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第10章 ふたりのルイスと魔王1
庵の老人と城の移転 1562年 小牧
しおりを挟む〈雪沙、織田信長、コスメ・デ・トーレス、
ファン・フェルナンデス、チェーザレ・ボルジア、フランシスコ・ボルハ〉
雪沙が尾張にやって来て六年の月日が経った。
しばらく逗留した政秀寺から小さな庵に移り、たまに訪ねてくる人に会う以外はひとり静かに過ごしている。
自分で田畑を耕したり、狩りをして食糧を得ることはしていない。近郷の人が野菜や締めた鶏肉、薪などを届け、時おり訪ねてくる人が米を運び込むので出歩かなくとも済むのである。彼がするのは少し歩いた先にある川で魚を釣るぐらいだった。もともと運動能力が優れていたので、餌をつけるのに難渋するのを除けば上手に魚を釣っていた。
少なくない数の人々が雪沙のことを気にかけていることは間違いない。時おり訪ねてくるのは、堺の商人・日比屋了珪(ひびやりょうけい)の使いで、それをたよりにして九州にいるトーレス司祭も様子伺いの便りを寄せてくる。ただし、宣教師すべてが雪沙の存在を知っているわけではない。トーレス司祭は、たまたま雪沙と同じスペイン・ヴァレンシアが出自で、意志疎通をはかりやすい人だったこともあり、秘密のうちに連絡を取り続けているのだ。
彼の他にポルトガル人にファン・フェルナンデス修士もおおむねのことは知っていたが、雪沙がローマでどのようなことをしていたか直に見聞きしたわけではない。ある意味、紳士録に名があるというほどの認識だったかもしれない。
ファン・フェルナンデスの記憶にある雪沙は常に物静かで冷静な老人だった。フランシスコ・ザビエルの相談に乗るときだけは父が息子にそうするようによく彼の話を聞き、的確な助言をしていた。ずっとザビエルとともに行くのだとフェルナンデスは考えていたので、雪沙が堺に残ると言ったときにはかなり驚いた。おそらく、京の天龍寺で高名な禅僧・策彦周良(さくげんしゅうりょう)と問答をしたことが影響したのだと思われた。それと、明朝の中国にまで行くのに老人がいたらよくないと思ったのかもしれない。いずれにしてもこのふたりはそこで永遠に別れることとなった。フェルナンデスの耳には、二人が別れ際につぶやいていた、「Agur. Aurrera goaz.」というバスク語の響きだけが残っていた。
あとひとつあった、とフェルナンデスは思い出す。いつか雪沙が言った言葉である。
「私もフランシスコ(ザビエル)も星の巡礼に出ることがなかったのだ。私の願いはサンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼に行くことなのだが、もうこの年齢では厳しいな」
確かに雪沙でなくとも、ここからサンティアゴは果てしなく遠い。フェルナンデスは微かな郷愁とともにそう思ったのだった。
トーレス司祭はもう少し詳しく雪沙のことを知っている。故郷のヴァレンシアではボルハ家というのは最高の名家だったのだ。イタリア語読みではボルジアになる。ボルハの家は二人の教皇を輩出した。二人目の教皇アレクサンデル六世の息子、チェーザレ・ボルジアのこともしばしば耳にした。その栄光と没落の人生についてもだ。
ただ、雪沙がすでに尾張に去って以降も秘密裡にいくつか情報は入ってきた。もっとも驚くのは
チェーザレ・ボルジアの弟の孫であるフランシスコ・ボルハがチェーザレを探していることだった。ボルハの孫がどのように雪沙のことを知ったのかは分からない。ただ、他から知った話によれば前の教皇パウルス三世も内密にチェーザレ・ボルジアの行方を探させていたという。1507年に死んだというのが公式な記録で墓所もナヴァーラにある。それでも、生死の真否に疑いを抱く人が多かったということだろう。細く切れそうな糸を手繰り寄せて、日本にまでつながっていると想定できたのだ。
今やフランシスコ・ボルハはローマでも有名だった。
