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第11章 ふたりのルイスと魔王2
名を失くした人の独白 1953年 尾張
しおりを挟む〈雪沙、チェーザレ・ボルジア、ミケーレ・ダ・コレーリア、フランシスコ・ザビエル〉
雪沙は旅立ちを控えていた。目的地である堺の商人・日比屋了珪にはすでに便りを出してある。それにはすぐに返事の文が届いていて、迎えを出したい旨が記されていた。誰もはっきりとは知らないが、雪沙は相当な高齢でしばらく体調を崩してもいたのだから心配にもなるだろう。だが、雪沙はそれを辞退した。なぜなら、逗留している尾張小牧の織田信長が人と馬を雪沙に与えることになっているからである。なるほど、その方が至って自然なことである。雪沙は表向き信長の客人の学僧なのだ。
本当は、雪沙はひとりで旅立ちたかった。
彼はこれまで長い長い旅をしてきたが、常に誰かが付いていたからである。
イタリア半島からフランスを移動するときには彼の軍勢が、特にミケーレ・ダ・コレーリアが離れることは決してなかった。ミケーレは彼の軍の司令官になるずっと前から、雪沙ーーチェーザレ・ボルジアの側にいた。ローマでも、ボローニャの学舎でも……ミケーレは第一の臣であり、家族に限りなく近い親友だった。フランスで華々しく婚礼を行ったときも同様だった。
それだけに、ミケーレのことは今だによく思い出す。彼の最期についてもかなり後で、いや、どちらかといえば最近知ることができた。彼の死はもう忘れるほどの昔で1508年のことだった。この時から遡っても55年前だ。ミラノで刺殺されたという。フランスの傭兵隊長にと望まれてその準備をする矢先だったとも。
それを知ったとき、彼の親友だった男ーー雪沙は頭の中が真っ白になった。
ミケーレと初めて会ったのは私が5~6歳の頃だった。バチカン、教皇庁宮殿の書庫で本を読んでいる私のところに、彼がやって来たのだ。初めから私の臣になることを決められて。
彼の一声はこのようなものだったと思う。
「あぁ、ブリタニアのアーサー王ですか。教皇庁にはそんな本もあるのですね」
私はアーサー王を知っている人間がいることに果てしない喜びを覚えた。
「いや、持ち込んだんだ」
ミケーレはただ頷いただけだった。何と評していいか分からなかったのだろう。私はといえば、内心快哉を叫んでいたが、つとめてそれを出さないようにして言った。
「おまえは頭がいい。決めていたんだ。この話を知っている人間をいちばん大事な仲間にしようって」
ミケーレはびくっと驚いて返した。
「チェーザレ様、私は従僕です」
私はアーサー王の本をパラパラめくりながら、ある部分をのぞきこんだ。
「おまえの名前がミケーレだから……よし、おまえを今日からミケロットにしよう」
私が開いたページには、円卓の騎士ランスロットの名前が見えた。
「チェーザレ様、ランスロットとアーサー王はじきに敵になるのです。だめです」
なかなかいい切り返しだ、と私はさらに愉快な気分になった。
「それぐらいの器量がなければ、私は仲間と認めない」
それから彼はドン・ミケロットと呼ばれるようになった……。
誰もが認めるほど頭脳明晰で武力に長けた、自分がもっとも信を置いていた臣下であり親愛なる友が、道端で刺されてあっけなく亡くなった。
その暗殺者に自分が手を下すことができたらーー唇を強く噛みしめ、雪沙は沸き上がる憎悪に身を焼かれそうになった。
しかし、報復の機会はもうやって来ない。
暗殺者もおそらく、もう生きてはいないだろう。
1503年、ローマやミケーレとの別れを余儀なくされたチェーザレは一族の国スペインで高塔に幽閉され、かろうじて脱出した。逃避行する際にはその手引きをしたペナヴェンテ伯の従者が付き、チェーザレを仮の名、アントーニと呼んだ。
名を失ったのはあれからだっただろうか、と彼は思う。
ナヴァーラに到着して以降はしばらく実名でいられたが、フランスとスペインがナヴァーラに干渉してきたことで、私は身を隠さねばならなくなった。ナヴァーラの宰相だったホアン・デ・ハスの城に匿われ、その時からただ、セサルとだけ呼ばれるようになった。
ナヴァーラのヴィアナという場所でチェーザレ・ボルジアは孤独に討ち果たされたが、それはチェーザレ・ボルジアという名を消すためになされたことだった。その男はチェーザレ・ボルジアの甲冑と剣を身につけており、討ち果たされた後は即座にナヴァーラ王の配下によって埋葬された。敵に顔が知られていたわけではないが、念入りに後の判別がつかないようにしたのだ。
