16世紀のオデュッセイア

尾方佐羽

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第11章 ふたりのルイスと魔王2

竹生島に渡る天女 1564年 琵琶湖

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〈雪沙、又助、孫介、織田信長、市、浅井長政、ルクレツィア・ボルジア、チェーザレ・ボルジア〉

 この辺りでもっとも高い伊吹山、霊仙山をかすめつつ進むと、いくつかの険しい道といくつかのなだらかな野に出会う。それを越えると蒼い色が突然目に飛び込んでくる。知らない人はいないが、知らない人が見れば海にしか見えない広大な湖、琵琶湖である。そこに至ればすでに近江国に入ったということにもなる。
 近江は室町幕府が開かれた当時に活躍した佐々木道誉が受領し、そこから生まれた京極氏が守護を担った地だった。道誉はばさら者の代表格として名を残している。百年近く前に日本を二分した応仁の乱で京極氏の力は衰え、六角家がそれにとって変わった。そして家臣の浅井家が北近江を任された。
 しかし、この前年の永禄6年(1563)に変事があった。当主の六角義治が家臣を殺害したのである。もともと当主への不満は家中にあったのだが、これが決定的だった。浅井長政も六角氏から離反し、それに付いて六角家を出る者が続いた。この騒動で六角を離れ浅井に仕官した者も多く、近江の勢力図は塗り替えられようとしていた。もちろん主家が黙っているわけはなく、長政の遠征している隙を見て浅井の領地に攻め込んできた。長政はその動きを察して取って返し、六角勢を撃退してみせた。
 両者はまだ緊張状態にあるが、旅の一行は六角氏、浅井氏とは敵対関係にない。
 旅をする雪沙の一行は、そのことだけでホッと胸を撫で下ろすのだった。

「そういえばお市さまの婚約は決まったのか」
 湖を望む木陰で休みながら、雪沙が問う。
「いかがでしょうな。お話はあるようですが、まだはっきりとはしていないようで」と孫介がいう。
 市とは織田信長の実妹で数えで十八になる。小牧山の織田家中では皆の心を和ませる可憐な女神のような存在だ。名ある武家の女性で数え十八というともう婚姻していても不思議ではないのだが、それがなかなか決まらない。信長は北近江の浅井長政のところへ市を嫁がせたいのだが、まだ時期が決められない。自身も美濃の斎藤龍興との決着が付いていないので、先の情勢が読めない。近江の状況もまだまだ不透明であるし、浅井長政には六角家の出の正室がいる。

 市には待つ理由は何もないのだが、そのようにいろいろな事情がある。

「うむ、まあ急ぐこともないだろう。そう思う者も家中に多くいると思うが」と雪沙は答える。
「ええ、さようですな」と孫介がうなずく。
 雪沙は遠い目をして蒼い湖面を見やる。
「又助、少し私の知っている話をしてもよいか」
「ええ、ぜひ」と又助は応じる。

 又助と孫介が聞いたのはこのような話だった。

 昔、あるところに貴族の家系の家があり、そこには5人のきょうだいがいた。男・男・女・男・男である。一人だけの女子は皆にたいそう可愛がられた。長男は少し年かさだったので、次男と妹はいつも一緒に遊んでいた。そのうち、長男は与えられた領地で早世する。父親はたいそう悲しんだが、3男にその役を代わらせた。次男はといえば、はじめから僧にするつもりだったので、そのまま僧の道を進ませることにしたのだ。
 ただ、次男は兄の跡をついで領主になりたかったのだ。さらにもっと大きなことをなしとげたいと考えていた。そのことに父は気がついていなかった。妹だけは次兄の望みを薄々感じていたが、自分がそれを父に懇願できる立場ではないのでただ心配しているだけだった。
 次兄は本心は表に出さず明るくしていた。
 そのうちに、妹にも縁談がきて貴族の家に嫁ぐことになる。しかし、父の考えで彼女は実家に留め置かれ、夫となった男と住むことはなかった。そのまま子も作ることもなく離縁することになる。簡単にいえば、子どもをあえて作らせないようにすることで離婚する前提の結婚だったということである。そして妹にはすぐ次の結婚話が持ち上がった。もちろん父が決めた貴族の男である。この相手には妹も好意を抱き、今度こそ普通の結婚生活が送れると期待していた。しかし、2度目の結婚にも暗雲が立ち込める。同盟関係に利益がないということで再び別れさせられようとする。妹はそれに異を唱えたので、父はさすがに反省したようである。
 そのさなか、2番目の夫は夜の外出中に不意の襲撃を受けて重傷を負った。心配した妻が使いを走らせ、ケガ人を自室に運び込んだ。そして医者と女性の身内以外誰も部屋に入れず、昼夜を問わず懸命に看病したのだ。その甲斐もあって、ひと月ほどで夫はいくらか回復していた。
 誰がしたのかは分かっていた。
 彼女は夫に詫びたが、それが彼女のしわざではないと知っている夫は責めることをしなかった。ただ、夫はひどく怯えていた。妻は自分が盾になって守ろうと決めていたし、夫にもそう伝えたのだが魔の手は容赦しなかった。

