16世紀のオデュッセイア

尾方佐羽

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第12章 スペードの女王と道化師

ミシェルはリヨンで妻にお土産を買う

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 1554年の年が明けて、ミシェルは新しい本の原稿を手に再びリヨンへと向かっていた。例年刊行しているアルマナックの版元を変更する折衝と、もうひとつの本の刊行について相談するためである。すでにいくつかの版元に手紙で打診していて、折り返し条件のよかったところに原稿を持ち込むことにしていた。
 リヨンはサロン・ド・プロヴァンスと同じ南フランスになるが、木枯らしが吹いていて肌に刺さるように冷たい。長丈の外套を着こんだミシェルは足早に版元への道を急いでいた。
 ふと気づくと、ソーヌ川の側にあるサン・ジャン(聖ヨハネ、バプテスマのヨハネ)聖堂にたどり着いていた。ここはリヨンのシンボルでもあり、フランス有数の大聖堂だ。目の前に迫る幾何学的な形の大きい壁に圧倒されつつ、彼は扉を開く。ミサの日ではないので中は混雑していないものの、祈りを捧げるために訪れている人は少なくなかった。ミシェルはその列に並ぶ。

 彼はこの先の自分の人生について思うところがある。それはリヨンのコロッセオで日がなラブレーを思い出していたとき以来ずっと同じだった。何かが自分を変えようとしている。自分も変わりたいと思っている。ただ、託されたともいえるその方向が誤りではないかという心配もあった。ミシェルはもう50歳である。現代でも決して若くはない。安定した家庭と社会的地位も得ることができた。もう、日常を安穏と送っていればいいし、アルマナックの執筆という副業も彼に豊かさを与えている。それなのにまた新たな道へ踏み出すのか。彼はなかなかふんぎりをつけられなかった。
 順番が来て、彼は祭壇の前に膝まずいて祈った。祈りの言葉をラテン語で小さく繰り返して、続いてフランス語で同じように続けた。彼は、フランス語をつぶやきながら、流れるような美しさを感じる。
「どうか、お導きのあらんことを」
 彼は次の人に場を譲ると、聖堂を出て新たな版元のある方へ進んでいった。

 彼に必要なのは、導きだった。

 新たな版元、アントワーヌ・ヴォランというところだが、商店か商会か会社かの区分ははっきりしない。いずれにしてもミシェルは店主の大歓迎で迎えられた。穏やかそうな、ミシェルよりやや若く見える風貌の男だった。
「ようこそおいで下さいました。数ある版元の中からこちらをお選び下さってありがとうございます。1555年のアルマナックからこちらで刊行いただけるということですな」
 話はとんとん拍子に進んだ。新しい原稿も「拝見してよろしいですか。少しお待たせいたしますが」と言ってすぐに目を通し始めた。ミシェルはその間、手持ち無沙汰になったので、脇に積んである書物を眺めることにした。
 書物は彼の幼い頃は私家本が大半で、手の届かない贅沢品だった。それが今では街の一角に積んでおけるほどに普及したことに感嘆していた。そのうち、彼の目は『ガルガンチュワとパンタグリュエル』の一連の本が置いてある一画にたどり着いた。ミシェルは思わず声を発する。
「ラブレーの本を読まれましたか」
 店主はふっと原稿から目を離して、ミシェルの言葉に応える。
「ええ、ここいらで本を作っていたら、当然読みますよ。読んでいなければモグリといってもいい。何しろ、フランス語でこれだけの大作を著した初めての方ですからね。証券が主だったリヨンの印刷業を本作りに転化させた功労者でもあります。先行本はありましたが、さほど売れてはいませんでしたから。先ごろパリでお亡くなりになったそうですが、実に残念です。もっと続きが書けたでしょうに」
 ミシェルは大きくうなずいて、この版元なら長く付き合えそうだと感じた。
 そうこうしているうちに、店主はミシェルの原稿をざっと読み終えた。そして、紙の束を揃えながらミシェルを見た。
「これはたいへん面白い。料理の本のようでいて、薬の本のようでもある。そして、ミラノ紀行ともなっている。噂で聞きましたが、あなたはエクサンでペストの治療と予防にあたられて、サロン(ド・プロヴァンス)では名士だそうですな。いやいや、噂通り実に博識・博学なこと、感嘆しました。この内容なら読みものとして申し分ない。ぜひ、うちから出させていただきたい。もちろん、前金でお知らせした金額をお支払いしましょう」
 店主の言葉にミシェルは小躍りしたいほどの気分になった。ただ、それを見せて軽薄だと思われたくないので、かかる話をしなければと気を引き締めた。
「ありがとうございます。ただ、アルマナックとこれをお願いするにあたって、いくつか片付けなければならない件があります」
「前の版元に断りを入れなければいけませんな」と店主はいう。
 ミシェルはうなずいてからさらに説明する。
「ええ、前の版元にこれから出向きますが、それだけではないのです」
「ほう」と店主は身を乗り出す。
「実は王妃殿下からパリに出てくるようにとのお言葉をいただいて、じきにとお答えしているところですが、その窓口が前の版元なのです」
「ふむ。そうしますと、いったん王室との連絡先をご自宅に変更されますか」と店主は尋ねる。
 ミシェルは首を横に振る。
「この本が刊行の運びとなりましたら、お知らせしようと思っていますが、それまでは私の所在を大っぴらにしたくないのです」
「そうしますと、うちがしばらく窓口になるというわけですな。それは構いませんが、前の版元ときっちり話をしなければいけない」
「その通りです」とミシェルはうなずく。
「待ちますよ。それだけの価値があるものです」と店主は微笑んで応じる。