何と哀れな男なのだろう。
身代わりに死なねばならぬとは。
それでも生きている私は静かに時を待つことができた。セサルというのはチェーザレのスペイン読みなので名を失ったとはまだ思っていなかったからだ。おじいさま、というのが推奨されたようだが、あの頃まだ私は32歳だった。
ハスの城・シャビエル城は辺境の要塞も兼ねていたからたいそう堅牢で広かった。特に、法曹家だったハス自慢の蔵書はたいへん素晴らしいものだった。普段、他には見つけられない隠し部屋にいた私だったが、書斎にはいつでも入っていいと言われていた。そこは私にとって天国のような場所だった。プルタルコスからプリニウス、アリストテレス、美しい時祷書の数々……パドヴァ大学で学んだハスとは時折楽しく語らい合ったものだ。
ハスの末っ子は聡明な子で、私を見つけると矢継ぎ早やに質問をしてきた。いくら子どもとは言っても、そうそう身上を明かすわけにもいかない。その子どもがプルタルコスを読んでいて、アレクサンドロス大王が好きだと言ったときには本当に驚いた。子どもがそう言ったから驚いたのではない。
私も子どもの頃からアレクサンドロス大王に心酔していたからだ。私は驚くと同時に、少し子どもをからかってみたくなった。私がチェーザレ・ボルジアだった頃の皮肉屋の風が現れたのだろう。
「フランチェスコ、この書斎は人間の様々な愚行と苦悩、稀に爪の先ほどの栄光で彩られているが、君はどの英雄がお好みかね」
すると、フランチェスコと呼んだその子は淀みなくはっきりと答えた。
「アレッサンドロ三世」
私ははそれを聞いて、無性に可笑しくなった。どうしてかは分からない。
「それはイタリア語じゃないほうがいいな。アレクサンドロスだ。マケドニア出身の偉大な大王か。しかし果てのない東征に兵は疲れ、本人も倒れ、その名を冠した都市は多数に上るが裏切りも多く、残ったものといえば、大王の栄光をメシの種にする後継者たち。ろくなことはなかった」
子ども相手にムキになったものだ。
しかし、子どもは少し困った顔をしながらも、懸命に自身の考えを説明した。
「たくさんの歴史から見れば、大王の進んだ道とその戦いは、すぐ吹きすぎるほどの風だったのかもしれません。ですがその風が持っていったものもあると思うのです。このような写本やことば、考えかた、絵や彫刻、お金、そしていちばんは人です。人は旅をすることで他の人に何かを伝え、また何かを受け取ることができるのではないでしょうか。それが剣や戦争という力だということには、よいとか悪いがあるかもしれませんが。私はその風が通った土地のはてしない広さを思うと、とてもワクワクするのです」
私は負けたと感じた。
この子どもは、東征という行為ではあったが、はるか昔のアレクサンドロス大王の息吹のようなものをすでに会得していた。
いや、旅というものの本質とも表現できるかもしれない。私はしばらく黙っていた。もうこれ以上、子どもに問答を仕掛ける必要はなかった。ただ、もう少し話していたいと思った。
「おまえほどの子供が言うこととは思われぬ、立派な答えだ。旅か……私も流れ流れて、ようやくこの地にたどり着いたが、その旅には何か意味があっただろうか」
「あるところから別のところに移ることだけが、旅ではありません。人の人生がまるごと旅なのではないでしょうか」
私は思わずハッハッハと笑い出した。
「おまえは面白い。アッシジの聖者と同じ名を持つフランチェスコよ、小僧に人生を教わるとは思わなかった。人生についての講義もよいが、私はまだよくバスク語を解せないから、ひとつそこから教えてもらおうか、先生」
フランシスコ・ザビエルとの最初の会話を私は懐かしく思い出していた。思い出はその後も雪のように降り積もるほどある。ただ、今はそれをすべて思い出す必要はない。
その後の私はシャビエル城を出て、名を表に出すことも一切なくなった。名乗る必要があるときには、セサル・アスピルクエタ、あるいはアスピルクエタ博士の使用人、それだけになった。日本に留まることにしてからは、セサルを当てはめた雪沙が名になった。
この名で私は人生を終えることになるのだろう。そして、今度の旅は人生最後の旅になるのだろう。旅をするほどの体力はもう残っていないのかもしれないが、手厚く保護してくれる人がいることはひどく嬉しく感じる。
このように恵まれた旅をさせてくれる神に心から感謝している。
雪沙は静かに祈っていた。
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