16世紀のオデュッセイア

尾方佐羽

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第9章 手折られぬひとつの花 カトリーヌ・ド・メディシス

もったいぶった愛人 1534年 パリ

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〈マリア・サルヴィアーティ、ナヴァーラ王妃マルグリット、フランソワ1世、カトリーヌ・ド・メディシス、王子アンリ、ディアンヌ・ド・ポワティエ〉

 フィレンツェの女、マリア・サルヴィアーティから見ると、フランスの宮廷婦人はあまり好ましく映らなかった。

 マリアは『黒隊のジョヴァンニ』、あるいは生粋の軍人の未亡人である。
 ジョヴァンニはメディチ家庶流のジョヴァンニ(同名)とカテリーナ・スフォルツァの子である。父は文芸を好む物静かな人だったが、母は違う。
 カテリーナ・スフォルツァはイタリア半島で名高いコンドッティアーレ(傭兵隊長)の家の出で、彼女自身もその名に恥じない女丈夫だった。領地フォルリの攻防戦ではみずから甲冑に身を包み剣を手に、雄々しく陣頭指揮を取ったのである。のちに零落して囚われの身になって以降は表舞台に出なくなる。それにともない息子のジョヴァンニとは疎遠になっていたが、スフォルツァ家の血は子に受け継がれた。

 そして、黒隊のジョヴァンニの血はマリアとの息子であるコジモに受け継がれている。

 マリアは夫を亡くして以降、息子の保護と養育だけに注力して日々を過ごしてきた。再婚の話も受けなかった。
 息子の養育中心に生きてきた彼女からすれば、カトリーヌに随伴してフランスに向かう話は青天の霹靂で、控えめに言ってもまったく気が進まなかった。しかし母ルクレツィアのたっての希望を受け入れないわけにはいかない。
 ただ、カトリーヌと同じ年齢のコジモは母なしで十分生活していけるようだった。それに老いたとはいえ、子どもをたくさん養育してきた母が付いてくれるのだ。そう思ってフランス行きに同意したのだ。

 今、パリに向かいながら、その決断は正しかったとマリアは感じている。

 カテリーナ、いや、カトリーヌには誰かが付いてやらねばならない。
 彼女は聡明だから、すでにフランス語は日常生活に支障がないほど習得しているし、宮廷のしきたりもすぐに飲み込むだろう。しかし、それでこの国の王族の一員として生きていくのは並大抵のことではない。フィレンツェとここはあまりにも違う。これまでどんな境遇にあってもくじけずに生きてきたと言っても、これでは早晩つらい思いをするのではないか。

 何よりも心配なのは、彼女の夫が妻を一向に顧みないことだ。マリアはすでに、彼女の夫アンリが愛人を持っていることを知っている。噂では肉体関係はないということだが、それが事実だとしてもアンリが愛人にぞっこんであることもまた事実である。

 このような男に、カトリーヌは一生を捧げねばならないのか。

 マリアは内心憤っていたが、それを表に出すことはしなかった。カトリーヌも、下衆な噂の内容を聞いていないにしても、夫の心のありかを不安に思っている。それを増長するようなことをしてはならない。
 じきに知ることになるのだとしても。

「こんなことなら、イッポーリトを焚き付けて、カトリーヌを連れ去ってもらえばよかったかもしれないわね」
 少々物騒なつぶやきをひとつ空に放って、マリアも床に付く。

 しかし、フランスの宮廷人がみな一様に「いけすかない」というわけではなかった。

 幸いなことに、国王フランソワ1世は初対面からカトリーヌを気に入って、旅の途上でもしばしば側に呼んで話をした。そして、もうひとりカトリーヌを高く評価する人がいた。

 王の姉、マルグリットである。
 マルグリットはこの5年前にナヴァーラ王に嫁ぎ女王となっていたが、婚礼に参列してカトリーヌの立ち居振舞い、会話にすっかり魅せられてしまった。マルグリットはもともと、イタリア半島の文学にたいへん深く興味を持っていた。特にボッカチオについては並々ならぬ熱意で翻訳に挑戦するほどだった。
 マルグリットはまだ14歳の少女が知るはずはないだろうと、ダンテやボッカチオの話題を出したのだが、カトリーヌはどれも想像以上の返答を出してきた。マルグリットはまるで子どものように興奮して、イタリア語やラテン語の解釈について矢継ぎばやに尋ねた。カトリーヌはあっという間にマルグリットの先生のようになってしまった。
 姉がカトリーヌにぞっこんになっているのを、フランソワ1世は微笑んで眺めている。

