16世紀のオデュッセイア

尾方佐羽

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第12章 スペードの女王と道化師

夜中に夢を見るノストラダムス

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 リヨンから戻って以来、アンナは夫ミシェルが夜中にたびたびうなされているのをとても心配していた。どのような夢かはアンナに知りようもないが、あまり楽しいものではないのだろう。そのようなとき、ミシェルは起き上がり、枕元に置いてある紙束を取ってペンを走らせるのだ。
 夢を記録しているらしい。
 それらの作業は妻を起こさないよう細心の注意を払って行われたが、音は控えられても気配は消せないものだ。寝たふりをしているが、アンナはいつも気づいていた。アンナは子どもを育てている最中なので、夜たびたび起き出すのは習慣のようになっている。なので大きな赤ちゃんがひとり増えた、ぐらいに思っていれば問題はないのだった。ただ、これまでになかった事柄なので身体を心配するばかりだった。
 リヨンに行ったのが原因なのだろうか、とアンナは理由を想像する。
 アルマナック(星占いの暦)の版元といさかいがあったのだろうと真っ先に思う。その証拠にミシェルは「もうあそことは縁を切る」と妻に憮然とした表情で告げていたのだ。売り上げを着服されたのだろうか。それならば訴えて取り戻せばいい。リヨンは南仏一の大きな街だから、商売がらみの訴訟がたいへん多い。裁判所も立派なものだ。訴訟でそこまで行くのは厄介だけれど、夫の名誉のためならば仕方がない。アンナはそう思ったが、夫は金の文句をひとつもこぼしていなかった。
 何か他にもっと不快なことがあったのだろうか。アンナは少しうつむいて考えている。
 もうひとつの糸口になるかどうか。
 夫は次の本から名字をラテン語読みにすると言っていた。
「ノートルダム、ではなくノストラダムスだ。ラテン語なのでドは付けない」
「まあ、ちょっと重々しい感じになりますのね。大学の教授みたいです」とアンナは微笑んで聞いている。
「ああ、教授ではないよ。著述家としてそう名乗るというだけなのだ」とミシェルは妻の反応に満更でもない顔をする。
「では、ご本もラテン語でお書きになりますの? 私は読めなくなってしまいます」
「いや、きみが読めないような言葉では書かないよ」とミシェルは妻の頬をゆっくり撫でる。
 これまでも筆名を使っていたので名字を変えるというのは正確ではないが、夫は何か心機一転したいのだと妻は感じている。ただ、それはうなされるのとは直接関係はないようだ、とアンナは思い直す。
 妻はミシェルのアルマナックの一番の愛読者である。書いてある天体の動きが知りたくて、家の屋根裏にしつらえている天体望遠鏡を覗かせてもらうこともあった。天体望遠鏡といってものちに流通するものよりはるかに原始的な、筒型の拡大鏡という方がふさわしい。そして、夫婦でああでもないこうでもないと星を探すのだった。
 ミシェルには温もりあふれる家庭がある。
 優しくて自分の仕事を理解している妻と、可愛くやんちゃな子どもたち。
 アンナは夫がその環境に心から満足していると信じていた。だからこそ、真夜中ににうなされるミシェルを心から心配していたのだ。

「紀行文を兼ねた実用的なお料理の本、ですか」
 朝食のあとで、ミシェルがいうのをアンナは不思議そうに聞く。
「ああ、そのような本を読んでみたいと思うかい?」
 アンナはうん、うんと大きくうなずいてみせる。
「はい、そのような本はあまり見たことがありませんわ。空想のお話も面白いけれど、やはり生活に役立つものはぜひ読んでみたいと思います」
「空想のお話、それを読んだことがあるのかい?」
「ええ、あなたの書棚にあった、『パンタグリュエル』の本はとても面白かったわ。いけなかったかしら……」
 ミシェルは目を丸くする。
「いや、いや、きみがあれを読んでくれていたとは感激だ。私にはね、あれだけの話が書けないのでどのようなものを書いたらいいか、ずっと考えていたのだよ。今やアルマナックも雑草のようにそこらにぼうぼう生えてきて、私が格段書くこともない。世間の要望があるならば続けるが、それよりも自分に書けるもの、書きたいものは何だろうと思ってね」
 アンナは夫の悩みの一端を垣間見た気がした。
「そう、そうだったの。あなたは、先を見ていろいろ考えていらっしゃったのね!」
 ミシェルは「もちろんだよ。それでは、きみも同意してくれたし、ここから新しい方向に進もう」とうなずいて妻を抱きしめた。

