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第11章 ふたりのルイスと魔王2
黒本尊像にまつわる話 1563~4年 岡崎
しおりを挟む〈松平家康、水野惣兵衛(忠重)〉
尾張と美濃の睨み合いと小競り合いが続いているとき、他国でも丁々発止の戦いが繰り広げられていた。従来の守護も地頭もすでに有名無実となっているが、その傾向が一層顕著に現れるのである。
尾張の東には三河がある。
織田信長はほぼ尾張を手中にして次の展開に照準を当てていたが、三河はまだそのような状態ではなかった。まだ若い岡崎城主の松平家康は、三河の舵取りに難渋していた。先頃元康から家康と諱を変えたばかりである。伯父の水野信元の仲介で織田信長と同盟を組んだので、尾張が三河に攻めてくるようなことは考えずに済んだわけだが、獅子身中の虫が最も厄介であった。何しろ、つい先頃まで彼は駿河の今川の人質であったのだから、お膝元の岡崎城はさておき、他は山あり谷ありといえた。
そのようなときに、家康の胃がキリキリと痛むような事件が起こった。
「何ということだで、せっかく心機一転諱を改めたばかりというに、よほど験が悪いのきゃ」
さすがに諱を変えたせいではないと思われるが、名に当たりたくなるほどの一大事だった。
いや、その後で苗字も変えているので、本人の心情に多少は影響しているかもしれない。
永禄6年(1563)、家康の家臣・菅沼定顕が岡崎の上宮寺に兵糧米の拠出を求めた。それまで一向宗寺院は自治権を許され領主は介入しないという約束をしていたので、寺側は強硬に反発し突っぱねた。
上宮寺は本願寺教団に属している一向宗寺院で、本證寺、勝鬘寺(しょうまんじ)と合わせて三河の三寺と呼ばれていた。
その拒絶は菅沼氏の求めを突っぱねたのにとどまらない。岡崎城主の松平家康に公然と反旗を翻したことになる。そして、三河の三寺と信徒が家康と敵対することになる。
それは恐ろしい脅威であった。
ここで、なぜ寺社勢力が領主にとって脅威となるのか簡単に述べておこう。他でも同様の動きが多発するようになるからである。
一向宗は浄土真宗の一派である。浄土真宗と言えば昔、鎌倉時代に親鸞が唱えた宗派である。「善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」(歎異抄)との考えのもと、「南無阿弥陀仏」と唱えれば誰でも極楽浄土に行けると説いた。この平易な教えに多くの人々が共感し、その信徒はあっという間に膨れ上がった。その後で浄土真宗にはいくつもの派に分かれたが、一向宗はその一つである。
この宗派は僧侶のみならず信徒同士で集まってお互いに救いを与え合うことができる。題目をともに唱えるのを繰り返し、人々は集団を築いていく。新たな信徒に門戸を閉じることもない。何より世の中は常に戦乱の危機があり、武士でなくともいつ戦にかり出されるか分からない。不安が常にある。一向宗はそのような世の中で爆発的な勢いで広がっていくのである。この頃には浄土真宗、一向宗の総本山である本願寺が着々と力を蓄えていた。法主は顕如(けんにょ)、あるいは本願寺光佐という。
彼を筆頭にした一向宗が蓄えていた力は人だけではない。信徒から莫大な布施を寄せて全国各地に自警団を編成していた。各地には「坊官」と呼ばれる者が派遣され、信徒を指導・統率した。信徒はみな兵になりうる。少々軍事に寄った説明になっているが、これはまさに中央集権型の一大勢力であった。組織だけで見れば、本来の武士よりよほど統制されていたかもしれない。
しかも、彼らは京都の公家などと密接な関係も築いていた。
すべての仏教宗派がこのようになっていたわけではないし、一向宗の行動原理は浄土真宗本来の教えとも異なっていたので誤解を招いてはいけないのだが、なぜ領主や大名が一向宗を脅威と見ていたかを説明するために述べてみた。「寺社勢力」というと屈強な僧兵が槍を振るっている姿のみを思い浮かべるかもしれないが、信徒の集団も決して平和的なわけではないということだけ念押ししておきたい。ことの次第によっては、寺社勢力が一国の覇者になる可能性もあったのだ。
さて、上宮寺が家康に反旗を翻したのを受けて本證寺が戦いの狼煙を上げた。古刹の勝鬘寺(しょうまんじ)も加わった。ここには陣が敷かれ、家康率いる軍勢と対峙する。
西三河における戦であった。
しかも、通常の戦とは異なる要素がある。家康の家臣にも一向宗の信徒がいたのである。そのうちの何人かはこの非常時に敵方に付いてしまった。加えて、これに乗じて家康を倒そうとする一部の今川勢まで加わる。家康にとって大きな打撃であり危機だった。己の基盤がグラグラと揺るがされる。精神的に追い詰められただろうことも想像に難くない。
ただ、彼に味方がいなくなったわけではない。
