431 / 480
第12章 スペードの女王と道化師
夜中に夢を見るノストラダムス
しおりを挟むリヨンから戻って以来、アンナは夫ミシェルが夜中にたびたびうなされているのをとても心配していた。どのような夢かはアンナに知りようもないが、あまり楽しいものではないのだろう。そのようなとき、ミシェルは起き上がり、枕元に置いてある紙束を取ってペンを走らせるのだ。
夢を記録しているらしい。
それらの作業は妻を起こさないよう細心の注意を払って行われたが、音は控えられても気配は消せないものだ。寝たふりをしているが、アンナはいつも気づいていた。アンナは子どもを育てている最中なので、夜たびたび起き出すのは習慣のようになっている。なので大きな赤ちゃんがひとり増えた、ぐらいに思っていれば問題はないのだった。ただ、これまでになかった事柄なので身体を心配するばかりだった。
リヨンに行ったのが原因なのだろうか、とアンナは理由を想像する。
アルマナック(星占いの暦)の版元といさかいがあったのだろうと真っ先に思う。その証拠にミシェルは「もうあそことは縁を切る」と妻に憮然とした表情で告げていたのだ。売り上げを着服されたのだろうか。それならば訴えて取り戻せばいい。リヨンは南仏一の大きな街だから、商売がらみの訴訟がたいへん多い。裁判所も立派なものだ。訴訟でそこまで行くのは厄介だけれど、夫の名誉のためならば仕方がない。アンナはそう思ったが、夫は金の文句をひとつもこぼしていなかった。
何か他にもっと不快なことがあったのだろうか。アンナは少しうつむいて考えている。
もうひとつの糸口になるかどうか。
夫は次の本から名字をラテン語読みにすると言っていた。
「ノートルダム、ではなくノストラダムスだ。ラテン語なのでドは付けない」
「まあ、ちょっと重々しい感じになりますのね。大学の教授みたいです」とアンナは微笑んで聞いている。
「ああ、教授ではないよ。著述家としてそう名乗るというだけなのだ」とミシェルは妻の反応に満更でもない顔をする。
「では、ご本もラテン語でお書きになりますの? 私は読めなくなってしまいます」
「いや、きみが読めないような言葉では書かないよ」とミシェルは妻の頬をゆっくり撫でる。
これまでも筆名を使っていたので名字を変えるというのは正確ではないが、夫は何か心機一転したいのだと妻は感じている。ただ、それはうなされるのとは直接関係はないようだ、とアンナは思い直す。
妻はミシェルのアルマナックの一番の愛読者である。書いてある天体の動きが知りたくて、家の屋根裏にしつらえている天体望遠鏡を覗かせてもらうこともあった。天体望遠鏡といってものちに流通するものよりはるかに原始的な、筒型の拡大鏡という方がふさわしい。そして、夫婦でああでもないこうでもないと星を探すのだった。
ミシェルには温もりあふれる家庭がある。
優しくて自分の仕事を理解している妻と、可愛くやんちゃな子どもたち。
アンナは夫がその環境に心から満足していると信じていた。だからこそ、真夜中ににうなされるミシェルを心から心配していたのだ。
「紀行文を兼ねた実用的なお料理の本、ですか」
朝食のあとで、ミシェルがいうのをアンナは不思議そうに聞く。
「ああ、そのような本を読んでみたいと思うかい?」
アンナはうん、うんと大きくうなずいてみせる。
「はい、そのような本はあまり見たことがありませんわ。空想のお話も面白いけれど、やはり生活に役立つものはぜひ読んでみたいと思います」
「空想のお話、それを読んだことがあるのかい?」
「ええ、あなたの書棚にあった、『パンタグリュエル』の本はとても面白かったわ。いけなかったかしら……」
ミシェルは目を丸くする。
「いや、いや、きみがあれを読んでくれていたとは感激だ。私にはね、あれだけの話が書けないのでどのようなものを書いたらいいか、ずっと考えていたのだよ。今やアルマナックも雑草のようにそこらにぼうぼう生えてきて、私が格段書くこともない。世間の要望があるならば続けるが、それよりも自分に書けるもの、書きたいものは何だろうと思ってね」
アンナは夫の悩みの一端を垣間見た気がした。
「そう、そうだったの。あなたは、先を見ていろいろ考えていらっしゃったのね!」
ミシェルは「もちろんだよ。それでは、きみも同意してくれたし、ここから新しい方向に進もう」とうなずいて妻を抱きしめた。
確かに、ミシェルは新しい方向へ進もうとしていた。
小さい頃から暦と芸術の結晶である時祷書を好んできたミシェルは、天文学の知識を生かせるアルマナック(暦)執筆を天職だと考えていた。星の動きを眺めて人の暮らしに生かす。それは多くの人に読まれているし、このまま続けることはできたのだ。しかし、少年の頃から圧倒され続けてきたフランソワ・ラブレーが亡くなったと知って、本当に自分が書くべきことは何かというのを再考せざるを得なくなった。エラスムスの『痴愚神礼賛』やトマス・モアの『ユートピア』に匹敵する「自国語の」物語を書くだけの才能は自分にはないとミシェルは考えていた。ラブレーがいかに広い見識を持っていたか、よく知っていたからである。そもそも、アルマナックを出版していたのはラブレーなのだ。自分はそこに乗っただけだという自嘲的な気持ちもある。