「これでは姉上の滞在用に、イタリア様式の城をもう1つ建てなければならないかもしれないな」
「そうね、カトリーヌ付きでお願いしたいわ」
「姉上、カトリーヌはアンリの妻として来てもらったのですぞ」とフランソワ1世は苦笑する。

 ロワール川に沿って旅をする日々にも終わりがくる。
 カトリーヌにとってはそこからが始まりになるのだが。

 ブロワ城での滞在を経て、1534年2月9日に一行はパリに着いた。
 さっそく居城に荷が運び込まれ、カトリーヌも、「ようやく息がつける」と内心思いながらマリアと話をしていた。そこに近寄ってきた女性がいた。高く結い上げられた髪に頬紅が際立つ派手な化粧、胸の谷間がくっきりと浮かぶ水色のドレス。真冬なので羽織ものを付けているが、胸元は寒さを感じないようだ。

 マリアは彼女を見ると目を吊り上げた。
 その視線を感じたのか、感じなかったのか定かではないが、相手はゆったりと歩いてきてカトリーヌに向かってあいさつをする。
「カトリーヌさま、なかなかきちんとごあいさつする機会がありませんでした。今を逃したらもうごあいさつではなくなってしまいますし、そうなったらとても失礼なことかと、わたくし慌ててまいりました。わたくし、ディアンヌ・ド・ポワティエと申します。フランソワ様から聞いていらっしゃるのかしら……えーと」
「ディアンヌさま、失礼ですが王陛下からはよく伺っていないのです」とカトリーヌは明快に答えた。
「あら、そうなのですか。そうなのですね。みずから名乗るというのも何かずううずうしいと思うのですけれど、でも今しか申し上げることができないのですから、申し上げますね。実は、わたくしの祖母と、あなた様のお祖父様はきょうだいなのですよ。それを知らせてくださらないなんて、フランソワ様も意地悪でいらっしゃるわ」
 マリアはいらいらしていた。

 何てまどろっこしい言い方をするのだろう。
 ディアンヌ・ド・ポワティエ。
 王子アンリの寵愛を受ける女。
 カトリーヌがいなければ、石をぶつけてやるのに。

「ああ、遠縁のかたがいらしゃるというのは聞きました。そうですか、今後ともどうかよろしくお願いします」とカトリーヌは素直に、笑顔で答えた。
 マリアは目を吊り上げたままである。
「そうなのです。ですので、わたくしがフランソワ様におすすめしたのです。アンリ様のお相手にカトリーヌ様はいかがでしょうと。おめでたいことにそれが現実になって、わたくし、天にも昇る気持ちですわ。どうか末永くわたくしもごひいきくださいませ」
 マリアはさらに険しい顔になる。

 さっそく、自分の立場が上だといわんばかりの、謙遜しながらも高慢なことはなはだしい言いよう。何様のつもりなんだろう。

「ディアンヌ様、カトリーヌ様は疲れています。お話はこれぐらいに」とマリアがピシャリと空に平手打ちをするように告げた。

「ああ、たいへん失礼をいたしました。それでは、ごきげんよう」と言ってディアンヌは去っていった。

「どうしたの、マリア? まるで興奮した雄牛のよう」
 驚いたカトリーヌの言葉に、マリアははっとする。
「ああ、ごめんなさい。私は年不相応に飾り立てた女性は好まないもので……」
「あのかた、そんなに歳上なの?」とカトリーヌが尋ねる。
「ええ、聞くところによれば、私と同じ歳だそうで……」
「それは、確かに、少し飾り立てすぎかもしれないわね」とカトリーヌが目を丸くする。


 これからやってくる嵐の前触れだった。
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