 確かに、ミシェルは新しい方向へ進もうとしていた。
 小さい頃から暦と芸術の結晶である時祷書を好んできたミシェルは、天文学の知識を生かせるアルマナック(暦)執筆を天職だと考えていた。星の動きを眺めて人の暮らしに生かす。それは多くの人に読まれているし、このまま続けることはできたのだ。しかし、少年の頃から圧倒され続けてきたフランソワ・ラブレーが亡くなったと知って、本当に自分が書くべきことは何かというのを再考せざるを得なくなった。エラスムスの『痴愚神礼賛』やトマス・モアの『ユートピア』に匹敵する「自国語の」物語を書くだけの才能は自分にはないとミシェルは考えていた。ラブレーがいかに広い見識を持っていたか、よく知っていたからである。そもそも、アルマナックを出版していたのはラブレーなのだ。自分はそこに乗っただけだという自嘲的な気持ちもある。
 考えた結果、結婚してすぐに旅をした北イタリアでの見聞をもとに本を書くことを考えたのだ。ミラノでは薬草学の大家にフランスでのレシピ公開を許可されたこともある。材料は十分に揃っているし、他にあまり類のない本になるだろう。

 ただ、ミシェルが考えた真に新しい方向というのはそちらではなかった。
 フランス語で「詩」を書こうと思い立ったのである。トゥルバドゥール(吟遊詩人)のように恋愛や風景を描くのではない。箴言集のような詩を書こうと思ったのである。
 トゥルバドゥールという言葉が出たので補足すると、彼らは11~13世紀頃に、南フランスやカタロニア、北イタリアの地で移動しながら活動し、詩を音楽に乗せて人前で歌ったのである。それらはオック語、あるいはプロヴァンス語で謡われたという。オック語はピレネー山脈周辺の人々の間で使用されていた言葉で、プロヴァンス語も同じ系統である。少なくはなったが、現代まで話者がいるという。
 生粋のプロヴァンス人であるミシェルが、それらを知らないとは思えない。あるいは詩句のひとつふたつ、親から聞いて育ったのかもしれない。なので、このときミシェルが詩を書こうと思ったのは生来の土地の伝統に即したものだった。
 ただ、詩というのは1日に100も200も量産できるものではない。他の著作やアルマナックを書きながら、今の母国語であるフランス語で箴言的な詩句をゆっくりと綴っていければいいと思っている。まだ人に打ち明けるようなものはないので、そちらの方は当面は妻にも秘密でいるつもりだ。
 いずれにしても、ミシェルはそのような形でラブレーの意思を繋いでいこうと決めたのだった。

 それを決めてからだろうか。
 ミシェルは時折夢を見て目を覚ますようになった。穏やかな夢で目を覚ますことはないだろうが、どれも非常に具体的な夢だった。それは天変地異だったり、戦争だったり、天体の異変だったり、どれも個人には手に負えないような内容のものだった。なぜこんな夢を見るのだろうかとミシェルは不思議に思ったが、夢はさらに頻繁になり、じきに夢の方が本当の世界に置き換わってしまうのではないかと不安になるだった。
 何日目だろうか、ミシェルは枕元のテーブルにペンと紙を置いて目覚めてすぐに書き留めてみた。目を固く閉じ眉間に力を込めて、夢から受けた感情を手がかりに夢の中に戻っていく。
 すると見た夢をほぼ思い出せることが分かった。
 アンナが夜中に見た夫はその作業をしている姿だった。

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