ヴァレンシア、いや、スペインきっての名家の長であり、皇帝カール三世の廷臣というたいへん誉れ高い地位にいた人である。それにも関わらずすべて息子に譲る手はずを整えると、イエズス会に入会したのである。積極的にイエズス会に寄付をおくり、ローマ学院(のちのグレゴリアン大学)創立にも多大な貢献をした。じきにイエズス会スペイン・ポルトガル地域の管区長になる。ローマではその経歴から枢機卿に推す声さえ出たという。フランシスコはそちらは固辞している。
「私は東方宣教のお役目をいただきたいのです」
フランシスコが望んだのは、もちろん金でも組織での高い地位でもなく、東方宣教のミッション(使命)だった。しかし、彼ほどの経歴を持っているとそれは叶わない夢だった。ガンディア公爵という高い地位を持っていたのはこの場合、障害にしかならなかったのである。
フランシスコはチェーザレにどのような感情を抱くのだろうか、とトーレス司祭は思う。
祖父の兄だというだけではない。親戚だというだけではない。枢機卿でもあったのだ。教皇庁での役目を固辞したのはそのような過去があるからかもしれない。
皮肉なものだ。
高位の聖職に就きながら皇帝の力を求めたチェーザレと、皇帝の側近でありながら信仰のためにそれを手放したフランシスコ……一度雪沙とゆっくり話をしたいものだが、今は九州から出られない。間に合うのだろうか。
トーレス司祭は深いため息をついた。
⚫
雪沙はここのところ足腰が弱っているようだ。務めて動くようにはしているが、昔のケガが響いているらしく特に腰に痛みを覚えるようになった。美濃に戻った帰蝶も度々痛み止めの薬を取り寄せて送っているが、劇的に改善する様子はなかった。
清洲城にいる織田信長にはひとつ思うことがあった。永禄五年(1562)のとある日、彼は主だった家臣を引き連れて、犬山の二ノ宮山に登った。
ここは尾張にある山の中では高いが、標高は300mには届かない。大懸神社(おおあがたじんじゃ)がいにしえより鎮座している。神社詣でかと思って付いていった家臣団に信長は言い放った。
「この山に築城するで、皆ここに家を移せ」
それから家臣一人一人に家の立地を次々と割り当てていく。いきなりの言葉に一同はびっくり仰天する。さらに次の言葉を待っていると、信長はそのまま背を向けて山を下っていってしまった。冗談なのだろうか、と一同は首をかしげる。しかし、翌日また家臣は同じように二ノ宮山に連れていかれ、信長から同じ説明を受ける。
「こんな山の中に清洲から家を移すとは難儀だもんでいかん」と一同は信長の命令に眉をひそめた。
中には、「お屋形さま、清洲のにぎやかな平地から、かような人里離れた山に城を築くなど、いくら何でも無理がございますで……」と恐るおそる尋ねる者もいたが、信長は「そうか」と言うだけでまともに聞いている風ではない。
家中一同が戦々恐々としていると、信長はまたあっけらかんと言ってのける。
「うむ、わしもちぃと思案した。二ノ宮では手間がかかりすぎるで、小牧山ならばどうでや」
小牧山ならば川づたいに荷物の運搬が比較的容易にできる。それに、小牧山の標高は90mに届かない。連日二ノ宮山に登らされていた家臣らは、信長の提案に一も二もなく乗った。
これだけあっさりとお屋形は意見を変えたのだから、また面倒な方にならないとも限らない。美濃との戦いに備えて山城がよいと考えているところまでは分かるが、いきなり高い山に城を築く必要はないだろう。また考えが変わらないうちに、小牧の方にしてもらった方がいいーーということである。
信長の作戦勝ちである。
彼は初めから小牧山に城を築くと決めていた。ただしその肚は決して見せない。条件の厳しい案を最初に突きつけて、皆が困っているところに本来の案を出す。一同は懸念していたのを理解してもらえたと喜ぶし、本来の案の方に喜んで賛成するだろう。
そのようないきさつで、清洲城から小牧山城への移転が決まったのだった。かつて平手政秀が領していた土地、今は雪沙が庵を結んでいる。
美濃に対峙するのに適しているというだけではなく、信長の胸には去来する思いもあったのだ。
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