひっそりと建っている。医師の看板は文字も薄くなって消えそうだ。
この家のあるじは占星術師として有名になってしまったので、看板は朽ちるに任せておくつもりなのかもしれない。いずれにしても、彼は「ああ、彼は古くからの知り合いでね」などと知ったかぶったような顔をして社交界にのさばりたいとは思わないし、できる限り穏便に敬虔に、善良なサロンの一市民として過ごしたいのだった。彼にとって悪目立ちするのは最も忌むべきことだった。
しかし、フランス国王の許に一ヶ月も逗留したというのは南フランスの片田舎ではとんだニュースだった。しかも以降、王妃のカトリーヌからはしきりに手紙が届く。もちろん、ミシェルは王妃の手紙の内容を家族にも口外したりはしない。だからこそ、といおうか。秘すればするほど、周囲は噂に想像力を費やすのである。
端的に、これだけは間違いないだろうが、王妃カトリーヌ・ド・メディシスは占星術師かつ著述家のミシェル・ノストラダムスを信頼している。相談役というところだろうか。後世にも怪しげな予言者、占星術師、山師、ペテン師にかどわかされた王や王妃の例は類々と連なっていくのだが、カトリーヌはかどわかされはしなかったようだ。彼女は確実なガイド、間違いのない助言者を求めていたと思われる。それに相応しいのがミシェルと見たのだろう。
この時期のフランス王には決めなければならない事項が山積みだった。スペインとの講和条約の内容もなかなか固まらない。できるだけ粘って(ごねてともいう)自国によい条件を引き出したいのは皆同じである。場所だけは早々に決まった。フランドルに近いカトー・カンブレジ(Cateau-Cambrésis)である。国土の両側をスペイン(と神聖ローマ帝国)に挟まれているのは変えようのない事実で、それ以上を望めないことも明らかだ。この時点でローマが味方についているものの、アンリ2世がより譲歩しなければならないのは明白だった。
ただ、カレーを取り戻したことでアンリ2世の心は冷静さを取り戻していた。
自身が子供の頃、この戦争で何年も人質になった屈辱を思い出しもしただろうが、フランスもスペインももう戦争を続ける体力がない。これ以上領土を増やすこともできないが、奪われることもない。もし潮時という言葉があるなら、このときしかなかっただろう。
これらの最終決定を下すのは、もちろん王のアンリ2世だ。スペイン側ならばフェリペ2世である。しかし、和議のしるしとして結婚話を持ち出したのは、もしかしたら王自身ではなかったかもしれない。
結婚話はふたつある。
アンリ2世の妹マルグリットとサヴォイア公エマヌエーレ・フィリベルト、そしてアンリとカトリーヌの娘・エリザベートとフェリペ2世の結婚だ。フェリペ2世はイングランド女王のメアリー1世と結婚していたが、メアリーは1558年11月に世を去った。王妃の座は空いているということになる。
もうひとつ補足するならば、エマヌエーレ・フィリベルトはさきのサン・カンタンの戦いで大活躍しフランスを敗走させたが、この人はフィリペ2世の従兄弟にあたる。
和議の話が進んでいる最中でも、ミシェルの住むサロン・ド・プロヴァンスまで婚礼の話だけは伝わっている。ということは、国中がそれを知っているといってもいい。ミシェルは地元の人に意見を求められることもあるが、「まったく、おめでたいことです」と相好を崩してうなずくだけである。
エリザベートは快活な王女だった、とミシェルはかつて王宮で出会った彼女のことを懐かしく思い出す。
あの王女がスペインの王妃になる。
たった数年前のことだが、「王子と王女の子ども時代はもう終わってしまったのか」としばらく感慨に耽る。
話は前後するが、結婚はもうひとつあった。
フランス王宮に住んでいたスコットランド女王メアリー・ステュアートは王太子フランソワと前年の1558年に結婚している。イングランドの血なまぐさい騒動のことを思えば、フランスの王太子妃という地位は安全な避難所のようなものだっただろう。
ミシェルは王宮に招かれた際、王太子と王女の行く末について王妃カトリーヌから助言を求められたが、特にメアリー・ステュアートの行く末については憂慮の意をを隠さなかったし、それは王妃に伝えていた。占い師としてではない。ヘンリー8世の政治を見て凄まじい権力闘争の様子を知れば誰も、スコットランドに帰る方がいいと勧める人はいないだろう。
ミシェルの心中の話になるが、子どもたちについては他にも気になる点はある。それは占星術師としてではなく、医師としての見立てであった。ただ、典医がいるのに出し抜くようなことはできない。さりげなく「注意した方がいい」と伝えるにとどめた。いずれにしても病気や事故についてはあらかじめ知らせても不安にさせるだけであるとミシェルはよく知っている。
例えば、「あなたはペストになります」と言われて喜ぶ人はいない。
そう伝えるのに医者や占星術師である必要はない。ペストが流行している町で側にいる人が罹患すれば、それは確実な運命の宣告なのだ。それが必然であればあるほど、なぜだろう……「人から離れて安静にしていれば」と真実とは違うことが口から出てしまう。死ぬ人に「死ぬ」とはなかなか言えないものなのだ。占星術師にも同様の配慮がある。当たらなければいいことをあえて伝えるには相当の勇気が必要だ。
夕食を済ませると、ミシェルは手製の簡単な望遠鏡の調整を始める。毎日夜空を観察し、天体の動きを記録しておくことは彼にとって最も大事な作業といえる。
「カトー・カンブレジでは条約が無事に締結されて、大団円というところだろう。どんな理由にせよ、長く続いた戦争が終わるのはよいことだ」
ミシェルは北東の方角を見る。
条約でフランスはイタリア半島から一切手を引くことになった。サヴォイアとピエモンテは姉のマルグリットの持参金としてサヴォイアに持たせた。フランスが保持できたのは、カレーとサンカンタンなどわずかだった。そして、さきに述べたふたつの結婚はフランスとスペインの友好の証として、この条約の項目として加えられていたのだった。
ミシェルは望遠鏡を見て目を見開く。
望遠鏡を覗けば流星が数多く見られるのはよくあることだ。
しかし、望遠鏡越しのミシェルの目の前にスーッと尾を引いて流れていくのは、どうやら彗星のようだった。それはゆっくりと流れて消えていく。
流れ星ではない。
ミシェルは目をこすって肉眼で空を見た。
それは肉眼でも視認できるほど明るく、ゆっくりと、止まっているかと思うほどの速度で動いていた。
「これが平和を祝する吉兆ならば、言うことはないのだが」
ミシェルは天体の現象を書き留めるために一端屋根裏から離れて梯子を慎重に降りた。
降りきってふっと天窓を見ると、さっきの光の尾がまだ窓枠の向こう側に残っているのだった。
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