 妻がほんのわずかの間部屋を離れて戻ったとき、夫はもう息をしていなかった。

 妻、いや妹は知っていた。
 すぐさま夫を絶命させた短刀を持って、それをした人間、させた人間に向かっていくこともできたかもしれない。しかし彼女にはできなかった。悲しみに押し潰されてしまったのである。
 夫の葬儀を終えると妹は回りが止めるのも聞かず、修道院に入ってしまった。

 その間にも事件が起こった。きょうだいの3男が夜の移動中に襲撃されたのだ。長兄の領地を継いだ男である。それが分かったのは行方不明になって日が経った後だった。3男の遺体は川に浮いているのを発見されたのである。
 修道院でそれを聞いた妹はさらに打ちのめされた。誰がしたのか、させたのかは分かっていた。まるっきり夫のときと同じだった。そしてさせた人間がこれから何かをしようとしているのだということにも気がついた。
 妹は3度目の結婚に臨むことになった。
 実家から遠く離れた地の誉れ高い武人のもとに赴くのである。
 妹の2度の結婚が悲しい結末に終わったことを父も兄弟も深く悔いていた。ゆえに、この結婚に関してだけは、何よりも妹の幸せが優先されたようだった。3番目の夫はこれまでの話をすべて知った上で、「実家がどうであろうと妻を守る」と請け負った。そう言えるだけの力を持つ人でもあるので、父は感激し持参金を積み重ねたし、次兄は妹の先導をして嫁ぎ先の国境まで送っていったのである。
 父も次兄も他の兄弟も彼女を深く愛していたのである。政争と戦争という醜いものの間にある、澄んだ泉のような存在だった。

 妹が嫁いですぐ、次兄は豹変した。いや、真に自身が進みたいと願っていた方へ思い切り舵を切ったのである。名誉ある僧衣を脱ぎ捨てて、剣を握り締める。そして生まれ育った『長靴の形をした半島』を統一するために、自身の軍勢を進めていった。


 雪沙は蒼い湖を遠くに見つめていた。

「なるほど、雪沙さまはお市さまに妹ぎみを重ねておられるのですな」と又助がつぶやく。雪沙の話でだいたいのことは察したらしい。
 どこかお伽噺のように聞いていた孫介がハッとして問う。
「は、雪沙さまのお話だったのでしょうか。え、そうなのですか。それがし、まるでお屋形さまのことのようだと思って伺っていました……」
「お屋形さまは僧になろうとしたことはない。よう知っとるはずだで」と又助が注釈を入れる。
「さようですな」と孫介が頭を掻く。
「ああ、私の話だ。そして孫介がいうように上総どの(信長)の話のようでもある。どこかしら、若い彼が私に似ているような気がした。詳しく語りはしていないが、上総どのも同じように感じたのだろう。それは妹の話だけではない。その辺りは慮ってもらえばよい。だからこそ、私は尾張に居を定めたのだ」

 二人はしばらく黙っていた。
 そして、又助がようやく口を開いた。
「雪沙さまは、妹ぎみのこと、ひどく悔やんでおられるようですが、妹ぎみは万事承知しとったんだと思います。おなごゆえの辛さはあったでしょうが、みっつめの嫁ぎ先では幸せにお暮らしになられたのでしょう。なぜなら雪沙さまはそこでお話を止められましたから。おそらく、お屋形さまも、お市さまを大事にしてくれる家に嫁に出してゃあはずですで、それでええのではないでしょうや」
 孫介もそれに大きくうなずき、「又助どのはうまいこと言われるものだで」と感じ入っている。

 すると、又助は何かを思いついたようで、突然朗々と謡い始める。


もとより衆生済度の誓
もとより衆生済度の誓 さまざまなれば
あるいは天女の形を現じ 有縁の衆生の願をかなえ
または下界の竜神となつて 国土を守る
誓を現わし 天女は宮中に入らせ給えば
竜神は湖水の上にかけって 波を蹴たて
水を返して天地に群がる大蛇の形
天地に群がる大蛇のかたちは
竜宮に飛んでぞ 入りにける(※)

「ああ、申楽の曲なのか、高雅な言葉だ」と雪沙が目を細める。
「雪沙さま、あちらに小さな島が見えましょう。あの島が舞台の謡曲なのです」と又助がニコッと笑っていう。
「あれは竹生島(ちくぶしま)だ。さような謡曲があるのか」と孫介も初耳の様子だ。

「神のおわせられる島と言われており、女人禁制でございますが、そこへ弁天さまが舟で渡られるというくだりが秀でておりますな」と又助は自説を披露する。

「弁天、天女は女神か、神の島か……」
 雪沙はそうつぶやきながら、きらきらと輝き始めた湖面の先にある、緑濃い小さな島を飽かず眺めていた。


※『竹生島』(伝・金春禅竹作)より一部引用
引用元 http://www.syuneikai.net/chikubushima.htm
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