 話をあらかた終えると、ミシェルは店を出ていったん宿に入ろうと道を急いだ。途中で織物の商店が集まっている一画に行き当たって、そのひとつに入ってみる。中には天井まで届くほどの棚があって反物がずらりと並んでいる。どれがいいのか皆目分からない。すると店のおかみが声をかけてくる。
「旦那さま、奥さまへの贈り物をお探しでしたらこちらなどいかがでしょう。厚手ですから冬でも暖かく過ごせますよ」
 値段を聞いてミシェルは仰天した。こほん、こほん、と咳をしてから紳士らしく答えた。
「ああ、結構ですが、妻には少し落ち着きすぎている気がします」
「さようでしたか。奥さまはおいくつぐらいかしら」とおかみが尋ねる。
 ミシェルが妻の年齢を告げるとおかみは笑って、「まあ、本当だ。これはさすがに落ち着き過ぎですわね」と店内を見渡している。ミシェルはまた高いものを出されたら大変とばかり、注文をつける。
「妻はまた懐妊中で、服の大きさが変わってしまうんだ。できればちょっと大きめで、産後にまた詰められるような服を仕立ててやりたい。なので、高級なものより柔らかくて丈夫な生地がいいんだ。色はそうだな……緑色が好きだな、あとは玉子色やエンジか」
 話を聞いて、おかみは微笑んだ。
「本当にいい旦那さま。そのようなことなら、おまかせくださいな。ご予算はどれぐらい?」
 商売っ気は抜けたらしい。おかみはてきぱきと反物を取り出した。さすがこの街で商売をしているだけのことはある。リヨンはフランス一の織物の産地なのだ。ミシェルの希望通りの生地が次々と積まれていく。
「このビロードは特にお薦めです。厚手ですから暖かいですよ。あと、少しお高くなりますがこちらの絹は本当に柔らかくて張りがあります。仕立て屋にも扱いやすいと思います。きっと奥さまもお喜びになりますわ」
 ミシェルはおかみが薦めたのを含めて5~6種類の反物を選んだ。おかみはそれを抱えてミシェルを見る。
「旦那さま、お一人のようですけれど、お届けいたしますか」
 ミシェルはハタと困った。
「うちは、サロンなのだが……」
「ああ、大丈夫ですよ。パリにもお納めしていますからね。サロンでしたらマルセイユに便が出ていますから、その途中でお届けできますわ。お安い御用です」とおかみはどんと請け負った。
「それでは、こちらが代金と運賃で……」とミシェルが言うと、おかみはハッとした顔になる。
「あ、旦那さま。お待ちくださいましね。奥さまはレースはお好きかしら。ヴェネツィアから数日前に届いたのです。つけ襟と肩掛けになりますが、本当に見事な出来で、お仕立てのときに飾りとしても使えますわ」
 おかみが出してきたレースをミシェルは懐かしそうに眺めた。
「ミラノでも、レースを着けた女性をよく見たな……」
「ああ、ミラノでは貴族の女性が好んでお使いになりますから、ご覧になられたでしょう。ようやくこちらでもおしゃれに使われる方が増えてきました」
「それも足してください」
「ありがとうございます」とおかみは生地とレースをひとつにして発送用の束にまとめた。

 「少し散財が過ぎたか」とミシェルは反省したが、アンナの喜ぶ顔が見られるなら安いものだと思い直した。

 宿に入ってミシェルは帳面を取り出して読み返している。
 夢を書き留めているものだ。
 毎晩ではなくなったが、未だに夢をよく見る。この夢日記もだいぶ分厚くなってきた。見返していると、まるで自分がどこか別の世界に来てしまったような気分になる。何がこの夢の源なのだろうかと当初はしきりに考えたが、今はもう考えていない。
 夢で彼は常に観察者だ。
 彼はときには戦場を見下ろし、祝祭の場を仰ぎ見る。大きな星が動いているのに目を回し、襲いかかってくる隕石に驚く。馬上の騎士は結託し決闘する。剣は楯に跳ねられ大地にドスッと刺さる。かと思えば大地がひび割れ、辺りのものが崩壊する。ソドムとゴモラ、雷に打たれるバベルの塔、ノアの方舟だけが回避できた長い長い雨、モーゼが開いた海、青ざめた馬……それらは聖書のイメージである場合もあったし、異なるものもあった。どれもがあまりにも壮大で、かつ混沌としているため、ミシェルは圧倒され記録し続けていくしかなかったのである。

 サロンでの日常とかけ離れた光景を毎夜目の当たりにしているうちに、ミシェルはそれを作品に生かせないかと考えるようになっていた。そのままでは支離滅裂になってしまうし、物語として書くだけの一貫性はない。そこで思いついたのが四行詩の形式だった。見たヴィジョンを四行詩としてまとめておけばいい。もちろん音や韻を踏まえて詩として観賞しうるものにしなければならない。
 そのように決めてから、ミシェルは夢を創作の友ととらえるようになったのである。
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