考えた結果、結婚してすぐに旅をした北イタリアでの見聞をもとに本を書くことを考えたのだ。ミラノでは薬草学の大家にフランスでのレシピ公開を許可されたこともある。材料は十分に揃っているし、他にあまり類のない本になるだろう。
ただ、ミシェルが考えた真に新しい方向というのはそちらではなかった。
フランス語で「詩」を書こうと思い立ったのである。トゥルバドゥール(吟遊詩人)のように恋愛や風景を描くのではない。箴言集のような詩を書こうと思ったのである。
トゥルバドゥールという言葉が出たので補足すると、彼らは11~13世紀頃に、南フランスやカタロニア、北イタリアの地で移動しながら活動し、詩を音楽に乗せて人前で歌ったのである。それらはオック語、あるいはプロヴァンス語で謡われたという。オック語はピレネー山脈周辺の人々の間で使用されていた言葉で、プロヴァンス語も同じ系統である。少なくはなったが、現代まで話者がいるという。
生粋のプロヴァンス人であるミシェルが、それらを知らないとは思えない。あるいは詩句のひとつふたつ、親から聞いて育ったのかもしれない。なので、このときミシェルが詩を書こうと思ったのは生来の土地の伝統に即したものだった。
ただ、詩というのは1日に100も200も量産できるものではない。他の著作やアルマナックを書きながら、今の母国語であるフランス語で箴言的な詩句をゆっくりと綴っていければいいと思っている。まだ人に打ち明けるようなものはないので、そちらの方は当面は妻にも秘密でいるつもりだ。
いずれにしても、ミシェルはそのような形でラブレーの意思を繋いでいこうと決めたのだった。
それを決めてからだろうか。
ミシェルは時折夢を見て目を覚ますようになった。穏やかな夢で目を覚ますことはないだろうが、どれも非常に具体的な夢だった。それは天変地異だったり、戦争だったり、天体の異変だったり、どれも個人には手に負えないような内容のものだった。なぜこんな夢を見るのだろうかとミシェルは不思議に思ったが、夢はさらに頻繁になり、じきに夢の方が本当の世界に置き換わってしまうのではないかと不安になるだった。
何日目だろうか、ミシェルは枕元のテーブルにペンと紙を置いて目覚めてすぐに書き留めてみた。目を固く閉じ眉間に力を込めて、夢から受けた感情を手がかりに夢の中に戻っていく。
すると見た夢をほぼ思い出せることが分かった。
アンナが夜中に見た夫はその作業をしている姿だった。
0
お気に入りに追加
34
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。



会社の上司の妻との禁断の関係に溺れた男の物語
六角
恋愛
日本の大都市で働くサラリーマンが、偶然出会った上司の妻に一目惚れしてしまう。彼女に強く引き寄せられるように、彼女との禁断の関係に溺れていく。しかし、会社に知られてしまい、別れを余儀なくされる。彼女との別れに苦しみ、彼女を忘れることができずにいる。彼女との関係は、運命的なものであり、彼女との愛は一生忘れることができない。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
旧式戦艦はつせ
古井論理
歴史・時代
真珠湾攻撃を行う前に機動艦隊が発見されてしまい、結果的に太平洋戦争を回避した日本であったが軍備は軍縮条約によって制限され、日本国に国名を変更し民主政治を取り入れたあとも締め付けが厳しい日々が続いている世界。東南アジアの元列強植民地が独立した大国・マカスネシア連邦と同盟を結んだ日本だが、果たして復権の日は来るのであろうか。ロマンと知略のIF戦記。
織田信長IF… 天下統一再び!!
華瑠羅
歴史・時代
日本の歴史上最も有名な『本能寺の変』の当日から物語は足早に流れて行く展開です。
この作品は「もし」という概念で物語が進行していきます。
主人公【織田信長】が死んで、若返って蘇り再び活躍するという作品です。
※この物語はフィクションです。
水野勝成 居候報恩記
尾方佐羽
歴史・時代
⭐タイトルを替えました。
⭐『福山ご城下開端の記』もよろしくお願いします。
⭐福山城さま令和の大普請、完成おめでとうございます。
⭐2020年1月21日、5月4日に福山市の『福山城築城400年』Facebookでご紹介いただきました。https://m.facebook.com/fukuyama400/
備後福山藩初代藩主、水野勝成が若い頃放浪を重ねたあと、備中(現在の岡山県)の片隅で居候をすることになるお話です。一番鑓しかしたくない、天下無双の暴れ者が、備中の片隅で居候した末に見つけたものは何だったのでしょうか。
→本編は完結、関連の話題を適宜更新。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる