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第10章 ふたりのルイスと魔王1
抹香を投げつける 1551年 尾張国那古野
しおりを挟む〈織田信秀、吉法師(織田信長)、平手政秀、帰蝶〉
天文20年(1551)三月、尾張国那古野(なごや、現在の愛知県名古屋市)の万松寺でしめやかに葬儀が執り行われようとしている。
多くの人が肩衣と袴の正装に身を包んで、沈黙のうちに弔いの時を待っている。この葬儀のために呼ばれた300人の僧侶が続々と寺に入り、堂内に整然と着席していく。尾張国のめぼしい僧侶はみなここに集まっているようである。
これだけ盛大な葬儀はなかなか見られない。遠巻きに人々も集まりひそひそと話をしている。
「病で伏せられとったとは知っておったが、まことあっけないこと」
「ずいぶんと加持祈祷も頼んどったで」
「跡継ぎはやはりあの大うつけ殿であろうか……」
◆
このとき、尾張国は八郡からなり、守護斯波(しば)氏のもと、守護代である織田信安・達勝を筆頭に織田家の係累が要職を占め国を治めていた。
尾張の下半分を預かる達勝の下で奉行をつとめていたうちの一人に織田信秀という人がいた。この人はたいへん有能で、人を束ねていくだけの器量があり、近隣に攻めいってくる土豪ら、あるいは駿河に本拠を置く今川氏配下の軍勢と小競り合いを重ね、それを打ち負かしていく。そのうちに奉行としてだけではなく、守護代である宗家を凌ぐほどの力を得るようになった。それでも、信秀は宗家と敵対することは極力避けて家中を切り回していた。
信秀には多くの男子がいたが、側室の子である一男と二男には家督を継がせないと決め、三男に白羽の矢を立てていた。三男は継室の土田御前(どたごぜん)の子である。
信秀は那古野の地に城を築き、嫡男となった三男坊の吉法師を住まわせ、自身は熱田の近くの古渡城に移った。もちろん、三男が跡継ぎであることを念頭においていたからである。それだけではない。吉法師には次期当主として、古株の家臣団を付けた。すなわち林秀貞、平手政秀、青山与三右衛門、内藤勝介らである。彼らは家臣であるが、何より吉法師の教育役であった。
この環境は少年にとって窮屈なものだったらしい。彼は那古野から西方の津島神社に学びに出ていたが、まっすぐ帰って来ないことも多かった。聞けば、長良川の河原であまり風体のよろしくない輩とつるんでいるという。家臣らは厳しく咎めるのだが、一般的に、道を外れそうな若者にそれは逆効果である。官職でいうならば守護代奉行、その嫡男に求められる折り目正しい青年の像からはどんどん離れていくばかりである。
家臣の説教は流していたものの、当の吉法師はむやみやたらと反抗するほどではなかった。仲間からは豪放磊落、闊達な男と認められている。何より彼は身分の違いで人を判断することがないので、一目も二目も置かれる存在になっていた。
この頃の吉法師の出で立ちは、控えめにいってもかなり奇抜なものであった。まず、頭髪は紐でぐるぐると縛り、頭頂でひっつめた茶筅髷である。さらにそれをくしゃっと広げていた。上半身は浴衣を脱ぐ途中の体で肩を丸出しにし、袴は膝から下が見えるほどの短いものだった。腰には縄を巻いて刀を差していた。
もっとも簡単にいうならばその装束は、無法者、荒くれ者と変わらなかった。
ただ、彼は豪放磊落に狩りや遠乗りに興じるかと思うと、突然一人で沈思黙考することも多かった。そのようなときは仲間も声をかけるのをためらうほどである。そのようなときに何を考えているのかは、仲間にも告げることはなかった。
家臣平手政秀が万事支度を整えて元服を迎え、吉法師は「信長」という名を与えられた。彼は「上総介」(かずさのすけ)という官名を気に入り、そう呼ばれると嬉しそうに返事をした。
信長の父・信秀はそれから2年のちに体調を崩した。高熱にうなされなかなか回復しない。40をいくらか越えたばかりで壮健だったが、衰弱の度合いは激しかった。もともと持っていた不調ではなく、流行り病かと思われる。すぐに僧らが呼ばれ加持祈祷が昼夜を分かたず行なわれた。
効果はなかった。
天文20年3月3日、織田信秀はこの世を去った。
◆
葬儀には信長の妻も座している。
美濃の齋藤利政(のち道三)の娘、帰蝶という。信長の元服と前後して嫁いできたのだが、外に出たきりなかなか戻らない夫とはまだ心を通わせるに至らない。美濃と尾張の間の取り決めで整った婚姻なので、それはいたしかたない面もある。帰蝶もそれをよく分かっているので、いざとなれば美濃に帰るぐらいの心持ちでいる。
それにしても、父親の葬儀の日で織田家一同のみならず、尾張じゅうの僧侶が集まっているというのに、帰蝶の夫の姿はどこにも見えない。
「自分の父の葬儀だというのに、上総どのはいったい何をしとるのか」
帰蝶は小さな声でつぶやく。
他の子どもたちはすでに勢揃いしている。特に信長と同母の弟である勘十郎は折目正しい肩衣に袴姿、他よりも堂々とした姿である。ふたりの母、帰蝶の姑である土田御前(どたごぜん)は神経質にちらちらと来た方を見やっている。
「ああ、またお義母上の血の気が上ってしまう」と帰蝶は心の中でつぶやき、視線をふっと反らす。見ていて気持ちのいいものではない。
「われら夫婦は国同士の取引として割りきっている」といえなくもないが、義母と夫の間にはどうにも埋めようのない深い溝がある。
これはどうしたことなのかと帰蝶は思う。自分の産んだ子を溺愛し、他を邪魔扱いにするというのは珍しくない。太古の昔からあることだ。しかし夫とその母は実の親子なのだ。それなのに仲が悪い。いや、仲が悪いというよりは、土田御前が信長を蛇蝎(だかつ)のごとく嫌っているという方が正しい。弟の勘十郎はそのぶん母の愛を独り占めしているのだが、それは帰蝶にも理由がわかる。見るからに素直な青年で、信長とはまったく違うから。
蛇蝎の妻はやはり蛇蝎なのか、土田御前は帰蝶にも親しみを感じていないようだ。
「まあ、私は蝮(まむし)の娘でもありますで、何やらとぐろを巻いているように見えるのでしょうなあ」
坊主が憎ければ袈裟まで憎いという感情なのだろうと諦めるしかなかった。
ただ、帰蝶はバサラな風体、振る舞いをしている夫がそれほど嫌いではなかった。彼女からすれば、気取ってすましている方が得体の知れない感じがする。
そのように人を見る目が養われたのはひとえに父親の影響だろう。父親の齋藤利政(のち道三)は深謀遠慮の人で武士の身分でないところから美濃一国の実質的な支配者になった。帰蝶にとってはよい父親だったのだが、たいていの人間にとっては油断のならない「蝮」だった。
その父は信長のことを買っている。父は自身と何かしら相通じるものを感じたのだろう。帰蝶はそう思って夫のことをよく観察しているのである。
それにしても、遅い。
土田御前だけではない。家臣も一族郎党も不安そうな様子をしはじめた。僧侶はすでに読経を始めている。信長付の御守役の家老、平手政秀はすでに人を出し呼びに行かせている。真にイライラしているのは彼に違いなかった。その平手のもとへやってきた男がひそひそと耳打ちする。それを聞いた平手は目をかっと見開いて葬儀の場である本堂の入口の方を振り返った。帰蝶もその異様な様子につられて後ろを振り返った。
そこには織田上総介信長が立っていた。入口から入ってくる陽光がその人を黒く浮かび上がらせる。そして、その姿が一同の目にもはっきりと映った。
帰帳は思わず息を飲んで、平手の方を再び見た。
平手は苦虫を噛み潰したような顔をして、自身のあるじを見ていたが、すぐに向き直った。
その姿は葬儀の正装からはかけ離れたものだった。
長柄の太刀と脇差は帯替わりの荒縄で腰に巻き付けられている。上衣はかろうじて小袖を着けているが、もちろん肩衣はない。
何より彼は袴を着けていなかった。
誰もこの場で声高に文句を言えるものではない。
妻の帰蝶も、いつもと変わらぬ夫の装束は理解に苦しむものがあった。しかし、夫はうつけではあるが、頭が悪くはないことを彼女はよく知っていた。これは何かしら、夫の意思表明のようなものではないだろうか。
その意思がどこにあるのかはわからない。
読経の声は高く低くこだましている。
そして、焼香のときになった。
嫡子の信長はゆっくりと立ち上がる。
そして、大股でつかつかと仏前に進む。
彼は父の遺骸の前に立つ。
そして、一瞬手を合わせると、右手で抹香をつかみ、それを仏前に投げつけた。
彼の一挙手一投足を眺めていた参列者一同は息を飲んだ。
それを目にした僧侶の一部は驚いて読経の声を止めてしまった。土田御前は遠慮なく眉をひそめ、平手政秀は天を仰いで目を瞑り、弟の勘十郎は目を丸くしている。帰蝶はその様子をつぶさに見ていたが、夫の振る舞いが感情に任せたものではないことに気がついた。なぜなら、振り向いた信長が一同を堂々と見回していたからだ。
その目は帰蝶もとらえた。夫婦の視線がまっすぐぶつかる。そして夫はそのままつかつかと進み、そのまま本堂から出ていった。
その後の葬儀は表面上つつがなく執り行われた。
もちろん、葬儀が終わった後は非難の嵐がやってくるのである。
「あの罰当たりの大うつけが」
「跡継ぎがあのようなことでは、もうしまいだで」
「今後は考え直さんといかん」
そのような言葉が万人の口から飛び出している。
平手政秀はじめ信長付きの家臣は皆うなだれている。
そこに、一人の老僧がゆっくり寄ってきて、平手に声をかけた。
「あの方は見上げたものじゃ」
平手は目を丸くして老僧を見た。
「見上げた……?とは」
老僧は旅装束である。簑笠をかぶりながら、平手の問いに答える。
「拙は筑紫の者にございます。道中、何と土地の者らあの小競り合いの多かこつ、皆どちらに走っていったらええんかよう分かっとらんように拙には見えており申した。やけんが、あの方は場の空気をよきにつけあしきにつけ、瞬時に自分にまとめられようた。迷いばなか。あれは一流の将のなさること。まこと見上げたもの」
「時と場合はわきまえるべきかと存じますが」と平手はついこぼす。
「さようですな。その器量のほどはまだはかれんが」と老僧は会釈して去っていく。
帰蝶はふたりの会話を側で聞いていた。
そして、夫の器量はどれほどのものか、父に問うてみようと考えていた。
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