急報を受けて、三河の豪族で信長とも同盟を組んでいる水野信元の末弟、水野惣兵衛(忠重)が家康の元にやって来た。彼は兄の信元から、家康に付くようにと命じられていたのだ。彼は岡崎城で情けない顔を隠そうともしない家康を見て、ため息をついた。
「貴殿、この世の終いのごとき顔をしとるでいかん。わしの目をきっと見据えてみよ」
家康は虚ろな目を三歳年長なだけの叔父に向けた。
「いかん、いかんで。一揆勢は岡崎城まで攻め込んでくるつもりなのでや、ぽきんと折れとる場合か」
ぽんぽん言葉を放ってくる叔父に、家康はカッと目を見開いた。
「なれば、惣兵衛どのはかようなとき、いかがされる?」
惣兵衛はニヤリと笑った。
「うむ、まず寺に逃げる」
家康は予想外の言葉に目を丸くした。
「逃げる?」
家康の反応が予想通りだったので、惣兵衛は楽しそうだ。不敵と言おうか、なかなか度胸のある男のようだ。
「これを岡崎城対一揆勢の戦いにしたらいかん。今後に遺恨を遺すぞ。験の悪い心持ちにもなりたくはなかろう」
やはり験なのか……験が悪いのか……と家康は心の中で一人ごちている。それを一切忖度することなく、水野惣兵衛はたたみかける。
「まずおぬしの手に誰がおるのか、しかと勘定せい。勘定したら、西三河の寺でこちらに付くのを徹底的に囲い込む。そして、岡崎城だけでなく、それらの寺にもおぬしの衆を置け。寺を巻き込みゃあええで。そして、城を攻められたら寺に逃げる。あちらの寺が不可侵なら、こちらもそうだもんで、あいこだわ。その間に打つ手も決められる。敵が高ぶっているときほど、こちらは聡くなれ」
家康は、目から鱗が落ちるような心地がした。自分がぽきんと折れている間に、助力する手だてをいろいろ考えてくれたのに違いない。
「叔父上こそ、聡いで」
それを聞いた青年武者の惣兵衛はニカッとして笑う。
「おうおう、承知してくれればそれでええ。何しろ、貴殿に何かあったら、わしゃ姉上からどのような仕打ちを受けるか……恐ろしい。とにかく、皆を集めよう」
この惣兵衛の励ましと助言で家康は気を持ち直すことができた。惣兵衛は母の弟なのだが、誰よりも心強い味方のように思えた。疑心暗鬼になっていた家康にとって、「この人は決して自分を裏切らない」と思える存在を見つけたのは大きな大きな力になった。
この後で一揆勢は岡崎城に攻め込んできたが、家康は寺に逃げ込み難を逃れ、態勢を整え反撃に出た。一揆勢の本拠地のひとつになった勝鬘寺では激しい交戦状態となった。
そして家康勢が勝利し、建物には火が放たれ燃え落ちていった。
惣兵衛も援軍として大きな働きをした。家康方の酒井正親が籠る西尾城の救援に向かい一揆勢の馬場平太夫を討ち取り、続く上和田城の戦いを越え、安城の細畷で一揆軍の大将・石川新七郎を討ち取ったという。
一揆は永禄7年(1564)の初めにはほぼ収束した。西三河を二分する一向一揆を家康は戦いきったのである。これは家康にとって験の悪い話だったようだが、結果的にこの戦いが彼を西三河の覇者にする大きな契機となった。
物事は表裏一体なのだ。
家康は戦の後で松平氏ゆかりの妙源寺を参詣した。叔父の水野惣兵衛も同道した。ここは西三河で最も古くに建てられた浄土真宗の寺院である。太子堂(柳堂)は、もともと正嘉2年(1258)の建立といわれる。
岡崎城から逃げて家康が一時駆け込んだのはこの寺だった。その時から家康は心惹かれていたものがあった。この寺の本尊、いわゆる『黒本尊』と呼ばれる像である。それを惣兵衛に見せたかったのだ。
この阿弥陀如来像はもともと、源義経の護持仏だったといわれている。その由緒もさることながら、大変素晴らしい造りである。
「叔父上、この清らかなご尊顔をわしは暇あれば拝んどりましたが、それで心の平静を保つことができました。そして願った通り、戦に勝つことができました。わしは寺にお願いして、このご本尊を譲っていただこうと考えておりますで……この戦に勝てたのはご本尊と……叔父上のおかげだで……」
惣兵衛は仰天して、びくっとして家康をまじまじと見た。
「わしとご本尊様を同じにしたら、バチが当たるで。滅相もない。しかし、まことに美しい、無垢な赤子のようなお顔をしとる……」
二人はしばらく像に手を合わせていたが、惣兵衛がはたと手を打った。
「いかがされた」と家康が惣兵衛に尋ねる。
「きのう、城から報せが来た。室が身籠ったらしい」と惣兵衛が答える。
「ほう、それは祝着至極にございます」と家康も驚いて笑顔になる。
「この阿弥陀如来様のように、無垢で清らか……でなくともよいから、無事に、丈夫に生まれてきてほしいもの」
「水野惣兵衛の子であれば、丈夫で聡い子になると思いますで」
惣兵衛は微笑みながら頷く。
家康の目には、本尊も微笑んでいるように見えた。
※作者注 黒本尊は現在、東京の芝増上寺にあり、限られた日に開帳されています。
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